前篇③


              ※




 兼吉は決めかねていた。


 大多数には簡単な問題でも、兼吉にとっては何より難しい問題だった。自分の思想を押し通して内地に留まるか、家族を護るために洲里へ出征するか。そのウェイトは同等で、天秤にかけても平衡を保ったまま、少しも揺らがなかった。


 その原因は、自分自身の半端さにある。


 思想を貫いてアンチテーゼを説いてまわれば、関係ないはずの家族までもが糾弾されてしまう。家族を護るために入隊すれば、他の軍人連中と反りが合わず、私刑で早々に死ぬだろう。だとすれば、誰が三笠を支えるのだ。武吉はまだ年若い。母も近頃は体調を崩しがちだと聞く。ならば俺が稼がなければと思うのだけれど、恥ずかしながら思想に問題があって、社会から隔絶されたような立ち位置にいるのが現状だった。


 何処に行っても役に立てる自信がない、けれど征かなければ家族の、特に武吉の肩身が狭くなってしまう。でも――と否定に否定を重ねるだけの焦れったい葛藤が続く。他のどうでもいいことは即決できるのに、重要なことになるといつまでたっても決められない。情けない。そんなことだから、あんな死にかけるほどの私刑にあうのだ。


 なるべく周囲に迷惑がかからない決断をしなければ。少なくとも、家族を危険思想に巻き込むわけにはいかない。気分転換にと出てきた川辺りを歩きながら、兼吉は迷い続けていた。称壱は征った。垂水も里家も征った。居なくなってしまう前に、決断した理由を聞いておけばよかった。


 恐らくそれが男子の本懐だからと言われるのだろうが、それ以外の答えもあったかもしれない。「本人がそう決めたのなら」と深く詮索せず、快く見送ったあの頃の自分を説教したい気分になる。しかしもう遅い。彼らは高確率で、もう――。



「三笠さんっ」



 何を馬鹿なと最悪の結果を打ち消すのと、自分を呼ぶ声を確認したのはほぼ同時だった。はっとして振り返ったそこに見たのは、燃えるように朱い夕焼けと薄暗闇のグラデーション。その中にある人影は、小柄だったが存在感が抜群にあった。



「……あ、きつ……さん」



 こんな無様を晒すわけにはいかないと思っていても、一度揺らいだ感情をすぐには消せなかった。明るかった紗代子の表情もすぐに陰り、心配そうに駆け寄ってくる。



「どうした秋津さん。今帰りか?」



 何事もなかったように平静を装う兼吉を見る紗代子の目は怪訝だ。彼女が駆け寄る間に動揺した表情は消したけれど、しっかり彼女に見られてしまったのだろう。それでも兼吉は表情を崩さなかった。嘘も吐き通せば真実になる。可愛い妹のような子に、これ以上の心配をさせるわけにはいかない。



「え、ええ……実習が長引いてしまって。三笠さんは?」


「俺はただの散歩だよ。近頃は授業らしい授業もないからなあ」



 そう言ってからからと笑うのは、物静かで剛毅と豪気を備えた、私の知っている三笠兼吉――。見知った姿を捉えたのに気分は晴れず、心の底から安心することはできなかった。心なしか覇気が弱い。触れれば壊れてしまいそうというか、少し目を離した隙に夕闇に消え、二度と会えなくなるのではないかという不安感を煽られる。


 最近では年若い男性が、熱望して戦地へ赴いていると聞く。もしや彼も……? と思ったけれど、それは彼が胸の内を明かしてくれない限り知りえないことだ。そして彼が胸の内を明かしてくれたことは、一度だってない。こちらの気も知らないで。取り繕うのを止めず穏やかに笑む兼吉が憎らしい……。



「こんな時間に女の子の一人歩きは危ない。君さえ良ければ送っていこう」



 その兼吉の申し出を、紗代子は喜びと怒りが綯交ぜになった感情で聞いていた。

非道い人。この人は私にいろんな事を与えてくれる一方で、私には何もさせてくれない。暗くなれば家の近くまで送ってくれ、女子らしからぬはしたない言動も笑って受け止めてくれ、「興味がある」と言えばキャッチボールだってさせてくれた。『女は三歩後ろを淑やかに』を唯一押し付けない彼にひどく救われていて、恩返しをしたいと思っているのに、その機会を尽く打ち消してしまう。


 非道い人だ。二つしか違わないのに子供扱いして、勝手に妹扱いして、自らを犠牲にしてまで私の前に立とうとする。紗代子はこの関係に不満があった。対等でありたいなんて贅沢は言わないから、少しは役に立ちたいし恩も返したい。護られてばかりも、妹扱いも嫌。だって、だって私は――。



「じゃあ、」



 穏やかな笑みを崩さず、俯けた顔を覗き込もうとする兼吉の袖を掴む。彼が戸惑うのを、雰囲気で感じ取った。



「手、繋いで下さい」



 紗代子は顔を上げることなく、小さく強請った。明るくお転婆なはずの声には抑揚がない。怒っているのか……? と思ったが違う。微かに見えた、前髪に隠れた目は切なげに伏せられていた。こう言うと反感を買うのだろうが、いつになく乙女な態度に、これは誰だっただろうかと失礼なことを考える。自分の知らない紗代子に戸惑い、打ち消したはずの動揺が蘇る。落ち込む紗代子を見ていられなくて、願いを叶えてやろうかという気になってくる。


 しかし、それは正しいことなのだろうか。伸ばしかけた手を即座に止めて、兼吉は熟考する。俺と紗代子は《他人同士》。幼馴染みの親友と、親友の幼馴染みでしかなく、年下だからという理由で妹扱いしてしまっているだけだ。心の中では『紗代子』と馴れ馴れしく呼んでいるが、その枠は何があっても越えてはならない。


 謹慎処分の危険を冒してキャッチボールに応じるまでしたのも、全ては可愛い妹のため。愛はあれど恋なんて、そんな不躾で無責任なものではない、決して……。見下ろした紗代子は未だ無言で、その圧に「妹なら手くらい繋げるでしょう」と言われている気がして、兼吉はたじろいでいた。


 本音を言うなら、今すぐに抱きしめて宥めてやりたかった。だがそれは駄目だ。リヲナや称壱のように将来を誓い合った仲ではないのに、そんなことをしては彼女が穢れてしまいそうで嫌だった。ふしだらだし、そもそも俺は思想が穢れている。その真っ黒な手で不用意に、純真無垢な紗代子に触れるわけにはいかなかった。必要ないのにわざわざ「妹のようだ」と伝えたのは線引きのためだ。これ以上の傷を負わせないための、そして自分を保つための線引き。


 紗代子が自分を慕ってくれているのも知っているし、自分が紗代子に対して好意しか持っていないことも自覚している。だが駄目だ。俺のような奴が、親兄弟以外を愛すなんてあってはならないのだ。傷つけるだけの好意なんて、不毛でしかない。


 彼女は他の誰かと、平穏な幸福を――と願ったところで湧いたのは不快感だ。その願いが叶ったとしても、心から祝福してやれる気になれず閉口している。


 誰かに取られるくらいなら、とでも思っているのか? 馬鹿げている。


 無意識に伸ばしかけていた手を押さえつけたが、それでも衝動は治まらない。強くスカートを握る紗代子の手に自分の手の甲を触れさせた途端に感じた劣情に、「もう誤魔化せない」と兼吉は悟った。手を触れるだけに留めて腹を括り、いつになく鋭い声で語りかける。



「紗代子」



 呼びかけに顔を上げる気配を感じたが、その表情は見ていない。真っ直ぐに見据えたのは、紗代子の先にある仄かに朱い薄暗闇だ。



「俺は近く、洲里へ行く。戦争をしに」



 前進するにしても決裂するにしても、まずはやるべきことをする必要がある。今の半端なままでは駄目だ。この窮屈な世界で胸を張って生きるには、不条理を不条理だと主張し続けるには、出征を回避していては箔が付かない。それが原因で死に、全てが終わったとしても、経験を積まずに言う不平はただの戯れ言。兼吉はそう思っていた。



 戦争へ行く。洲里へ。東華戦争の最前戦へ。



 全く想定していなかった言葉を聞いた紗代子は、何も言えなかった。油断していた。その分受けた衝撃は大きく、ただ絶句したまま兼吉を見上げている。こちらに一瞥もくれず真っ直ぐ前だけを見据える目には、今日はじめて会った時のような動揺は見えない。寧ろ怖いくらいに落ち着いており、今度は紗代子が酷く動揺していた。


 この人だけは、戦争に行く事なんてないと思っていた。近年の戦争ムードに周囲が盛り上がっても、彼の口から《戦争》という言葉を聞いたことがない。それに加えてリヲナからは『少し考え方が人と違う』と聞いていたし、その手の話題になると眉間に皺を寄せていたから、周りの男たち同様にいなくなることはないと決めつけていたのだ。


 どうして。嫌だ。行かないで。駄々を捏ねる子供のような言葉は思い浮かぶのに、体が硬直してしまって声が出ない。紗代子は瞳だけを忙しなく揺らして、兼吉の前で佇んでいた。


 紗代子の動揺を感じ取った兼吉の心も、少し揺れていた。けれどもう決めたこと、男に二言はないと自ら退路を絶った。紗代子――新たに出来た護りたいもの。それを成すために、今やるべきことは何か。それは戦争を早急に終わらせることであり、自分にできることは戦場に立って少しでも多くの敵を捩じ伏せるくらいだ。全く経験がないために想像もできず、命を懸けた大博打であったが、不思議と生きて還れる自信があった。根拠などない、直感だ。



「俺は必ず生きて還る。それまで待てるか」



 有無を言わさぬ強い口調に、紗代子は頷くことしかできなかった。止めたくても止まらない涙をぼろぼろ落としながら俯いて、何度も何度も、小さく頷き続けた。紗代子が泣きじゃくる一方で、決心できた兼吉は晴れやかだった。この子には感謝してもしきれないほどの恩ができてしまった。必ず生きて、必ず報いる。もう二度とこの子を泣かせないと決意した兼吉の目に陰りはなく、強く鋭く、輝いていた。




              ◇◆◇




「父さん。兄さんが征きました。……貴方の眠る洲里へ」



 仏壇の前に正座した三笠武吉は、父の遺影を見上げながら一人呟いた。決して返事はないけれど、こうして日々の出来事を報告するのが武吉の日課だった。これこそが、父との唯一の繋がりだと思っている。物心つく前に死んでしまった父の声は知らない。顔も遺影でしか知らない。日課で無理に父との接点を作り出して、自己満足に浸っているのだということは重々承知しているつもりだ。


 それにしても『意外』。この一言に尽きると武吉は思っていた。


 どうせ学校に強いられて、嫌々出征するのだとばかり思っていたのに、思いのほか晴れ晴れとした表情をしていた。一体何があったのかと問うてみれば、「生涯かけて果たす目標ができた」と、不敵に笑んでいた。そしてそのためにはまず、戦争を勝って終わらせる必要があるのだと。


 恋人でもできたのかと思ったが、それらしい甘ったるさも色気も何もない。本当に何なんだと勘ぐっても見当がつかず混乱したものだ。師範学校の教育の甲斐あってか? いや、きっと違う。つい最近まで帰省の度に無数の痣をつくり、国家の運営方針への不平不満を漏らすという暴挙を成していた兄に限って、瞬時に思想を変えるなんてあり得ないことだった。


 それに、そんなのは俺が嫌だ。何があっても挫けず敗けない、強い意志を持った兄が好きなのだ、俺は。たとえ彼の抱くものが、危険思想と呼ばれるものであったとしても。



「もし兄さんを、兼吉を見かけたら、どうか守ってやってください」



 皆目見当もつかないが、きっと戦場というところは危険で苛酷な場所なのだろう。子を思う父ならきっと守ってくれるはずだと高を括っていたが、念には念をだ。絶対にだぞ、という気持ちを込めて、武吉はもう一度遺影を見上げた。


 万が一にもないと思っていても、世間と自分との間にできた、埋めきれないほど深い溝に絶望して死に急いでいるのではないかという考えも捨てきれない。思想がどうであれ兄は兄で、そんなことはどうでもいいのに、関係ないはずのその他大勢がそれを許さない。嫌なら干渉してこなければいいのに、それが模範行為だとでも言いたげに踏み込んでくるのだ。酷く無遠慮に、暴力的に。


――将来、兄を救けるために俺がすべきことは何か。そろそろ進路を決める必要がある武吉は、そればかりを考えていた。本人には絶対に伝えない。「護りなんていらん」と言われるのは目に見えている。なにを馬鹿なことを。護りが必要なことくらい、誰が見ても明らかだろうに。


 流れに呑まれず、己を貫き通す兼吉を大人たちが見下し、蔑み、指をさして嗤うしかしないのなら、護りは俺がやってやる。武吉はそう決めていた。家族のためにと父の代わりを務め、自分自身の何もかもを犠牲にしてきた兄には、死んでも返しきれない恩があるのだ。もう守られるだけの小さな子供ではない。俺ももう十五歳、兼吉が父代わりを決意したのと同じ年頃だ。これを盾にとって、文句など言わせないつもりだった。


 平々凡々な自分には何ができるのか。明確な何かはまだ見つかっていないけれど、見つけるために軍関係の学校へ進学しようと思っていた。兄ほどではないにせよ世間とのズレを感じている自分を受け入れてくれるかもわからないし、母の説得という苛酷を極める任務が待ち受けていたが、まあ何とかなるだろう。


 兼吉が出征を決めたときも何故そんなところへ進んでいくのかと責め立て、征ったあともぐちぐちと文句を言っていた母を思い出す。どんなに厳しく怒鳴りたてても涼やかなものだから、兼吉の代わりに自分が責められたのも、良い思い出といえば思い出だ。最後には決まって泣き崩れるのだから、夫に続き子を失うことを恐れての行為だったのだろうと思う。


 しかし『戦地へ赴き、命を賭して戦うのが男子の本懐』という風潮が蔓延するなか、憚らずに声を大にして言うのだから驚いた。三笠はもうそういう家系なのだろう、じゃあ兄や自分の思想も仕方がないなと納得して朗らかに笑う武吉は、真っ直ぐに仏壇を見上げた。



「……そこに貴方の写真が並ばないこと、心よりお祈り申し上げます」



 畳に手をついて深々と一礼し、武吉は仏間を後にした。今、自分にできる最善のことを。甘えたな末っ子から精悍な青年に変わった武吉は、母を説き伏せる文句を考えている。幼さを残しながらも凛々しさを感じる彼の目は、兼吉によく似ていた。




             ◇◆◇




 三笠兼吉出征の報せを聞いたのは、海軍省の教育施設だった。東坂称壱が感じたのは驚きではなく、羨望と劣等だった。自分のことをよく理解している自己把握能力、何事にもめげない気持ちの強さ、すべてを受け入れられる潔さ。どれも自分にはないもので、称壱は兼吉に強い関心と憧れを持っている。


 今、称壱が身を置いている教育機関はエリート集団だ。しかしだからといって称壱の能力が飛びきり優れているというわけではなくて、ただ《貴族の嫡男》だというだけのことだった。


 ここにいるべきなのは自分ではない。そう思う度に胸を締め上げるほどの罪悪感に苛まれるのだが、守るべきものを守るためには血反吐を吐いてでもこの過程をクリアしなければならない。こんな情けない男だと知りながらついてきてくれる、リヲナと妹の百合恵を原動力に、日々を乗り切っているのが現状だった。


 こんな状態なのに、それに加えて嫉妬まで入り混じり始めている。自分にはできなかった、兼吉の進路を大きく傾けた誰かに対する酷い嫉妬。誰があの兼吉に出征を決意させた? 武吉か、倉橋か、それとも学校から強制されて……? あれこれ候補を挙げて悩んでみるが、結局のところそんなことはどうでも良いのだ。それが自分ではないのなら、誰だって。


 中学時代はいつも一緒だったのに、師範学校へ進学して兼吉と距離ができた。兼吉の周りにはいつも誰かがいて、それを見るたび寂しさと焦りを感じていた。


 自出を抜きにした人格を理解し、尊重してくれる兼吉の存在は、称壱にとってかなり大きい。唯一の友人だと言っても過言ではないけれど、彼にとっての自分は違う。結局はその他大勢のうちの一人に過ぎないのか……と思うと酷く気落ちして、それと同時に湧いて出た自己嫌悪と嫉妬で、もう気が狂ってしまいそうだった。


 もうどうにでもなってしまえと、「お前宛だ」と渡されたばかりの封書を引き裂くように開封する。どうせ親族からだ。しっかりやれとか家の威厳を守れだとかいう小言が書かれているに決まっている。要るかこんなもの。そう思いながら乱雑に広げた紙に書かれていた文字列を見て、称壱は絶句するのだった。


――征くことが決まった。帰ったらまた、キャッチボールでもしよう。



「か……兼吉……」



 封書の宛名を見なくても分かった。余白の目立つ紙面上にはこの一言だけが書きつけられていて、その簡素さと達筆さに兼吉を感じていた。たったそれだけなのに、落ちた称壱の気分は随分と回復している。


 俺も随分と単純だと恥じる一方で、まだ友人だと思ってくれていることへの安堵感が拭えない。張り詰めていた糸を切られた思いで、情けなくも泣き出してしまいそうだった。……ああ。また必ず、今度は堂々とキャッチボールをしよう。たった一枚の書面に誓い立てたところで威圧的な足音を察知し、称壱は急いで懐に仕舞い込んだ。



「称壱」


「――はい」



 開け放された扉の前で立ち止まった足音に呼ばれ、反射的に返事をする。声の主は上司でもある伯父の東坂賢二郎けんじろうだ。


 反射的な返事も、教育の賜だった。彼は大変厳しく、些細な不可にも拷問のような指導をする。失神するまで打ち据えられたくないのなら、心を粉々に砕かれたくないのなら、呼ばれれば即座に返事をしなければならないのだ。逆らうなんて以ての外だ。



「話がある。来なさい」



 有無を言わさぬ伯父に促されるまま、称壱は指導室へと向かう。先程の幸福感を一気に緊張感に塗り替えられた称壱は、ただひとり、暗闇に放り出されたような気持ちになっていた。この先に何が待ち受けているのか。それは今の称壱には分らない。




             ◇◆◇




 兼吉が大陸に出征したのは二年前だ。紗代子がこの洋裁店に務めたのも二年前だ。卒業を待たずに就職を薦められたのは、腕を見込まれたのか厄介払いしたかったのか。きっと後者だと決め込んだ紗代子の気分は、案外晴れ晴れとしていた。悔しさや哀しさはなかった。丁度あの学校に、窮屈さを感じていたところだ。


 薦められた洋裁店は、小さな町の洋服屋さん、といった感じの、暖かみのある店だった。店主の老夫婦は気のいい人たちで、居心地もよく働き甲斐があった。少し残念なのは、あまり忙しくなることがないことくらいだ。


 奥の休憩室に並んだ湯呑みを見下ろして、紗代子は小さく息を吐く。ついさっきまで、ここにリヲナが来ていたのだ。学生さんたちが挙って出征していったあの年、リヲナは嫁いで東坂の若奥様になった。仕草や口調は更に淑やかになったものの、その内面はあまり変わらず、よくこの店にも遊びに来る。すっかり海軍将校の奥様になった彼女には何処に行くにも誰かが付いてきたが、本人はそんなものもお構いなしといった感じだった。


 紗代子も紗代子で、苦々しい表情で自分を見下す女中など気にも留めなかった。「伯爵家の奥方が、こんな薄汚い庶民の小屋に来るものではない」と小言を言うお局には見下し返し、「庶民のお茶ですが、どうぞ?」と厭味ったらしく言ってやった。相変わらずの跳ねっ返り具合に我ながら呆れたが、その遣り取りを見たリヲナは楽しそうに声を上げて笑っている。


 怒って睨む女中に「紗代子の淹れたお茶は美味しいのよ?」と言ってくれるリヲナは可愛い。一般的な女子の枠から大きく外れた自分と、なぜ友人でいてくれるのか。それは相変わらず分からなかったが、リヲナの親友でいられることは誇らしかったし彼女のことは大好きだった。



 大好きだが、彼女を見ていると妬けてくる。どう足掻いたって八つ当たりにしかならないから表には出さないが、最愛の人と添い遂げられているリヲナが、妬ましくて仕方がなかった。


 内地勤務の称壱と寄り添い生きるリヲナと、大陸で戦う兼吉を待ちわびるだけの自分。


 そもそも「幼馴染みの親友」と「親友の幼馴染み」という間柄でしかないのだから比較すること自体が可怪しいのだけれど、妬ましさは解消してくれない。



「……酷い人」



 たった一つの約束だけを残して、さっさと大陸へ行ってしまった兼吉を思い出して憎らしく思う。手を繋いで欲しいという申し出に対して「少し待て」という、解になっていない解の解を求めて待ち続けて二年が経ってしまった。戦争は優勢だと聞いているが死者は増え続けており、その中に兼吉がいない保証もない――。



「サヨちゃん、お客さんだよ」



 どこにも嫁げず独り身のままだったら、それは絶対に彼のせいだ。行き場のない寂しさは苛立ちに変わり、それを兼吉にぶつけたところで店主の翁に呼ばれる。慌てて湯呑みを片付けて返事をし、休憩室から店内に戻った紗代子は、一体誰のことなのだろうと思案していた。



「今日はよく来る日だねぇ」



 サヨちゃんは沢山の人に好かれているのね、と穏やかに笑む奥方に目を向けて笑み返したが、心当たりは全くない。母は滅多にここに来ないし、他の学友たちもそれぞれに仕事がある。リヲナだって、いま帰ったところだ。


 入り口のところにいるよ、と指差した翁に倣って視線をずらした紗代子は息を呑む。そこに立っていたのは男性だ。男性の後ろ姿だ。急いで駆け寄って、重く感じる扉をこじ開ける。その音に振り返った男の顔はあまり見えなかったが、やや目深に被った軍帽の鍔から覗く眼光に覚えがあった。これは……この人は……。



「立派に勤め上げているようだな。店主から聞いたよ。――随分と遅くなってしまった、すまない」



 襟元に銀色の桜が咲いた紺の詰め襟姿は、決して高身長ではないが精悍でいやに凛々しい。紗代子と目を合わすなり軍帽を取った男は、確かに三笠兼吉だった。少し窶れて顔の傷跡も目立ったが、それ以上の怪我も病気をしている様子も見られない。安堵、驚き、喜び、動揺。様々な感情が綯交ぜになって困惑し、紗代子は思うように言葉が出ない。



「どうして……ここに……」


「さっきリヲナに会ってな。君がここに務めていると聞いたんだ。俺は大陸での任務を終えて、ついさっき戻ってきたんだ」



 明日からは退役軍人だな、と笑う兼吉はあの頃と変わらない。ああ、彼は本当に帰ってきたんだ……そう思うと、涙が滲んだ。泣くものかと堪えても、視界は容赦なく歪んでいく。



「待たせてしまったな。君の気が変わっていなければいいのだが」



 右手を差し出しながら笑んだ優しげな目に嫉妬を忘れて、紗代子は迷わずその手を取った。





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