後篇④
終始剣呑さが拭えないまま、時が過ぎる。かの少年についての話はすでに纏まっているのに会議は終わらず、互いが互いを糾弾し合うだけの口論大会に移り変わっていた。参加者は主に岡崎と東坂だったが、弓敦と小浜もそれぞれの後援に回っており姦しかった。
暴力に訴えないだけまだましか……と、増え続けるギャラリーを見ながら兼吉は思う。こうなってしまっては気が済むまで誰にも止められないと知っているのか、議長は進行役を放棄して『もう好きにしてくれ!』と言わんばかりの態度で椅子から動こうとしなかった。
もう、退室してもいいのだろうか。いや良い訳ないなと自問自答しながら、兼吉は弓敦の腕を掴んで抑制を続けている。彼を放っておくことも出来なかったが、気がかりはもう一つあった。斜め隣の東坂称壱だ。心ここにあらずといった感じが否めず、かつての凛々しさは微塵も窺えなかった。覇気がなく、健康を害しているとしか思えない顔色で、彼は本当に大丈夫なのだろうかと心配になる。
「東坂」
心配のあまり思わず声を掛けてしまい、『何をしているんだ』と自責した。対立している以上は声を掛けたところで応えてくれるとも限らず、また睨まれるのか――と思うと息が詰まった。まあ、苗字で呼んだだけまだマシか。無理に納得して様子を窺っていると、予想に反して称壱はパッと跳ねるように顔を上げた。無視されなかったことが嬉しくて口許が緩みかけたが、彼の表情を見て止めざるを得なくなった。明らかに怯えている。青ざめたまま見開かれた瞳の揺れ様が、堪らなく痛ましかった。
眉を顰めた兼吉を見た称壱は、戸惑っていた。声を掛けられたことには安堵したが、どうにも違和感が拭えない。普段から名前で呼ばれていただけに苗字呼びは耳慣れず、やはり八年間の思い出は空想だったか? と不安になる。兼吉の表情の意味は、哀れみか不快か。どれだけ繰り返しても終わらない区別に辟易してしまった称壱は、全てを無に帰すと決め、冷然とした態度に切り替えた。
「何か、三笠大尉」
歓喜も束の間、開戦以来の態度に戻ってしまった称壱との交流を諦めた兼吉は、続ける会話の内容を考えた。学生時代のような反応を貰えたなら、体調は大丈夫なのかと尋ねるつもりだった。けれど返事をしたのが《東坂大尉》である以上、そんな日常会話を交わすわけにもいかなかった。何を問うても、冷笑しか返ってこないに決まっている。
「彼にどのような教育を施すのか、その概要を教えて頂きたい。学舎と家とでの空気が違い過ぎては、岐山少年も戸惑うだろう」
上官たちは取り込み中のようだからと続けて、兼吉は称壱の答えを待った。まあ無難だろうと尋ねたが、本当は聞かなくても分かっていた。『軍事国家たることが至高』だという今の方針を賛美する、所謂《保守派》の代表格である東坂が、操作しやすい身内を推してきたということは皇国教育を施すということなのだろう。自分たちが学生だった頃もまあ酷い抑圧だと思ったが、開戦した今となっては、その苛烈さは更に増していた。
国産のもの以外は受け付けず、外来語は原則禁止。
男子は軍人に、女子は看護師になり侵略戦争を支えることを推奨する。
軍事国家として力を誇示し続けることこそ至高であり、その指揮を執って下さっている陛下に日々感謝し、敬愛せよ。
その命は個人のものではなく国家のものである。それらは全て繁栄のためにあり、主君に捧げるために在る。
娯楽に興じるなど以ての外。一分一秒と無駄にせず、その全てを、命さえも公に捧げよ――。
こんな滅茶苦茶な言葉を並べ立てて、「これが当然である」といった体で無垢な罪なき子供たちを洗脳していくというのだから恐ろしい。更にそれが、国家という巨大組織によって行われているのだという事実が未だに信じられなかった。あの頃はまだ暗黙の了解程度のものだったのに今では必須要項で、これを護らなかっただけで社会的にも肉体的にも殺されるというのだから、いよいよ本格的に狂ってしまったのだと危機感を抱かずにはいられなかった。
罰に怯え、言いつけ通りに従うしかないのなら、それはもう奴隷に等しい。希望を持って生まれたはずの、様々な選択肢を持ち得たであろう子供たちを戦争用の奴隷に仕立て上げるだけの教育なんて教育ではない。
お前はどういうつもりだ? かの少年にも同様の教育を施すのか? それとも敵国の血を持つからと、家畜同然に扱うつもりか? 兼吉は真摯な目で称壱を見つめ、彼の出方を窺っていた。期待は勿論ある。かつては同じ夢を見、苦楽を共にしあった称壱なら今でも同じ未来を目指してゆけるのではないかと期待せずにはいられなかったが、如何せん自分には、今の彼が何を考えているのか全くわからない。
相変わらず表情を崩せない称壱は、無表情を必死に作り込んで兼吉の鎖骨あたりを見詰めていた。取り乱してしまう自信だけはあって、目は合わせられなかった。――やめろ、そんな目で見るな――。こちらを真摯に見つめ続ける兼吉に耐えられず、不自然に目を反らしながらどうにか声を絞り出した。
「どんなも何もないだろう」
閊える喉を強引に開いたせいか声が掠れ、震えてしまったが構わなかった。早く答えなければという強迫観念に囚われており、ただ漠然と急いていた。重要なのは、波風立てない回答をすること。そうすれば一時は平穏だと、称壱はいつもの通りに予め用意しておいた文句の中から適当なものを選び、事務的に口にした。
「極東の高等教育行程を実施する。その他の一般教養についても同様だ。脱俗していて無垢だというから、まずはこの国の至高が皇帝陛下であると教える必要がある。その次は兵役の義務について。敵国の血を継いだ不純物だが、この極東に住まう人間である以上は例外なく国に殉じて貰う。国家繁栄のためには侵略戦争が不可欠であり、そのために命を散らすのは国民の本懐。公私共にその身を陛下に――」
暗唱するかのように抑揚なく吐き出された言葉は、最後まで言い終えることはなかった。
称壱が気付いたときには椅子からずり落ちており、じんと頬が熱かった。殴られたのだと理解できたのは、ゆっくり視線をあげた先に立ちはだかっている兼吉の形相を見てからだ。普段は温厚で大人しい彼が、怒りを露わにするのはとても珍しい。そうか、俺は兼吉の逆鱗に触れてしまったのか。驚きで呆然としてしまった脳は緩んだままで、特に大きな動揺もなくぼんやりと見上げていた。
「東坂……! 貴様は青少年に死ねと教えるために教職に就いたのか……!」
兼吉は失望していた。勝手に期待しておいて失望もクソもないし、彼の虚ろな目を見れば、それが決して本心ではないことくらい分かっているつもりだ。問題は、彼の《中身》がなくなってしまったこと。今なら武吉が言っていたことがよく分かる。兼吉は失望していた。力に屈してしまった称壱に、そうせざるを得ない社会に、彼を消してしまった指導体制に、少しも気付けず救けてやれなかった自分自身に――。
「馴致不能の気狂いが遂に本性を現しおった! 見ろ諸君、これが不穏因子の……《革新派》のやり方だ!」
普段は温厚で、何をされても手を上げなかった兼吉の暴力に一同が愕然とする中、東坂だけは待っていたと言わんばかりに噛み付いた。声を荒げ、揚げ足を取るかのようにがなりながら兼吉を指差す様は稚拙だったが、それを指摘するだけの余力が兼吉にはない。代わりに反応したのは、終始過剰なアピールを受け続けていた岡崎だった。
「陰湿な行為を繰り返されれば、不穏因子でなくても不快に決まっているだろう! 監視、盗聴盗撮、誹謗中傷……お前たちがうちの三笠や上巻にしてきた行為こそ卑劣極まりない、恥を知れ、腐れ外道!」
七課ではにこやかな岡崎も、遂に堪忍袋の緒が切れたのか激昂しており、戦線以来の威圧感を前面に押し出して東坂に掴みかかっていた。
乱闘寸前の会議室であったが、当事者である兼吉と称壱の間は静寂だった。兼吉は理不尽な暴力を振るったことへの自己嫌悪に苛まれていたし、称壱は思考能力が鈍って何も考えられなかった。ただひとつ解るのは、戸惑いながら制止するように兼吉の肩を抱いた上巻弓敦が、憎らしいほど羨ましいということ。そこは俺の場所だったのに。何度思ったかも分からない思いが再び湧いたが、哀しいやら寂しいやら不快やら情けないやら様々な感情が交ざり合い、一周回って平坦な気持ちだった。
体を震わせ奥歯を噛み締め、苦痛に顔を歪めながら耐え忍ぶ兼吉を呆然と見上げた称壱は、物凄い剣幕で取っ組み合いながら喚く伯父の口角が上がるのを、まるで他人事のように傍観していた。
※
岐山イヅルを迎える日取りが決まって、兼吉は兵庫へ向かうための支度をしていた。憲兵数人も同行するというから、道中に何かあるのだろうと予感して遺書でも残して行こうかと思ったが、止めた。自分の身近には、遺書を嫌う人ばかりが揃っている。紗代子もその例外ではなく、未だに武吉の遺書に触れようともしない。弓敦や宮名に至っては、読まずに破くのだ。
けれど棄ててしまうわけにもいかないので、バラけたものを箱に放り込んで保管するという、少し変わった付き合い方をしている。死者が言えなかった最後の言葉を託された親書だと思えば愛おしく、嫌いになれない兼吉には、彼らの気持ちはよく理解できなかった。
称壱を殴ったあの日、何らかの形で処分されるものだと思っていた。《保守派》の連中から良く思われていないことは前から知っていたし、粗探しのために一挙一動を具に監視されていた記憶も常にある。それらの元締めは東坂であり、その甥子に危害を加えたのだから、あの日の出来事は好機以外の何物でもなかったはずだ。
目障りな厄介者を始末するには良い日だったのに、予想に反して反省文の提出だけで片が付いた。しかし、これだけではないだろう。御上からの処罰がその程度だったとしても、七課を目の敵にして止まないあの《保守派》連中が黙っているとは思えなかった。
いま兼吉は、七課の室内に一人でいる。岡崎は弓敦を連れ立って外出しており、駒田と宮名にも、ちょっとした用事を言いつけて遣いに出した。二人は揃って『一人になるのは危険だ』と言ったが、一人になる必要があった兼吉には何ら問題のないことだった。この課は全員に諜報活動の経験があるせいか、なかなかに目敏い。自分が何をしようとしているのか、何を思っているのかを察してしまったらしい二人は、遣いを渋って出ていこうとしなかった。
嫌がって牙を剥く子猫のような駒田と、半泣きで離れようとしない子犬のような宮名。そのどちらも可愛くて甘やかしたくなったが、ここは心を鬼にせねばと思い留まる。「それは大事なものだから、しっかり届けてくれ」と配達係を命じたが、やり遂げてくれるだろうか。――いや、部下を疑うのはよくないなと柔く笑んで、すっかり片付いた机を見下ろした。
「三笠……!」
妙に清々しい気分でいた所に、慌ただしく駆け込んできたのは弓敦だった。青ざめて息を切らした彼は、兼吉の姿を捉えて少し安心したようだった。酸欠のせいかやや虚ろになった目をこちらに向けたかと思うと、休む間もなく詰め寄った。
「どうした上巻、岡崎先生に何かあったのか」
「違う、あの方ではなくお前だ。今すぐここから逃げろ、三笠。お前はここで失うには惜しい人ざ――――」
弓敦の言葉は最後まで紡がれることなく、その代わりにくぐもった破裂音が耳を劈いた。嘗て上海で嫌というほど聞いたもので、銃声であることは即座に理解できた。が、この状況は全く理解できていない。
白目を剥く要領でぐぐっと瞳を持ち上げながら、急激にがくりと崩れ落ちた弓敦の頭は割れている。即死であることに違いはなかったが、万が一ということもある。追撃に備えて身を守るよりも弓敦の安否確認を選んだ兼吉は、机を乗り越えて駆け寄ろうとした。が、机上で見たものに息を呑み、嘆く。扉の影から現れ室内に侵入してきたのは、よく知った東坂称壱だったからだ。
「……称壱……」
酷く冷たい能面のような顔をした彼の手には、硝煙の立ち上る拳銃が握られている。彼が弓敦を撃ったのだという事実を突きつけられたが、受け止めきれずに戸惑っている。物分かりは良いほうだと自負していたがこればかりは対象外で、浴びた弓敦の血を拭うこともせず、こちらへ近づいてくる称壱を見ていた。
称壱は濁った剣呑な目で臥した弓敦を見下ろし、あろうことか爪先で蹴り上げるように仰向けにさせている。何をしているんだと叱咤する間もなく、称壱は血の吹き零れる弓敦の額に銃口を向けた。
「やめろ、称壱!」
嫌な予感がして絶叫したが、この声が届くことはない。兼吉の声にけたたましい銃声が連続して重なってからは、目を疑うような凄惨な光景が繰り広げられた。何度も何度も執拗に撃ち込まれた銃弾が、弓敦の頭部を抉り、砕いた。血と頭蓋と脳漿が飛び散り、その度に跳ねる体が痛ましかった。銃弾が尽きる頃には凛々しかった顔立ちは見る影もなく、頭部自体も原形を留めていなかった。
その行為に怒りや哀しみ、恐怖などを感じる余裕もなく、ただ混乱したまま唖然として、兼吉はそろりと机から降りた。激しく感情を乱すことなく、恐る恐る弓敦の傍に跪く。生死の確認なんて、するまでもない。
上海陸上戦隊から軍令部までの六年間、苦楽を共にした兄弟に死なれたショックは大きかった。口が悪く気性の荒い男ではあったが、面倒見がよく、部下たちや同僚たちだけでなく、その家族のことも気にかけてくれる良い奴だった。
皆の兄貴分のような存在であり、自分と同じく馴致不能だと言われながらも人望は厚かったのに。その男の人生をここで終わらせてしまったのだという罪悪感と喪失感に苛まれ、頭の中が雑然としている。体が重く、頭が痛い。無意識に止めていた呼吸を強引に再開させて、兼吉は感覚の鈍った腕をぎこちなく持ち上げた。
弓敦の胸に手を置く。まだ温かく、心臓も微弱ながらに動いている。でも頭部がない。いや、あるにはあるが形がわからないくらいに砕けている――。その不自然さが恐ろしくなって肌を粟立たせていると、ごつ、と頭に何かが押し当てられるのを感じた。それが銃口なのだとすぐに気付いたが、恐怖心は湧かなかった。それどころではない程、気落ちしていた。
遅かった。何もかもが。
戦争が終われば元に戻れると思っていたし、岐山少年の受け渡し時に腹を割って話をしようと思っていたが、六年は長すぎたのだ。すれ違うにも溝を作るにも壊れてしまうにも、十分過ぎる時間だった。再会したその日に気付くべきだった。ひどく内向的で心優しかった称壱があんなことを言い出すには『何か』があるに違いなく、その『何か』が伯父の東坂少佐であることは明白だった。だって彼は、少年だった頃から言っていたのだ。俺はあの伯父が苦手なのだと……。
称壱を壊したのも弓敦を死なせたのも、要因は全て自分にある。自分の理想に巻き込んでしまったがために、なんの罪もない二人の人生を無駄にしてしまった。急激に押し寄せた自責の念に却って脱力してしまい、兼吉は何もできずにいた。
兼吉は銃口を突きつけられても微動だにしなかったが、称壱の手は無様なほどに震えていた。――なぜこんなことになってしまったのだろう。泣き出したいのを必死に堪えて、欠けてしまうほど強く奥歯を噛みしめた。
称壱は苦悶していた。本当はこんなことしたくない。でもやらなければならない。妻のリヲナと妹の
『隙を突いて殺れ。不穏な動きがあれば直ちに三笠を処分せよ。拒むならお前の近親者を殺す』。僅かでも抵抗を見せるたび、伯父からはそう言われていた。守るべきものを守るためにやると決めたし、真実の不確かな交友関係だって、無に帰すと決めたはずだ。だがやはり嫌だった。本当に敵対している他人同士だったとしても、この男は自分を惹きつけて止まなかった。三笠兼吉は、本当にここで死ぬべき男なのか? この暗殺に対する思いが疑念一色になった称壱の指は、引き金を引く寸前で止まっている。
大切なものを守るために、大切なものを奪うという矛盾。恨み恨まれ、殺し殺されを繰り返す負の連鎖を断ち切りたいのだという兼吉の理想を、この瞬間に初めて芯から理解できた気がしたがもう遅い。後は指先に力を込めれば全てが終わってしまう。
この苦悩をもっと早くに打ち明ければ良かった。この男なら俺が敵でも外道でも、伯父の脅迫があっても話くらいは聞いてくれただろう。親身になって、真剣に考えてくれただろう。そういう奴なのだ、三笠兼吉は。俺が意地を張ったり拗ねたり妬んだりしなければ、事態は好転していたのかもしれない。本当にもう遅いのか? 今ならまだ――いや、遅い。だって俺はもう、私怨で上巻弓敦を……。
「称壱」
びくりと体を震わせた称壱の方は見ずに、兼吉は目を伏せた。きっとこれは断罪だ。遠い未来ばかりに目を向けて、近くを疎かにして多くを犠牲にした俺が受けるべき報いなのだろう。妙にすっきりと合点がいき、潔く受け入れると決めた兼吉は居住まいを正して目を開いた。
もう弓敦の心臓は動いていない。改めて現実を見て、彼の死を悼んだ兼吉の目から一筋、涙が流れ落ちる。それでも心は少し晴れていて、負けず嫌いなはずなのに清々しく感じる敗北感に兼吉は微笑んだ。心配はない。紗代子や幼い子供たちを遺して逝くのは忍びなかったが、彼女なら逞しく生き延びてくれるだろう。なんせこの時世に、《三笠の妻》という業を自ら背負った豪傑なのだから。
「またいつか、キャッチボールしような」
結局果たせなかった約束を来世に先送りにして間もなく、銃声と共に兼吉の頭部も弾け飛んだ。血と頭蓋と脳漿を散らしながら崩れ落ちた兼吉は、血溜まりを着実に広げながら弓敦の上に折り重なった。傷一つなくしっかりと残った顔は、驚くほど穏やかに笑んでいる。最期の優しげな声が耳に残って離れず、称壱を内側から蝕んだ。息ができない。
※
止めようと思ったが間に合わなかった。手にした拳銃からは新しい硝煙が立ち上っており、手もビリビリと痛かった。これは確かに現実なのに、目の前で横たわる兼吉は現実じゃない気がして、客観的に俯瞰しているようだった。でも違う。頬に飛んだ兼吉の血が伝い落ちる感覚と目の前の死体、手から滑り落ちた拳銃がゴトリと落ちる音で一気に現実に呼び戻され、恐怖で全身がぶわと粟立った。
「――――ぁ、」
強烈な寒気に脱力してしまい、立っていられなくて血溜まりに膝から崩れ落ちた。頭部に致命傷を負い、指先ひとつ動かさない二人だったが、数分前までは健全な状態で生きていた。なのに、それをめちゃくちゃにして壊したのは、間違いなく自分自身だ。取り返しの付かないことをしてしまった後悔に息が詰まる。兼吉と弓敦の手に触れる。兼吉はまだ温かかったが、頭部を失くして間もない弓敦はすでに冷たい。
――またいつか、キャッチボールしような。
「……っ!」
二人の手を握ってわなわな震えていると、耳元で声がして思い切り振り返る。でも誰もいない。兼吉。兼吉はどこだ? 称壱は忙しなく部屋を見渡したが、やはり室内に人影はない。でも声はする。称壱が混乱している中、堰を切ったように複数の声が響き渡った。
――隙を突いてあいつを殺せ――お前が親友で良かった――貴様はあいつをどうしたいんだ? ――なぜお前はこうも――殺すために教職に就いたのか――……主に伯父と兼吉と弓敦の声が混じり合って、称壱の脳に突き刺さる。沢山の声が、愚鈍で無能な俺を責めている。
心の弱さを、稚拙で内向的な性格を、秀逸になれない愚鈍さを、ハウリングするほどの音量と不協和音のような不快さを以て否定し続ける。耳を塞いでも無駄だった。脳を直接掻き回されているような苦痛だった。
「あああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁあああぁあぁぁぁ……っ!」
本当に死ぬべきは俺の方だった。胸が痛くて、心が痛くて、二人を抱きしめるように覆い被さって慟哭した。許されるのなら、俺もそちらへ行きたい。許されなくても、俺はこのまま生きていてはいけない。そう思った称壱は、血も涙も拭わずに勢い良く拳銃を拾い上げた。慌ただしく掛ける足音に気づかないまま、銃口を上へと持ち上げる――。
※
宮名佑と駒田
二人を殺したのは、恐らく東坂大尉なのだろう。しかし憎いはずの敵を目の前にしても、怒りや憎しみは湧いてこなかった。それほどに、宮名と駒田は困惑している。称壱の様子が可怪しいのだ。殺人犯が身柄を拘束されて暴れているといった感じではなく、哀しみ咽び泣いているように見えた。
涼やかで端正な顔を歪ませて号泣し、全身を血で汚しながら藻掻く彼の手には拳銃が握られている。それを何度も
「……駒田……お前この状況解るか……? 三笠さんと上巻さんは……東坂大尉は一体、」
「俺には分からん……お二人が亡くなったこと以外は」
口にした途端に状況把握ができてしまった二人は、背筋を凍らせて立ち尽くした。爪先から這い上がる寒気に震えながら、立つことだけに集中して部屋の中央を見ている。今わかることは、兄のようだった二人の先輩を同時に喪ってしまったこと。その原因が兼吉を疎ましく思っていた《保守派》による暗殺であること。実行犯として指名された東坂称壱が壊れてしまったこと。最後に命じられた遣いを果たすことが絶望的であること――。
息も絶え絶えに叫び続け、最終手段として鎮静剤を打たれた称壱は血溜まりに沈み込んでいく。それでも二人から離れようとしない彼は、すでに正気ではない。東坂称壱に届くはずだった兼吉からの手紙を今渡しても、もう彼には届かないだろう……。届けることも送り返すこともできなくなった手紙を握りしめて、宮名と駒田は処理されていく地獄絵図を見続けた。目を逸らすことはできなかった。
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