第18話 過去の約束

 俺は瀬崎せざき結衣ゆい一枝いちえだ果林かりんの人物像をより深く掴もうと、プレハブ造りの事務所の中で、以前目を通したプロフィールシートをもう一度読み始めた。


 提出時点で監督がチェックしているし、提出後は、あの雨の日にソフィが鬼速いブラインドタッチでデータ化してくれた。だから隅から隅までしっかり読み込んではいなかったんだ。



「結衣は幼稚園の頃からレポロに入ってたのか。さすがに経験は長いな。小学校は公立――、チサや果林は私立川舞かわまいの初等部だから、二人との接点はレポロだけ――ってことになるかもな。…………ん、これは?」



 独り言の最後、思わず放った疑問形の言葉に、ソフィが素早く反応してくる。



「どうしたの?」


「いや、瀬崎の保護者欄が……」


「ひょっとして、知らなかった?」



 普通、両親のどちらかの名前が書いてあるはずのそこに、地域内にある児童養護施設の法人名が記載されていた。



    ●



 本当に、高校が通信制というのは融通が利いて助かる。……勉強しなくて済むわけでは、ないけれど。


 自学自習というのはちょっと眠くても自動進行なんてことはなく、やったらやった分進み、やらなければやらなかった分、止まる。この当たり前の現実が意外と厳しい。おこたれば自分に返ってくるだけだ。


 それでも優先順位を付けるなら、こっちが先だろう。



「本当に行くの?」


「話を聞いてみるだけだよ」



 月曜日の昼間、俺は瀬崎のプロフィールシートに書かれていた児童養護施設へ足を向けた。


 すでに電話をして事情は告げてある。


 躊躇なくインターホンを鳴らし、



「すみません。昨日お話しした等々力とどろきですが――」


「ああ、結衣ちゃんの。ちょっと待ってくださいね」



 しばらくすると玄関ドアが開いて、中から優しそうな女性が現れる。



「いらっしゃい。ささ、中に入って」



 電話口の印象で人当たりの柔らかい人だなと思っていたけれど、実際に会って温和な表情を見ると更にその印象が強まった。


 施設の中へ招かれて、応接間のようなところへ通される。二人掛けのソファが一つ、一人掛けのソファが二つ。


 手前側にある二人掛けソファに、俺たちは腰を下ろした。



「改めまして、私は児童指導員の矢野やのです。レポロさんには、もう何年もお世話になっているわ」


「――と、言うと?」



「最初は啓太くんのお父さんが、ボランティアで施設ここにサッカーを教えに来てくれていたのよ。でも、レポロさんのほうも段々忙しくなってきたでしょう? そうすると今度は、施設の子供をほとんど無料ただで受け入れてくれて――。施設に預けられている子供は、親から金銭的な援助を受けている子も、受けられない子もいる。分けへだてなく習い事に参加できるというのは、子供たちにとって凄く良いことなの」


「親父が……そんなことを?」


監督ボスは人格者ね!」



 やると決めたら家族を顧みないこともあり、常識破りが常のような親父だったけれど……。


 こういう方向に常識を破ってくれるのは、子供として誇らしく感じられた。



「お父さんと一緒に啓太くんも来ていたのよ。凄く上手で、結衣ちゃんなんていつも啓太くんのことを話していたぐらい。――憧れていたんでしょうね」


「俺がここに……?」



 話から察するに、小学校低学年の頃。多分、二年生ぐらいだろうか。


 この頃は親父に連れられて色んなところへ行っていたから、一つ一つを詳細には覚えていない。



「……ああ、でも、どこかで凄くなつっこい女の子がいたのは、なんとなく覚えています。確か…………」



 この施設ではないかもしれないが、想い出の端っこのほうに、小さな女の子がいることに気付いた。



    ●



「お兄ちゃんは、こーちゃんのお兄ちゃんだよ!」



 そこには年上も年下も、とにかく子供が何人もいて、賑やかだった。


 しかし俺のことを『お兄ちゃん』と呼ぶ幼稚園児の女の子が、俺の周りにずっと付きまとっていたことで、同じく幼稚園児だった心乃美がその女の子の前に立ちはだかったんだ。



「お父さんとお兄ちゃんは、サッカー教えに来てるんだよ!」


「ユイも妹になるの!」


「絶対だめ!」



 で、なんだかんだ言い合った挙げ句、二人は勝負することになった。もちろんサッカーで。


 今の実力はさて置き、この頃は心乃美が経験者で結衣はほとんど未経験者と言っていい。それで心乃美が、結衣をボコボコにしたんだ。



「わかった? お兄ちゃんの妹になりたいなら、こーちゃんを倒してからにして!」



 ラスボスの前に立ちはだかる四天王みたいな台詞に、結衣が反発する。



「じゃあユイは、こーちゃんよりお兄ちゃんより上手くなって、お兄ちゃんのお嫁さんになる!!」


「それなら、いいよ!」



    ●



 ………………………………おぅ。


 子供って怖い。なに勝手に話進めてんだ。



「思い出した?」


「はい。結衣が……その……」


「啓太くんのお嫁さんなる、って、いつも言っていたわね。ふふっ、懐かしい」



 隣で日本茶に舌鼓を打っていたソフィが、そのお茶をブハッ! と吹いた。まあ今の結衣からは想像もできないわな。


 しかし、そういう風に交流を持っていたということは、ひょっとして俺と同じ世代にもこの施設で暮らす子がいたのかな。


 自分のことや勝敗だけでなく、もうちょっとチームメイトに関心を持っても良かったのかもしれない。



「これまでも、今でも、レポロさんでお世話になっている子供は何人もいるわ。結衣ちゃんの世代は、結衣ちゃんと、あと男の子が二人。皆、今もレポロに通っている。――昔は結衣ちゃんが一番上手くて皆のリーダーで……確か――――アズール・フォックス……だったかしら? 小学校五年生の終わりぐらいには可笑しな名前で有名になっていたわね。ふふっ、本人は気にしてないみたいだけど、そうやって呼ばれるほど上手いってことよね」



 また妙な二つ名が出てきたな……。


 しかし灼髪の雪姫ストロベリー・スノウはまあ何となく意味がわかったけれど、今度はどういう意味だろうか。



「ソフィ、イタリア代表のことをアズーリって呼ぶけれど。あれは青って意味だよな?」


「アズーリはイタリア語の青。アズールはフランス語の青……だけど、アズーリだと空っぽい明るいイメージで、アズールは紺碧とか深い色の感じかな。――――あっ、結衣の髪じゃないかな!?」


濡烏ぬれがらすか――。そっちはまあわかるんだけど、じゃあフォックスってのは……? 確かに猫とか狐っぽい系統の顔だけどさ」


「んー…………。二つ名に動物の名前が使われてることは少なくないよ。狼、わし、猛牛、はやぶさ、獅子、ひょう――」


「そういや銀狐シルバー・フォックスっていうのもあるな」



 まあどっちにせよ、二つ名付きになるぐらい抜きん出ていたわけだ。紺碧の狐アズール・フォックス…………羨ましいなぁ。俺も髪染めたら二つ名付くかな? そんなんじゃ一時的なものだし、簡単には付かないわな。



「そう――――結衣ちゃんは凄かった。……だけど、最近はちょっと…………」



 続けて矢野さんの口から紡がれた話を聞き続けると、瀬崎結衣の置かれた立場がいかに難しいものか理解できた。


 この施設では小学生に関しては、あまり男女は分け隔てなく育ち、仲が良いそうだ。生活領域は別れていても遊びでは一緒であったり……。


 その中で瀬崎結衣という少女は同世代を引っ張っていくリーダー的存在で、特にサッカーの上手さでは尊敬や畏怖に近いものを受けていた。しかし――



「中学生になると、色々と難しくなるの」



 そういう関係性が、中学生になって成長と共に崩れていった。


 今の混成チームで結衣の背番号は三十一。二年生に限っても最後のほうだ。この事実が表すように、サッカーにおいて瀬崎は、絶対的な存在ではなくなってしまった。


 見ている限りでは、三年生の間に入ってスタメンに食い入ることは難しくとも、優先順位の高い交代要員、十番台でも全くおかしくない実力のように思える。もちろん身体的な能力フィジカルも込みで。


 けれども、そこは監督の判断だから俺にはわからない。



「今の結衣ちゃんは、毎日走って……。特に四月からは二つのチームに入っているから、休みがないでしょう? 自分の持っている殆ど全ての時間をサッカーに捧げたい……。その気持ちは痛いほど伝わってくるのだけれど、頑張りすぎているんじゃないか――って、心配になるわ……」



 混成チームと女子チームの練習日は、グラウンドの有効利用のために日曜以外の曜日をずらしてある。


 その日曜も、時間が違う。


 確かにこれでは週七日の練習参加となり、休む時間が全くない。その上で自主練習もしているとなれば、オーバートレーニングにならないか心配だ。



「結衣は、男子にも負けたくないという気持ちが、人一倍強いように思えます。どうしてそうなったのか……」


「ユイの小さい頃の話、もっと知りたいです!」



 とうやら、思っていたよりも原因は根深そうだ。


 どこまで首を突っ込んでいいのかは、わからない。でも俺達は、それを知るためにここを訪れた。



「小さい頃は、勝ち気で、負けず嫌いで……、自分が正しいと思ったら、年上にも面と向かって立ち向かう子だった。でも反面、凄く面倒見のいいところもあったわ。皆のお姉さんというか、お母さんというか……そんな感じかしら」



 勝ち気で負けず嫌い――というところは、今の印象と全く変わらない。


 しかしチサや果林に対する言動を見ていると、あまり面倒見がいいようには思えないかな……『年下に負けてたまるか』という負けず嫌いの面が勝ってしまったのだろうか。


 ――――いや、でも確かチサは、結衣に教えられながら上手くなったんだ。ならやはり――少なくともその当時については面倒見がよかったのだろう。


 俺達は瀬崎結衣という少女の成り立ちについて、矢野さんが話せる限りの話を聞く。


 最後に、結衣がいつも朝の何時頃に走っているのかを訊いて、施設を後にした。

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