後篇③



              ※




「全くお前は……こんなものどこから持ち出したんだ」


「うへへ、隠し持ってました!」



 褒めて褒めて! と言わんばかりの得意げな表情で構え、左手にグローブを嵌めた宮名は右手を振り下ろす。彼の手を離れて青空に弧を描いた白球は、ぱすんと頼りない音を立てて兼吉の手に収まった。


 先程こっそり席に潜り込んできた宮名に誘われ、およそ六年振りのキャッチボールに興じているところで、久々の感覚に体が疼くのを感じている。土の匂い、歓声、灼けるような暑さ、マウンドに立ったときの高揚感。鳴り響く試合開始のサイレン、激しい攻防、殺し、殺され、生き残る条件は勝つことのみ――。思い出した試合風景に戦争風景が重なり、ぞっとして全身がぶわと粟立つ。瞬間的に体が硬直して取り落としそうになったがどうにか持ち直して、兼吉は宮名に倣って緩く返球した。娯楽と戦争を重ねるなんて、俺も随分と無粋になったものだ。



「それで、貴様は何を思ってキャッチボールを?」



 動揺を悟られないよう平常を装い、兼吉は飼い犬のように球を追う宮名に問う。丁度拾い上げた宮名はきょとんとした顔で振り返り、何を今更とでも言いたげな顔で眉を顰めた。



「だって三笠さん、元気なかったじゃないすか。ちょっと落ち込んでるっていうか」


「……言葉遣い」


「アッ、ハイッ! 三笠大尉が少し落ち込んでいるのではないかと思いまして、気分転換に誘った次第であります! 大尉は学生時代、野球をやっておられたと伺っておりましたので!」



 指摘すると今度はハキハキと堅すぎる言葉遣いになってしまい、この男にはその中間がないのかと呆れてしまう。しかしどうにも憎めないのが、宮名佑という男だった。――が、それとこれとは別問題で、課内ではまあいいとして課外ではきちんとした言葉遣いをして貰わねば困る。『しっかり厳しく躾けなくては』と改めて誓い、まだ続きがあるらしい宮名の言葉に耳を傾けた。



「今日の指導も、随分と微温く感じました。……アッ、いやツラいのが好きなわけではないんですよ! でもなんというか……何か気がかりなことがあるなら吐き出してみるのも良いんじゃないすか? 俺、難しいことはよく分からないですけど、聞くだけならできます」



 分からないから口外のしようもないですし! とだらしなく笑う宮名の好意は心地よく、やはり自分は同期にも上司にも部下にも恵まれているのだと改めて思った。小さく息を吐いて柔く笑い、まず手始めに「言葉遣い」と威圧的に嗜めて、怯えて萎縮しだした宮名に歩み寄った。



「宮名、先月のラピタを覚えているか」



 白球を手渡しながら言うと宮名は強張り、眉間に皺を寄せた。



「勿論、覚えていますよ。いくら俺でも」



 ラピタ海海戦。先月の頭に実行された、極東陸軍歩兵部隊の輸送作戦。珍しく陸海軍共同で行われ、戦力差を考慮して中止を提言しても聞き入れないくらいには気合いも入っていたはずだった。


 しかし大きな差がついてしまった航空戦力に行く手を阻まれ、壊滅状態に追い込まれた悲劇として語られている。五千人近くが一度に死に、十二隻の軍艦・補給船が沈み、およそ半数の戦闘機が撃墜、未帰還のままだと聞いている。輸送作戦なのに輸送も叶わず、南太平洋のメラネシア周辺に駐在する陸戦隊は完全に孤立し、補給もままならぬ最悪の事態となってしまった。


 なんとか回避する方法はなかったのか? より良い戦略はなかったのか? 南方戦線の惨状を知るたび、悔いて思い悩んでの繰り返しだ。いい加減にしなければと思ったって、今も続々と未来ある青少年たちが無残に死んでいるのだと思うと、やるせなかったし悔しかった。



「しかしこの作戦結果は三笠さ……三笠大尉の責任ではありません。大尉はあれほど反対していたではありませんか」



 意外なほどにまっすぐな目をして、宮名は兼吉に詰め寄った。その目が弟の武吉と重なって、ぐっと胸を締め付けられる感覚に苛まれる。性格も容姿も全く似ていないが、声だけは似ていると自覚していただけに、より重ねやすかったのだろう。兼吉は震える唇をやや強引に開いて、宮名と視線をかち合わせた。



「……俺には弟がいてな。そいつもラピタ海海戦に参加していた」



 兼吉は苦笑して目を伏せ、昨年の初夏を思い出した。一時帰郷したその日の晩、遠征前にと武吉が兼吉の書斎に訪ねてきたときのことだった。




『兄さんは俺が嫌いですか』



 入るなりそう言う武吉の声には僅かな怒気が孕んでおり、戸惑って言葉を紡ぎ出せないでいる。奴は何を言っている? なぜ怒っているのかが分からない。黙って理由を探っていると、彼は部屋の入り口に立ったまま顔を顰めた。



『俺が帰ってからずっとそうだ。口数も少ないし、あまり俺を見ようとしませんね。嫌いでないのなら……俺の南方行きが、自分のせいだとでも思っているんですか』



 その言葉にはっとして、俯けていた顔を上げた。図星だった。声を大にして方針に反発し続けたツケが、《一番近い血縁者》というだけで全て彼に回っているような気がしていた。そう思うことが、武吉に対して失礼だということは分かっている。けれどその可能性が少しでもあるのなら、回避するため発言を少し抑えることもやむを得ない――。



『見縊らないで下さい。全部俺が決めたことだ』


『分かっている。分かっているが……俺が原因でお前が苦労するなんてこと、』


『そんなもの。今更だろう』



 強く鋭く放たれた声に、兼吉は心臓を鷲掴まれた思いになった。武吉は「俺が嫌いか」と問うたが、本当は俺のことが嫌いなのではないか。しかしそれも無理はない。父代わりの実兄が非国民だの軟弱者だの不穏因子だのと言われ、本人に何の否もなく白い目で見られていたことに違いない。


 幸いにも友人はいたようだが、だからといって蓄積された恨み辛みが晴れるはずもない。仲の良い兄弟だと思っていたが、弟に気を遣わせていたのか、或いは――。



『苦労なんてそんなもの、ありすぎて慣れました。あんたの悪口を聞かされたり変に同情されたり、お前も軟弱者か? なんてからかわれて好奇の目を向けられたり。想像できる? 全く笑えるよ。俺たちのこと、一ミリも理解してなくて』



 武吉は皮肉に笑い、兼吉に歩み寄った。隣に座り込んで向かい合い、静かに混乱している兄の顔を正面に見る。完璧なようで完璧ではなくて、優れているときと劣っているときの差が激しいのが三笠兼吉という男だった。


 他人のために行動するときはとても視野が広いのに、自分のこととなると極端に狭くなる。このアンバランスさは見ていて不安になる程だったが、これに気付いたときは正直嬉しかった。自分にもできることがある。全てに耐えて育ててくれた兄に、恩返しすることができる……。



『奴らは自分の意見に同意して欲しかったんだろうが、俺の価値観や考え方は兄さんに近いし、理想だって昔から兄さんひとりだけだ。恥じたことなんか一度もないし、してや憎むなんてありえない。南方行きも左遷じゃなくて、ようやく恩返しする機が巡ったのだと志願した。


 胸を張れよ、三笠兼吉。その背中も極東の空も俺が護るから、思うままに、存分に兄さんなりの戦争を続けてくれ』



 兼吉は頭の整理ができないまま、武吉の言葉を聞いていた。呆然としていたが確かに胸が温かく、良き理解者が身近にいた事を嬉しく思っている。一番理解していると思っていたが、本当は何も理解していなかったのかもしれない。


 武吉だけは一般的な考えを持っていると思っていたし、こんなにも頼もしい奴だとも思わなかった――大変に失礼な話だが――。自分の中での武吉は、いつまでも末っ子気質の抜けない甘えたで、庇護の必要な小さな子供だった。しかし今、その面影は欠片もない。不敵に笑んで背中を押す武吉は紛れもなく、凛々しく精悍な成人男子だ。



『……お前も大人になったんだなあ』


『! お、俺だってもう二十一ですよ!』



 改めて感慨深くなり、柔く笑んで頭を撫でると気恥ずかしそうに反発する。少し前までは喜んでくれていたのになぁと思って寂しくなったが、もう六年も前のことだから少しも最近のことではない。そう言えば自分が出征したのも二十一歳の頃だったと思い出して、時の速さに驚いている。


 立派に独立した彼もこの先、結婚して家庭を築き、国ではなく家族を守っていくようになるのだろう。その日を見届けることはできるのだろうか。否必ず……せめて結婚までは見守るのだと決めて、兼吉は姿勢を正して武吉の目を真っ直ぐに見た。



『必ず生きて帰れよ、約束だ。叶うなら四月に帰れ。庭の桜が見頃になる』


『はい、必ず。特に幸侑と嘉乃と見るのは初めてですから、楽しみにしていますよ』



 そうして呑気とも取れる約束を交わして別れたが、それ以来帰ることはなく、そして今後も帰ってこない。暫くラボールの基地に配属されていた武吉に代わって、戦死公報と僅かな所持品が自宅に届いたのが先月末だ。南の空に愛機とともに散り、骨ひとつ残らなかった。それでも『自分で決めたこと』だと言っていたから、あまり悲しまないようにと心がけていたがやはり堪えた。それに加え、戦線を退いて以来『命は一瞬で簡単に、呆気なく奪われてしまう』ということを失念していたと自覚して、自分が恐ろしくなった。


――こんなに弱気ではいけない。邪険にされようがどうしようが、今後も戦争を終わらせるための作戦案を提示していく。それが今の自分にできることであり、武吉が後押ししてくれた《自分なりの戦争》なのだ。




「弟さんは、ダンピアで……?」


「ああ。贔屓目なしでいいパイロットだったんだが、カメリアには敵わなかったようだ。お前の目を見ていると、時折あいつのことを思い出す。全然似ていないのにな」



 珍しく気を遣っているのか、困り顔で言葉を探している宮名を横目で見、兼吉は苦笑してもう一度目を伏せた。



「気を遣わせて悪かった。業務に差し障りない程度のものだから気にするな。お前の要望通りに厳しく指導してやるから、楽しみにしておけ」



 すれ違いながら肩を叩き、耳元で意地悪く笑うと、宮名の顔がみるみるうちに青ざめていく。建屋に戻る兼吉を慌てて追い、いや、いや違うんですと弁解する宮名が可愛くて、兼吉はからからと笑った。その様が嬉しかった宮名が、ふわふわ、にやにや笑っていたことには気づいていない。


 宮名は、先行する兼吉の背中を見る。小柄だが大きく見えて格好良く、無性に憧れた。役に立ちたい。助けになりたい。何を目指しているのかもよく分からない国ではなく、どこの誰にも見放されていた自分にも根気よく付き合い、導いてくれる彼に仕えていきたいと心底思った。


 落第しかけた残念な自分にできることはまだ少ないが、話を聞かせてくれた分、一歩前進と考えて差し支えないのだろう。迎えに来ていた弓敦の小言を聞きながら向かい、都合いい様に解釈した宮名は、もう少しまともになれるよう努力しようと決意した。




              ※




 兼吉と宮名の遣り取りを、建屋の二階から東坂称壱が見ていた。呑気なものだと呆れる一方で、宮名に対する嫉妬も僅かに感じている。そこにいつもの上巻弓敦も加わって、称壱の苛立ちはピークに達していた。眉間に皺を寄せて憎々しげに睨んだ後、窓の外から目を逸らした。


 兼吉の隣には必ず誰かがいて、そこが空席だったことがない。家族は別にして考えれば、そこにいるのは自分だけだったはずだ。だが師範学校では倉橋と垂水と里家が、陸上戦隊では上巻が、そして軍令部では引き続き上巻と、新顔の宮名と駒田と……。


 往生際が悪い。


 監視でも暗殺でもなんでもすると決めたのに、あの日の約束を棄てきれない自分に嫌気が差した。あの頃のままでいられたら良かったのに。大きく変わってしまった環境に嫌気が差して、大きな溜め息を吐いた。


 大きく変わってしまったのは、東華戦争が始まってからだ。師範学校を中退して、正当ではない手段で将校にさせられ伯父の配下にされてからだった。



『お前は何故、あんなものとつるんでいた』



 兼吉からの手紙を受け取った直後に称壱を呼び出した伯父は、不可解でも不快でもありそうな顔で問うた。『あんなもの』とは兼吉のことだろう。親族一同は、彼のことを快く思っていない。「身分も低く東坂に相応しくない」と言って憚らず、今の社会を厭い革新を望む兼吉をあからさまに疎んでいた。学生時代は「なんのことだ」とはぐらかしてきたが、この人が上司になってしまってはそれもできない。称壱は、この伯父のことがなにより苦手だった。



『……三笠は学校の誰よりも統率力がありました。より近くで見れば参考になることもあるだろうと、よく行動を共にしておりました』



 称壱はあらかじめ用意しておいた、当たり障りのない返答をした。本心なんて、口が裂けても言えなかった。三笠兼吉という人間を好いていて、誰より安らげる友人だからだと言ったらどんな仕打ちを受けるのだろう。想像するのも嫌で、称壱は意図的に考えるのをやめた。



『……まあそれはいい。好意がないのなら、できるな?』


『は、……?』



 何を問われたのかが瞬時に分からず返答できなかった称壱だったが、理解した今となっては気も漫ろだった。しかし今一番の問題は内容ではなく、瞬時に返答できなかったことだ。伯父は何においても優秀であることを強いる。頭が鈍いことも言葉に詰まることも許さず、出来損ないだ、一族の恥だと精神的に追い詰めてくる人だった。


 全寮制の師範学校に進学するまで称壱もよく標的にされており、その際の傷は未だ根深く残っている。――何を言われる。何をされる。血の気が引いて爪先まで冷えていくのを感じており、生きた心地がしなかった。



『何を腑抜けて……三笠を問題なく処分できるなと言っているんだ。承宗の校長からあれが馴致不能気味だと聞いている。その上頑固で、自分の考えを曲げんそうじゃないか。極東海軍に入った以上、このまま泳がせておく訳にはいかん。不幸中の幸いか、上海陸上戦隊にいるそうだから、戦死を装って処分してもいいが……岡崎があれを囲っているからな……容易に工作はできんだろう』



 案の定苛立った様子で称壱を睨んでいた伯父は、苦虫を噛み潰したような顔で岡崎のことを話し出す。きっと折り合いが悪いのだろう。取り敢えず矛先が自分から逸れたことに安堵し、今後のことを考える。


 一旦の難は逃れたが、根本の問題は何一つ解決していない。兼吉を処分? ……そんなこと、できるわけない。師範学校へ進んでからは自分のせいでやや関係が拗れてしまったが、それでも大事な親友であることに違いはなかった。



『あれは今は大陸にいるが、必ず内地へ戻ってくる。傷痍で帰還した岡崎に変わり指揮を執れるほど、軍略に優れているようだからな。呼び戻されて軍令部入りするのも時間の問題だろう。そこをお前がやれ。友人に見せる隙をついて殺れ』


 有無は言わさぬ――といった体であったが、それに対して称壱の中に反発心が湧いて出た。兵学校も出ていないのに軍令部入りできるほど優秀なら、敢えて処分する必要性を感じない。珍しく伯父への恐怖心よりも兼吉に助勢したいという気持ちが勝っており、よしておけばいいのに、口を開かずにはいられなかった。



『お言葉ですが、』


『そう言えばお前は、峯風伯爵の令嬢と交際しているそうだな?』



 言い終える前に遮られ、息が詰まった。この話に関係ないはずのリヲナのことを持ち出され、息をするのが辛いほど動揺している。



『下級庶民の三笠の命と、後に妻となるだろう伯爵令嬢の命。どちらが大事か、よく考えなさい』



 すれ違いながら肩を叩き、酷く冷えた声で耳元で囁く。そう言えば伯父には、後ろ暗い交友関係があるんだった……。屋敷に殺伐とした雰囲気の人たちが度々出入りしていたことを思い出した称壱は、本当にリヲナが危ないと青ざめた。



 あの時の自分と伯父と、今の兼吉と宮名の状況はよく似ている。が、似ているのは動作だけであり、その内情はまるで違っていた。


 何が一番大切か。そんなもの、決められるものではない。しかし兼吉は自分で身も守れるし頼れる友人もたくさんいるが、リヲナは決してそうではない。少々世間知らずで自己防衛の術を知らない彼女のことは、俺が守ってやらなければならない……。


 そうして致し方なく受諾し離別したわけだが、敵対するのは上辺だけ――だったはずだ。ただ芝居を打っていただけのはずなのに、時間の経過に伴ってはじめから『討つべき敵』だったような気がしている。


――俺にとっての兼吉とは何だった? 何より安らげる親友? 平穏な人生を脅かす害悪? どちらかが真実でどちらかが虚構なのに、どちらも現実味があって困惑していた。区別ができない。俺たちはどんな関係だった? 分からない……。確認したくても聞ける友人もおらず、親族は皆、彼を目の敵にしている。現時点でただひとつ分かることは、どれが真実であれ、もう良好な関係になれることなどないということだ……。


 もうどうにでもなれ。敵対を決意した兼吉の目を思い出したが、それさえも事実か虚構か分からず壁に凭れかかって項垂れた。随分と可怪しくなった自分に辟易して疲弊した称壱は、考えるのをやめた。



 

              ※




「うちは何か、東坂と因縁でもあるのか?」



 一枚の書類を持ってそう言ったのは弓敦だった。『東坂』の響きに、兼吉は思わずどきりとする。平常心を保て。兼吉は自身に命令したが出来ていない。そればかりか動揺は露骨に現れており、不覚にも手元が狂って書き損じてしまった上に、ボタタ、と書面上にインクを零したが、それも気に留められない程度には狼狽していた。



「因縁? なぜだ?」



 インクが付いたままのペンを紙上に転がすという兼吉らしからぬ行動を不審に思いながら、弓敦は眉を曇らせ息を吐いた。本当に何かあるのだな……と察して憂慮し、そのぎこちない動作も強張った顔も、何もかも見ていないふりをして兼吉に答えた。



「東坂賢二郎少佐といえば、岡崎先生の宿敵だからな。まあ、保守派と革新派が仲良く……なんて難しいだろうし、仕方がないことなんだろう。それ以外にも東坂一族からの妨害は山ほどあったが、今回は甥子様のご登場のようだ」



 投げ遣りに吐き捨てて机に放った書類には、例の少年を今後どう扱うかの案が書かれていた。



「今度お前が預かる例の混血児。生活保護は三笠に一任するそうだが、一切の教育は東坂称壱大尉が行うそうだ。全く、面倒なことをしてくれる……」



 貴族軍人は必ず自分たちが主導権を握らなければ気が済まないのか? と分かりやすく嫌悪感を露わにしているが、きっと過去に何か横柄な態度を取られたのだろう。嫌味を言われては牙を剥き、目の敵にして底的に避けているが、お前だって貴族軍人だろうと兼吉は思う。


 だがそんな言葉、彼に届くことはないだろう。侯爵家の嫡男に生まれながらも家系のしがらみを厭い、エリートの集う兵学校を優秀な成績で卒業しながらも陸戦への出征を決め、家の名誉より岡崎を選んだ上巻弓敦には、自身が尊い貴族の自出だという自覚があると思えなかった。



「まあ仕方ないさ。非国民の俺に任せたら、何を教えるか分かったものではないからな。しかし……いや……」



 自虐気味に皮肉って一旦は納得したものの、すぐに考え込み押し黙った。称壱なら安心だ、実技も座学も好成績で教え方も上手かったし――と思っていたのだが、不意に武吉から聞いた話を思い出したからだった。


――俺は今のあいつが嫌いだ。頭がおかしくなっている。講話の内容は立派だが中身がない……まるで洗脳されているような……別の何かに操られているような――。


 これが予科練時代に称壱に教わったという武吉が得た印象だそうだが、その話を聞いた時の衝撃といったらなかった。あれだけ懐き、兄のように慕っていた称壱を語る彼の目は辛辣であり、声色には怨念さえ篭もっていた。頭がおかしい――そう思うのは、武吉の思想が特殊だからか本当のことなのか。接点がなくなった以上、現在の彼がどんな人物なのか兼吉には分からないことだった。



「まあとにかく、明日の会議はこのことについてだそうだ。お前、大丈夫か? 件の東坂に散々睨まれてきているが」


「ああ。まあ何とかなるだろう。考え方や理想を非難されるなら、誰が相手だろうがこれまでどおり全力で戦うさ」



 心配そうに覗き込んできた弓敦に笑んで返し、転がしていたペンを回収して仕舞った。思想の自由だけは、誰にも譲らないし奪わせるつもりもない。それはかの少年も例外ではない。この会議で彼に洗脳紛いの《皇国教育》を強行する素振りを見せようものなら、死ぬまで相容れない関係になろうとも全力で退ける心積もりだ。たとえその相手が、かつての親友だったとしても……。


 姿勢を正して気持ちを入れ替えた今の兼吉に、動揺はもはやない。異端とされ、苦行を強いられているであろう彼に、僅かでも『こちらに来てよかった』と思って貰えるように尽力しなければなるまい。まずは彼の平穏の為に尽くそうと決意した兼吉は、書き損じた手紙を破り捨てた。




              ※




 ここは地獄か。兼吉は自分の置かれた状況を見てそう思ったが、すぐに思考を停止させた。こんなときは、《何も考えない》に限る。剣呑で殺伐で、妙な威圧感が充満した会議室は、異常なまでに居心地が悪かった。


 そう感じているのが自分だけでないのがせめてもの救いで、一番奥に閉じ込められる形になってしまっている議長も気が気ではない様子だった。本当の被害者は議長なのかもしれない。上座では東坂少佐と岡崎少佐が牽制しあっており、その隣では弓敦と東坂の秘書である小浜こはまが威嚇しあっている。その空気の悪さを間近で感じなければならず、逃げ場もない。末席で努めて平常を装う兼吉は、斜め隣で涼しげな顔をしている称壱の横顔を見ながら議長の身を案じた。


 互いに無関心を装い、他人のように振る舞うのは少し妙な気分だ。兼吉は称壱の暗い目を見ながら思った。涼しげ……というよりはふさぎ込んでいるように見えたが、それを指摘することなく資料に目を落とした。


『俺達はきっと無理だから、せめてお前だけでも角が立たないように努めてくれ』――岡崎と弓敦が会議前にそう言っていたからだが、自分ひとりが大人しくしていたって意味が無いことは、兼吉も十分に理解していた。



「それでは、かの混血……岐山きやまイヅルの扱いについてだが、三笠大尉が養育、東坂大尉が教育を施す。これに異論はないか」


「はい、ありません」


「うむ、宜しい。それでは――」


「うちで教育を施すのが順当というものだ。貴様らのような外れ者に任せてしまっては、かの少年の人生に傷がつきかねん」


「ほざけ。自ら考える機を奪い、命令に従順な愚か者を生み出す図式の何が教育だ。教え通りに動くなど、人間でなくとも猿やら犬やらにもできることだが?」



 異論なしと答えた兼吉と、同じように同意を示して頷いた称壱を確認した議長がほっとしたのはほんの一瞬だった。あからさまな激しさはないものの、執拗に言葉で斬りつけ合う岡崎と東坂の声は、嫌味なくらいに存在感がある。兼吉は大荒れになりそうな部屋の空気を見て見ぬふりして、もう一度資料に目を落とした。もしかすると、これから犠牲になるかもしれない少年のことが、事細かに書かれている。


 少年の名は岐山イヅル、推定年齢は十二で、正確な年齡は出生届がないため不明。家族構成は母と妹。尋常小学校にすら通えておらず、一般常識や教養の習得が大幅に遅れていることが懸念されている。人目から隠すように兵庫の山に住んでおり、目撃者の証言によれば、いかにも西洋人といった容姿をしているそうだ。


 数ヶ月前に初めて彼の情報を貰ったときから不思議に思っていたことがあったが、それは今回の資料で解決した。海に馴染みのない山育ちの子が、世間を全くと言って良いほど知らない子が、どのようにして船の設計と出会ったのか。なぜ今になって、あれだけ渋っていた少年の獲得、保護に踏み切ったのか。その要因は全て、彼の母親にあった。


 岐山涼子りょうこ。カメリアをはじめ西洋列強にその身を売った、正真正銘の売国奴。スパイにしては派手に動き回っており、遣り取りされた情報も微々たるものだったが厄介者には違いなく、詰めの甘い彼女の尻拭いに辟易していた頃だった。


 末端の彼女がどこでどうしようが大した影響はなかったが、扱うモノが情報だからか、その皺寄せは常に七課に来ているのだ。今回はその女の逮捕を主な目的として、岐山イヅルの獲得はその副産物扱いとするつもりなのだろう。


 そうすれば「親族を失った少年の保護」という名目で、敵国の血が流れていようが問題なく軍属させることができる……。ただ少年ひとりを保護するだけなのに、それに謀略がついて回る。まるで少年を利用しているようできまりが悪く、兼吉は不快さと申し訳無さに奥歯を噛みしめた。



 そうしている間にも会議――もとい口論は続き、確実に激しさを増している。威嚇を続けていた弓敦も興奮しきっており、苛立ちをギリギリのところでどうにか抑えているようだった。しかし時折、瞬発的に飛びかかってしまいそうになる。机下で腕を押さえつけている兼吉が制しているものの、やはり片腕では振り払われてしまいそうなほどに力強い。目線で『落ち着け』と宥めているが、その目は相変わらず興奮でギラついていた。


 その二人を横目に見た称壱は、熱烈な息苦しさを感じていた。自分のことなどまるで視界に入っていないような兼吉を見ると、決まって心臓の辺りが激しく痛んだ。胸に手をねじ込まれて強引に押し開かれるような、原形を留めないほど心臓をぐちゃぐちゃに握りつぶされたような、そんな激痛だった。息をするのが辛い。


 俺たちは初めから他人だったか? 学生時代の楽しい思い出や一緒にささやかな悪戯をした記憶も……同じ夢を見て焦がれ、青臭く追い求めたあの日々も、全て幻影? ――いやだ、そんなの。


 そうして現実を拒否する度に身体的な症状が顕著に表れたが、それを今、表に出すわけにはいかなかった。ここには、あの伯父がいる。耐えろと自身に言い聞かせた途端に、これまでに受けてきた仕打ちの数々を一気に思い出してしまった称壱は、表情を崩さぬままハッとした。


 少しでも隙を見せて、あの人に追い込まれるくらいなら幻影であった方が随分とましだ。拒否に恐怖が勝ってしまった称壱は強引に意識を切り替えて、密やかに冷や汗をかいて息を呑む。唾液すら喉を通らず、つかえた。

                 

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