後篇②


              ※




 今晩の三笠家は、いつもに増して賑やかだった。


 明るく元気な紗代子と幼子二人のお陰でいつも賑わっていたが、更に今日は武吉もいる。彼らは子供たちが新生児の頃に会ったきりのほぼ初対面だったが、すぐに打ち解けてすっかり仲良しだ。覚束ない足音と、きゃっきゃとはしゃぐ声を聞きながら、開いた襖から覗く姿に感慨深さを感じていた。


 よくここまで育ってくれたものだ。その想いは、主に武吉に向いている。無邪気で朗らかなことに変わりはないが、確かに逞しくなり身長も追い越されてしまった。顔つきも精悍であり、もうすっかり『軍人さん』だ。独り立ちした彼に安心感を覚える一方で、もう子供扱いできないことに一抹の寂しさを感じている。


 中学卒業を待たずに予科練へ行くのだという報せは、戦地に届いた手紙で受けた。『あの甘えたが』と驚いたものだが、そういえば出征の見送りをしてくれたときの顔が妙に頼もしかったことを思い出して改めた。


 身近にいる相手ほど本質が分からなくなるものだと聞いたことがあるが、自分の武吉に対する評価がまさにそれだったのだろう。世界大戦勃発のきっかけの一つであるマライ沖海戦に抜擢されて参加し、訓練生の身でありながらブリタニア艦隊と渡り合ったというのだから、見誤りもいいところだ。今は主に空母艦載機のパイロットとして戦線で活躍しており、その功績は軍令部の兼吉の元にも届いている。この度は奇跡的に――嫌な予感がしないでもないが――一時帰郷の許可が下り、久々の一家団欒が叶っている。ここに三笠家の両親と秋津家の両親がいれば文句はないのだが、それはどう頑張っても叶わない願いだ。仏間の上方に並ぶ四枚の遺影を見上げて、兼吉は小さく息を吐いた。



「どうしたの? 疲れてる?」



 貴方ここのところ軍令部に詰めっぱなしだから、と溜め息混じりに言う紗代子を、兼吉は片肘付いたまま見上げた。すると自然に笑みが浮かび、己の単純さと彼女への思いの深さを思い知り感心している。


 紗代子は癒やしだった。出逢ったばかりの頃と変わらない純真無垢さとお転婆さに触れるたび、張り詰めた神経を強制的に切られてしまうから、思い詰めすぎによる精神崩壊の兆候が未だに現れない。救われているのだと実感するたび、やはり彼女らのためにも立ち止まるわけにはいかないと思う。



「いや、感慨深いなと思って」



 あの武吉がここまで育つとはと沁沁しみじみ言うくせに、暗い目をする兼吉に憂いの気持ちを見抜いた紗代子は、僅かではあるが憤りを感じていた。この人はいつもこうだ。何か思い詰めていても内に秘めて、素直に打ち明けてくれないのだ。


 彼が自分の思想が穢れていると思い込み、負い目を感じているのは知っている。でもそんなもの、どうだっていいのに。反戦的な思想に否定的な態度を取ったこともない――ないはずだ、多分――のに、まだ私を信用してくれないのか、彼は……。



「……紗代子、顔が怖い」


「……だって貴方が隠すから」



 その言葉に驚き、兼吉は目を見開いた。眉間に皺を寄せて不快さを隠そうともせず、感慨深いだけなら苦しそうな顔なんてしないと言う紗代子には敵わないと思った。彼女は些細な感情の変化にもよく気づく。この子には隠し事の一つもできないのではないかと思うほどで、そのあたりは特に感心している。或いは、自分自身の隠し事が下手なだけかもしれないが。



「……称壱とは何があっても交友関係を続けられると思っていたんだが、どうやら違うらしい」



 観念して打ち明けた兼吉は、溜め息混じりに吐き捨てる。中学時代は『つがいか』と誂われるほど一緒にいたし、高等師範学校に進んでから接点は減ってしまったけれど、それでも彼との間にあるものは特別であるというか、唯一無二であるという感覚が消えることはなかった。


 それぞれ別の戦地へ赴いても精神の部分は何かしらの形で繋がっている……と思うのはさすがに烏滸がましかったか。まあ家柄のある称壱が、非国民だの異端だのと言われ白眼視されている自分と繋がっているなんて、誰が許しても貴族連中は許さないだろう。



「でも、」


「でも、」



 兼吉が言葉を継ごうとしたのと、紗代子が否定しようとしたのが重なり、互いに窺い、譲りあう形になってしまった。優しげな表情で続きを促す兼吉の申し出を丁重にお断りして、紗代子は彼の話の続きを待った。



「でも、それも戦争が終わるまでだ。これが終わればきっと戻れる」



 ふわりと柔らかく、けれど不敵さも含んだ笑みを見せた兼吉は、不安と真摯さが綯交ぜになった面持ちの紗代子に言う。戦争中はどうしても国を挙げて戦意を高揚させなければならず、だからこそ、それは本当に正しいのかと追及する自身は「邪魔な存在」に他ならない。海軍省で若者たちの教育を担う称壱が、そんな奴の親友を名乗るわけにいかないことも、自分が不穏因子扱いされていることも、重々承知しているつもりだ。


 邪険に扱われないためには、方針に賛同している素振りを少しでも見せたほうがいいということも分かっていたが、どうしてもできない理由があった。戦争は終わらせたい。これ以上の犠牲者を増やさないために勝ちもしたい。多くを死なせないために多くを殺さなければならないという矛盾はなんとか飲み下せたものの、洗脳まがいの教育だけは飲み下せなかった。


 自分で考えて納得した上で戦場へ行き、その結果、不運にも散ってしまうのならそれでいい。しかしその選択肢を自ら狭めるように教育をして、戦死は必須だと、この上ない名誉なのだと、迷いなく死にに行かせる風潮だけは認めてはならない。人として教育者の端くれとして、賛同する素振りすら見せるわけにはいかないのだ。



「お前は本当によかったのか? 俺についてこなければ、もっと生き易かっただろうに」



 兼吉は、彼女が時折《三笠の妻》だからと白眼視されていることを知っている。それだけでなく、あれだけ仲のよかったリヲナとも今や断絶状態だ。本人だけではなく家族まで同類項に括る理由は未だに分からないが、そのせいで日常生活は順風満帆とは言えないだろう。明るく平穏に過ごせていたかもしれない彼女の人生を棒に振っている気になっており、本当に申し訳なく思っていた。生涯守り抜くと決めているし誓いもしたが、もっとまともな男に嫁いでいれば……と思わなかったことはない。


 しかしそれは、紗代子にとって愚問だった。この程度のことで後悔するくらいなら、初めから結婚などしない。ただ人と少し違う考えを持っていて、たまたま歓迎されるものではなかっただけのことだ。それだけで冷めるほど浅い愛ではないし、そもそも逆だ。三笠以外には嫁げないし嫁ごうとも思わなかった。


 仮に別の男の嫁になっていたなら、それは酷く苦しい人生だっただろう。紗代子は家事全般が得意だし好きだったが、幼少期からの好奇心旺盛さは鳴りを潜めず、行動に難があると行かず後家の道を邁進している最中だった。


 成人してもお転婆娘の素質が抜けない《婦女子になりきれない淑やかさに欠けた女》を、笑顔で許し受け入れてくれるのは兼吉くらいだ。彼に出会い、娶ってもらえたお陰で窮屈さと負い目から解放され、こうしてのびのび生きていられる。この前だって、息子の幸侑さゆきと娘の嘉乃よしのと一緒になって泥だらけになるまで遊んでも咎めることなく、寧ろ楽しそうに笑ってくれていたっけ。……いや、まあ私もそろそろ自重しなければならないのだけれど。



「そんなの。貴方と一緒じゃなきゃ死ぬほど辛い人生だった自信があるわ。それに、私とリヲナだって同じよ。戦争が終わればきっと戻れる」



 だって私とリヲナなんですもの、と胸を張って誇らしげに言う紗代子に心強さを覚えた兼吉は、ふわりと微笑む。ここはいつでも温かくて、軍令部もこんな雰囲気ならいいのにと思う。


 いつも張り詰めて殺伐としている軍令部の雰囲気を思い出して嫌な気分になった兼吉の耳に、「目標撃破! これより母艦に帰投する!」という声が飛び込んでくる。臨場感のある精悍な声につい反射的に姿勢を正し「戦況報告を、」と呟いてしまった兼吉のもとに接近してきたのは、両脇に子供らを抱えた武吉だった。



「零式艦上戦闘機、着艦!」



 散々走り回っただろうに息一つ切らさず、着陸の要領で畳に滑り込む。名残惜しそうな子供たちを降ろした武吉を見て、兼吉は不意に思い出す。そう言えば、まだ彼には言っていなかった。



「そうだ武吉、この家にもう一人増えるかもしれん。フリーランスの設計士候補生なんだが、まだ十二、三程度の少年でな。保護が必要なんだそうだ」


「それはまた随分と若い。それにしても珍しいですね、ウチに預けようなんて」


「海外の血が混じってる子なんですって。だからみんな引き取りたがらないらしくて」


「まあ、まだ正式には決まっていないけどな。後はその少年の意志次第だ」



 目を伏せて優しげに言う兼吉と、海外の血が混じってることの何が悪いの? と屈託なく言う紗代子を交互に見た武吉は、やはり俺は三笠の人間で良かったと思う。今が戦争中だと感じさせないほど穏やかで温かく、そして自由だ。この和やかな雰囲気を今から壊さなければならないのかと思うと気が引けてならず、真剣とも呑気ともとれる曖昧な顔ではにかんだ武吉は、背筋を伸ばして居直った。



「兄さん、義姉さん、俺からもご報告があります。いつかは言えませんが、近いうちに南方へ向かいます」


 

 本当はこれも機密なんですが、兄さん相手に機密も何もないと思って。武吉はそう言って、穏やかに微笑んでいる。それに反して、報告を受けた二人の表情は急激に曇っていく。紗代子からは心配と拒絶が、兼吉からは惜しさと悔しさが感じられ、正直あまり良い雰囲気ではなかったが、武吉は安心感を覚えていた。


《そういう家庭》に育ったせいか、戦争賛美の風潮には熱烈な違和感を覚えている。南方への遠征部隊に抜擢されたのも実力を見込まれたのだと思えば嬉しかったが、それを栄転だとか国の譽れだなんて言われても、正直ピンと来なかった。そもそも兼吉を護るためにと鍛錬を積んできた武吉は、実態の掴めない国のために命を捧げる気にもなれない。


 自分が兄と同程度の《ズレ》を持っていると明確になったのは、予科練に入ってからだ。他の連中は、御国のためにとか陛下のためにとか、あるかないかも分からないような縁遠いもののために訓練に臨んでおり、その心理が武吉にはよく理解できなかった。


「細かい意識の差を知りたい」と理由付け、なぜ命を賭して戦うのかと同期たちに問うたことがある。すると返ってきたのは『それが男子の本懐だから』という、中身のない答えばかりだった。ではその本懐とは? と問えばたちまち返答は詰まり、貴様こそなぜそんなことを問うのだと怪訝に思われ、それで終わりだ。追及は遂に叶わなかった。


 帳尻合わせに四苦八苦する集団生活は大変だったが、問題は意識の違いだけではない。自分が三笠の弟だと知るや否や、好奇の目を向けて口々に兄の悪口を言うのだ。


――貴様、あの三笠大尉の弟だそうだな――貴様もアレのような非国民なのか? ――大変だなぁ、あんな兄を持って――恥じることはないぞ、兄はアレでも貴様は優秀だ、胸を張れ――。


 否応なくそれを聞かされるたび、ボロを出すまいと張り巡らした緊張の糸が弾けそうになる。悔しかった。腹が立った。何もかもを勝手に決めつけて、知りもしないのに兄を貶めて。大変だと思ったことはない。恥じたこともない。あの人は誰よりも男前で格好いいのだ、あの人は……。


――馴染めないと思っても、本当に譲れないものがないなら馴染んだふりをしておけ――。兼吉が師範学校に通い始めた頃から念押されていたことを思い出し、その言い付けを守って悔しさを飲み下してきた。


 何か言われる度に兄の念押しを脳内で繰り返し暗唱しつつ、表ではへらへら柔く笑って受け流したが、影では悔しさに奥歯を噛み締め静やかに激昂し、そのお陰で奥歯が欠けてしまった。それを診察した軍医から隊全体に広まってしまい、今では《愚兄の存在に苦しむ賢弟》だなんて思われてしまっている。まあ面倒だし、兼吉がそれを鵜呑みにするとも思っていないので弁解もしていないのだけれど。


 近頃は何を言われても「三笠兼吉の本質を知らない可哀想な奴らだ」と、へらへら笑って受け流すことができるようになったが、本音を隠し続けなければならない生活は生きた心地がしなかった。自分が自分ではないような気がして、それでも本音を口にすることは許されなくて、透明だけれど頑丈な箱の中に閉じ込められた気分だった。


 その箱はとても狭くて、満足に身動きが取れず息苦しい。きっと兄も同じような……否、それ以上の窮屈さを感じて生きているのだろう。そして窮屈さを感じながらも決して逃げず、楽を選んで懐柔されることもなく、自分の意志を貫いて異議を唱え続けている……。



(そんなの、最高に格好いいじゃないか)



 権力や時代に流されず、しっかりと自分を持った兼吉はやはり武吉の憧れだ。周りの声なんて知るか。俺はこの人を、この人達を護るために空で戦う。そして彼が望む戦争の早期終結に尽力すると決めた。



「そんな顔しないで下さい。俺は必ず帰りますよ。やりたいこともやらなきゃいけないことも、沢山ありますから」



 ふわふわした、けれど爛々と目を光らせた笑みを浮かべて、この世の終わりかのように落胆する二人を見た。紗代子はその言葉を信じようと、涙目になりながらも力強く頷いて見せたが、兼吉は目を伏せたまま何も言えないでいる。情報を扱う職に就いている都合上、南方の状況は良く知っている。物資が豊かで大した陸上攻撃も少なく、開戦当初は《楽園》とさえ呼ばれていたが今は違う――。


 机上で握った右手を震わせ、左手指で眉間を押さえて苦悶する兼吉を見た武吉は、その瞬間に南方戦線の状態を察知した。ひっきりなしに行われる人員補充から薄々感づいてはいたが、やはりそうだったか。近頃の航空戦も劣勢気味で、生存率も低くなったように思える。補充と欠員のバランスも著しく損なっており、最前線の苛烈さが日に日に増していることが伺えた。


 しかしだからと言って、武吉が萎縮することも怖じ気づくこともない。つまりはそこを押さえれば戦局が優勢になるのだと寧ろ高揚していて、必ず戦果を挙げてやるのだと意気込んでいた。


 二人に沈痛な面持ちをさせるのは心苦しかったが、今は仕方がない。必ず生きて帰って安心させてやろう……。そう決意した翌朝に戦地へ戻って行った武吉が、この家に帰ることは二度となかった。




              ※




 三笠兼吉は有名だった。その非国民的な態度や遠慮のない物言いは然(さ)ることながら、それに相反した謙虚で真摯な勤務態度もまた、よく人目を引いていた。《危険な不穏因子》と《潔白な好青年》。両極が混在する彼は妙に人を惹きつけ、実績もあることから好感を持つ者も少なくなかったが、それは秘めておかねばならないことだ。そのお陰で傍から見れば、好意と敵意のバランスを著しく損ねた男だった。


 その兼吉が在籍する軍令部第一部七課には、彼に負けず劣らず有名な男がいる。上巻弓敦は部屋入り口の前に立ち、兼吉の隣で萎縮する宮名みやなたすくの横顔を見ていた。兼吉と弓敦の部下にあたる宮名少尉は、大勢の命が懸かっている、作戦を担う課に所属しているとは思えないほどに凡ミスの多い男だった。


 やる気はあるが実力の伴わない宮名の存在が、師範学校出身の兼吉を触発したのか。それは定かではないが、時折鬼かと思うほど厳しく指導にあたっており、だからこそ日頃は無害で人当たりの良い兼吉相手に萎縮しているのだろう。今も書類上にぶち撒けたのではないかと思うほどの誤字を修正されている最中で、宮名は瞬く間に赤くなった書面を、挙動不審な態度で冷や汗を流しながら見守っている。


 兼吉も当初は「事務作業だ」と言わんばかりに淡々と添削していたが、止まらない手にいい加減嫌気が差してきたのだろう。随分と苛立っているように見え、周囲の空気は重く苦しい。無言の圧に耐えかねた宮名が助けを求めてこちらを見てきたが、『前を向け』と顎でしゃくって拒絶した。


 しっかり教育して貰えというこちらの思考を読み取れたのか、「ヒイィィィ」と無様な声を上げながら兼吉に向き直った宮名は、軍人らしからぬ軍人だった。変わり者揃いのこの課でなければ大変な目に遭っていただろうが、だからこそここに回されたのだろう。そのポンコツ具合はなかなかのもので、兼吉の斜向の席に着く同期の駒田こまだにも、度々心配と不安の目を向けられていた。



「以上だ。赤ペン部分を修正して、問題がなければ岡崎少佐に提出するように。呉々も、修正後の確認を怠るなよ」


「ハイッ、有り難うございました!」



 次はないからな、と威圧的に念を押した兼吉に返事をして、宮名はわざとらしいほど恭しく、突き返された書類を受け取った。ハキハキしながらも覚束ない足取りで席に戻った彼は、追い打ちを掛けるように駒田に叱られている。「貴様がそんなだと、俺まで同類と思われるだろう!」という苦情を受けて半泣き状態の宮名を、部屋の奥に鎮座する岡崎はにこやかに見守っている。


 東華戦争時代は恰幅がよくがっしりとしていたはずだったが、傷痍軍人と認定され戦線を退いてからは随分と線が細くなってしまった。その変わり様に一抹の寂しさを感じていたが、それでも無事に生きており、変わらず自分を傍に置いてくれることに歓喜している。弓敦は温かく笑む岡崎を一瞥して席につき、隣で溜め息を吐く兼吉を宥めた。



「本当に手のかかる……」



 そう愚痴を零しながらも笑顔なのだから、兼吉は宮名を心底可愛がっているのだろう。手の掛かる子ほど――と言ったところで、その気持ちは分からなくもないなと、弓敦は隣の兼吉を見た。彼にとっての《宮名》は、三笠兼吉だった。


 兼吉と弓敦は、海軍での経歴が全く同じの同期だ。今年で六年目の付き合いになるが、友好的な間柄になったのは四年前だった。最初の二年間は犬猿の仲というか、衝突が絶えず常に攻撃しあっているような間柄だった。


 初対面の時分に直感で仲良くなれそうだと思ったものの、非国民、軟弱者、馴致不能――それに加えて岡崎一番のお気に入りとくれば、何が何でも仲良くするわけにはいかなかった。特に重要なのは最後のひとつだ、弓敦は岡崎に敬意以上の感情を……分かりやすく言えば恋情を抱いている。


 だからこそスカウトに応じて上海陸上戦隊に加わり危険な最前線へ赴いたのに、自分を差し置いて岡崎の隣に居座るのは兼吉だった。自分でも恥ずかしいくらい分かりやすい嫉妬心を持って衝突していたが、会話の端々で垣間見える彼の度量の広さを思い知ってから敵視するのはやめた。我が強く独善的な男だと思っていたが、その実、大抵のことを飲み下せてしまうほど柔軟で視野も広かった。


 自分が兼吉に辛く当たる理由も把握していたようで、『相手は既婚者だ、諦めろ』と真面目な顔で言われた時には、本当にもう、心臓が止まってしまうのではないかと思うほど驚いたものだ……。



 そんな兼吉を放っておけないと感じるようになったのは一昨年の初秋だ。カメリアから提示された和平交渉に応じるか否かで今後本格的に敵対するかが決まるという時期で、水面下では非常に切迫した空気が充満していた頃のことだ。交渉材料を集めるためにカメリアに派遣され、一般職に就きながら掻き集めた情報を報告する会での出来事はとても衝撃的なものであり、同時に三笠兼吉という人物像が、鮮明に映し出された瞬間でもあった。


 事の発端は、持ち帰った情報があまりに酷だったことに因(よ)る。人材、資源、技術、経済など、あらゆる国力の要素に雲泥の差がついており、開戦前から敗北の気配は濃厚だった。


 建国から百年も経たない新興国であるにも関わらず、強大な国力を持つまでに成長していたカメリアと交戦するメリットを弾き出せない。特に避戦派でもない弓敦でさえ開戦に積極的になれないほどで、力の差を敢えて数値化すると二〇対一。海に囲まれた極東は立地もさほど良くなく、国内で産出できる資源も哀しいほどに少なかった。


 調査の最重要項目だった『東米交渉が膠着状態にある原因』は意外に単純で、双方の捉え方に誤解があるというか、互いのお国柄のイメージが固着し過ぎて、イニシアティブの取り方にミスが有るだけのように思えた。そこをしっかり擦り合わせていけば、交渉はそれなりに上手くいく。当時の岡崎配下である第三部五課の人間はみなそう思っていた。互いのトップが本当に和平を望んでいれば、の話だが。


 更に厄介なのが、海軍の避戦派と好戦派のバランスだ。一見好戦派が多いように見えても、消極的だったり、できれば避戦を望む者も多くいた。しかし世間の目を恐れて、はっきりと意見しないのが最高に面倒だった。全体の三割にも及ぶどっちつかずの奴らがはっきりと決めないせいで海軍相の意見がまとまらず、膠着した交渉は更に膠着しているのだ。



『この情報は、包み隠さずありのままを伝えようと思う』



 無謀すぎる戦争は避けるべきという結論を、上にやんわりと伝える手段を相談しようとした矢先、兼吉は確固たる信念を持ってそう言うのだ。こうなれば梃子でも上官命令でも動かない。一点の濁りもない目で見上げる兼吉を、弓敦は鳩が豆鉄砲を食らったような顔で呆然と見ていた。


 きっと彼は、この情報をもって《隠れ避戦派》を炙り出してやろうと考えているのだろう。それは最も理想的だが、面目を矢鱈に気にする上官相手に上手く事が運ぶとは思えなかった。



『しかし、貴様が言ったところで嘘だと撥ね返されてしまうぞ。なんせ貴様は、《国家の意に反する非国民》だからな』


『こんなことで嘘をついたって仕方ないだろう』


『御上はそうもいかんのだろう。だから、今回貴様は黙っておけ。俺がこの書面をそのまま読……いや、手直しが必要か……』


『いや、やはりそのまま言わせてくれ。これは御上の本質を見極めるいい機会だ』



 申し出を断られ、更に「前々から強国だと言われていたのに、これで俺を嘘つき呼ばわりするのなら、奴らはとんだ老害だぞ」と真剣に継がれてしまい、弓敦は絶句してしまっている。滅多なことを言うなと殴ろうとしたが、いや、そう言えばこいつはこんなやつかと思い留まり、やめた。


 俺が滅多なことだと思っても、彼にとっては普通のこと。それはもう、随分と前から分かっていたことだった。兼吉は、国の威信よりも個人の命を重んじる。だからこそ、状況を善くするためなら狼藉だと分かっていながら容赦ない物言いもするし、大勢を死なせると断言できる戦争を回避したいと考えているのだろう。


 弓敦は不意に、上海に配置されていた陸上戦隊時代を思い出す。苛烈を極める銃撃戦により、人間が次々死んでいったあの頃。この世界から人類がいなくなるんじゃないかと思うほどの勢いで増え続ける死体に、みな恐怖心や倫理が麻痺して石ころ程度に見始めていたけれど、彼だけはいつまでも苦々しい顔をしていた。そして暇を見つけては穴を掘り、敵味方なく弔ってまわったのだ。


 善行のように見えるが問題は《敵味方なく》の部分にあり、極東兵と澄華兵を同じ穴に埋葬したものだから非難囂々だった。「澄華兵を弔うとは何事か」と岡崎以外の上官たちに過激な叱責を喰らうのもよく見る光景で、それに対し「彼らも同じ人間です、死んだ人間を弔って何が悪いのですか」と声を大にして反論するのもまた、よく見る光景だった。自力で起き上がれなくなるほどの暴力……いや制裁を受けても、翌日にはけろりとして作戦に参加していたのも印象的だ。


 やはりこいつには敵わない。殴るのをやめた手を完全に下ろし、弓敦は考える。できないと思うことでも兼吉ならどうにでもできそうな気もするが、これはそんなに単純な話ではない。場合によっては特高行きも免れず、最悪の場合は拷問死という可能性もある。それらを回避するために少しでも抑え気味の行動をして欲しいのだけれど、理解しているのかいないのか、いつでも全力疾走という彼のスタイルはなかなか変わってくれなかった。



『兼吉。威勢がいいのも結構だが、それでは命が幾つあっても足りんぞ。気持ちは分かるが少し抑えなさい。それから弓敦、お前はその原稿の添削と改訂をしてやりなさい。できるだけ多く、兼吉の想いが残るように』



 二人の遣り取りが平行線を辿ると察知したのか、割って入ったのは岡崎だった。兼吉と弓敦を部下ではなく息子のように扱い、彼らも普段は「岡崎先生」と呼び慕っていた。二人が衝突して揉めるたび、喧嘩両成敗と言わんばかりに鉄拳を喰らわせて引き分けに終わらせていたが、今回ばかりは命が掛かっているから、強制終了はさせず彼なりの最善策を提示してくれたのだろう。『大丈夫、お前にならできる』と優しく囁き、戸惑う弓敦は顔を俯ける。そして照れて赤面する弓敦の様子を生温い目で兼吉が見、後で陰で、しょうもない小競り合いが始まるのだ。


 結局、報告会は散々だった。せっかくまろやかになるよう改訂してやったのにその通りに読まず、いかに極東が劣っているか、いかに戦争に向いていないかをド直球に熱弁したために角が立ってしまい、終始険悪なムードだった。兼吉の思惑通りに避戦派を炙り出せたものの、持ち帰った情報は意味を成さなかったのか、直ちに攻撃準備命令が下り交渉決裂の色は一層濃厚になったのだった。そして開戦に向けての作戦案提出を命じられ、避けたかった戦争の筋道を、己で示すという苦行を強いられる――。


 彼は今日まで、何を思い、偲んできたのだろう。そう思うとますます目が離せず、隣の兼吉を横目で見ている。彼のことは兄弟のようだと思っているが、もはや岡崎に抱いている感情に近い気がしている。既婚男性にしか恋情が湧かない厄介な性癖なのだろうかと悩んでいるうちに、兼吉の視線が向こう斜めに下げられる。そしてすぐにこちらを向き、かち合った視線に少し戸惑った。



「すまない、上巻。少し外に出てくる」



 困ったような顔をして告げ、立ち上がるとその影から宮名まで出てくる。こちらと目が合うなり、『任せて下さい!』と言わんばかりの得意げな顔をしてきた。なんだこいつは。



「岡崎少佐、宮名と少し出てきます。すぐそこにおりますので、何かあれば呼びつけて下さい」



 返事の代わりに手を振って送り出した岡崎に背を向けて、二人は揃って退室する。――これから個別の説教でも始まるのか? 何もかもが不可解で呆然とする弓敦と駒田をよそに、彼らの背中は、扉の向こうに消えてゆく。



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