前篇②


              ※




 ひとり師範学校の寮に到着したところで、兼吉は酷く後悔した。放置してきた称壱は当然のように帰っていない。彼が門限までに帰らなかったらどうしようか。それが今の、兼吉の一番の問題だった。


 優秀で紳士な彼に限って、大事なお嬢さんを遅くまで連れ回すなんてことはしないだろうが、お互い夢中になるあまり時間を忘れてしまうことは十分に有り得る。実際に門限を破ったことはないが、時間ぎりぎりに帰ってきたことはあったと思い出し、兼吉は小さく溜め息を吐いた。自分がした悪事以外での反省文はかなりきつい。



「三笠先輩……!」



 嫌だなあと溜め息を吐こうとしたとき、奥に続く廊下から数人の下級生が駆けてきた。廊下を走るものではない、という警告の言葉は、彼らの切迫した雰囲気に掻き消されてしまった。



柿崎かきざき八橋やばせ、どうした、何かあったのか」



 筆頭になっていた二人に問うと、矢継ぎ早に答える。



掛野かけの垂水たるみ先輩らに連れ出されてしまいました!」


「助けていただけませんか、今度こそ死んでしまいます……!」



 その言葉に眉間に皺を寄せた兼吉は、窓の外から微かに響く肉を打つ鈍い音と呻き声を聞いていた。ああまたか、これも嫌だ。兼吉は今度こそ大きく溜め息を吐いた。モダンな寮の裏手にある小さな庭では今日も古き良き伝統の下級生いびりが繰り広げられており、その集中砲火を受ける羽目になった掛野永輔えいすけが、三人の最上級生たちに暴力の限りを尽くされていた。


 加害側は最高学年生、被害側は入寮四ヶ月目の一年生。その光景に三年前を思い出して嫌な気分になる。兼吉も伝統に倣いヤキを入れられてきたが、小柄なことと自分の意志を突き通す生意気さが相まって、他の同期たちに比べて長期だったし苛烈だった。


 辛かったと言えば辛かったが、だからといって屈服もしなかったので先輩たちからの評判は最悪だっただろう。それでも別に、そんなものはどうでもいい。敬意も持てず、寧ろ軽蔑さえしていた先輩たちに好かれたほうが苦痛というものだ。


 掛野は別に高飛車ではないし、かといって自分のように世間と大きく掛け離れた思考を持っているわけでもない。それでも集中砲火の対象に選ばれてしまったのは、彼が『貧乏な優等生』だからだろう。学費を負担してもらっている生徒は少なくないがやはり弱者だと狙われやすく、また彼は成績優秀、眉目秀麗と目立ってしまう分、余計に狙われやすかった。そこで止めておけばいいのに、相手に決して屈せず、寧ろ睨み返すくらいの威勢の良さをみせてしまったばかりに、こうして毎日のように先輩たちとの逢瀬を重ねている。


 せっかくの助言を無視しやがって。数日前に『少しくらい大人しいふりをしておけ』と掛野に話したことを思い出しながら、兼吉は閉ざされた窓を開ける。先輩たちと同じことはすまいと決めていたが、他の同級生たちは違ったらしい。先輩たちもそうだったが、「教育的指導」だと主張しておきながらこれまでの鬱憤を晴らしてやろうと言う気持ちが見え透いて気分が悪い。暴力で信頼関係が築けるものか。一体いつからこうなってしまったのだろう……。



倉橋くらはし


「おお、三笠。どうだ、お前も交じるか」



 集団の中で一番話が通じそうな倉橋清十郎せいじゅうろうに声を掛けると、至って普通に返事をされて少し面食らっている。悪びれもせず、いっそ清々しい様子の彼らに狂気を感じ、怖じ気付いている、と言った方が合っているかもしれない。


 倉橋に悪意はなかったと思う。人の三倍も長い間、悪意と暴力に付き纏われてきた兼吉の身を案じてのことだったのだろうと、普段の朗らかな彼から思う。普通なら下級生が入るまで一年間耐えればいいのに、性格、体格、家柄、思想と全ての悪条件が揃ったばかりに去年まで二年延長されてしまった兼吉を、誰よりも心配してくれたのは彼だった。



「いや、俺はいいよ。反省文を二通書くのは御免だからな」



 内に燻ぶる恐怖と不快感を隠すように敢えて柔い声で皮肉った。それで倉橋の眉がぴくりと動いたのは見逃せず、内心びくついていた。自分の行動に不信感を得られたかと思ったが、微かに聞こえた靴音に、背後の後輩たちの存在を思い出す。自分が同級生たちにいたぶられる――というのは別に構わないが、被害が彼らに行くのは避けなければならない。密告者への報復は、教育的指導よりもずっと苛烈だ。経験者の俺が言うのだから間違いはない。



「……東坂か」



 倉橋が憎々しげに称壱の名を口にするのを聞いて、兼吉は少し安心していた。彼が反応したのは『反省文二通』か、良かった良かった。まあ、だからといって決して穏やかなことではないのだけれど。


 東坂称壱と倉橋清十郎は仲が悪い。倉橋だけでなく、今ここにいる垂水や里家さとやも称壱をよく思っていなかった。別に彼の素行や性格が悪いわけではない。ただ単に特別家柄が良く、特別扱いされていたからだ。


 貴族出身の称壱がヤキ入れされたことはなく、それが気に入らない倉橋と反発し合うことも少なくない。互いに我が強いぶん被害も広範囲に亘るので、それがまた厄介だった。早期解決を願う同期たちに送り出された仲裁役が兼吉で、それをきっかけに仲良くなったのだから、世の中なにが起こるかわかったものではない。



「まあな。そんなことより、そろそろ止めてやったらどうだ?」


「それはできんよ、三笠」



 いい加減死んでしまうぞと言い終わる前に、ゆらりと立ち上がった垂水が言う。拳を赤く濡らした彼は思いの外冷静だったが、その目は確かに殺気立っている。



「お前だって、よく分かっているだろう」



 掛野を足元に転がしたまま、これは教育的指導だ、と言い張る垂水や里家の目は濁っていた。今ここにいる四年生四人はよく指導を受けていた面子で、倉橋も暗い目で俯いている。彼らは本当に意味がわからない――というか意味のない――理不尽な暴力を受け続け、その結果に少々人格が歪んでしまったきらいがある。教育者を育成するはずの機関で人格崩壊者を量産するなんて本末転倒。その考えを曲げず屈服しなかった兼吉を羨む言動が見られたあたり、彼らも本当は、兼吉と同じ考えを持っているのだろう。



「解っているさ」



 気づかなかった訳はない。でも、救い出すのは俺の役目ではない。それが兼吉の思うところだ。打破するも飲まれるも決起するも、全て彼らの気持ち次第。勿論、辛さも痛みも不服さも分かっている。兼吉だって世間に対する疑問や不快さを持っていて、常に居心地の悪さに苛まれている。


 正義とは何か? 『普通』とは何か? いくら考えても答えは出ず、誰かが勝手に導き出した解を無理やり宛てがわれるだけの不自由な世界。拭えない違和感に悶える日々を送っているが、だからといって後輩たちにも同じ苦痛を与えてやろうと思ったことは一度もなかった。寧ろ、同じ思いなんてさせたくないと思っているくらいだ。辛いのは自分ひとりで十分だ、と。



「でも、俺はそいつに何をされたわけでもない。お前たちもされていない。だから俺はしないし、お前たちを止めたいと思っている」



 お前たちは、あの人たちと同じになる積もりか。その思いを込めて垂水を見詰めた。誰より苦楽を共にしてきた彼らのことは嫌いたくないが、これ以上後輩たちに理不尽を強いようものなら嫌いにならざるを得なくなってしまう。


 足元に転がったままの掛野は、地に身体を預けたまま兼吉に視線を向けている。顔を腫らして潰れた目は虚ろだったが確かに強い光を宿しており、睨んでいるようにも見える。成る程、確かに生意気だ。そういえば自分もよく同じ態度をとっていたなと、兼吉は少し懐かしく思った。



「そいつ、俺に似ていると思わないか」



 押し黙ったままの三人に畳み掛けるように言う。垂水お前、俺まで指導してやろうと思ってるんじゃないだろうな? と半ば笑んで軽口を叩く兼吉は、彼らがハッとするのを見逃さなかった。これで気持ちが揺らいで、引き下がってくれれば御の字。成功か、失敗か。兼吉は垂水らが掛野を見下ろすのを見ながら、大きく打った博打に内心ひやひやしていた。



「……そうだな」



 呟いたのは里家で、床に転がる掛野の横顔を凝視していた。意識が朦朧としながらも抗おうとする姿には見覚えがある。反抗的、非国民的だと暴力の限りを尽くされた兼吉を迎えに行ったときに何度も見た。畜生あいつら、好きにやりやがって――。出血するほどの痣を幾つも作って気絶した兼吉を、半泣きになりながら介抱したことを思い出した垂水と里家は、深く、深く、息を吐く。



「おい、掛野」


「……はい」



 明るい空気を作り出そうと模索している倉橋を置き去りにして、垂水は掛野に呼びかける。弱々しく返答した掛野の目は、掠れた声に反して力強かった。



「お前のことは、三笠に免じて許してやる。二度とナメた態度は取らないように。以上」



 冷えた目で吐き捨てる垂水らに、「はい」と吐息のみの掛野の返事が聞こえていたかは分からない。立ち去る彼らの足取りはまるで逃げるようで、動揺しているのかバタバタと慌ただしかった。少なからず罪の意識はあったのか。兼吉は彼らの中にある良心に安堵しながら、心底助かったとでも言いたげな掛野の溜め息を聞く。その様に柔く笑んだ兼吉は、窓枠越しに話しかけた。



「掛野。お前が何をしたのかは知らんが、ここで平穏に生きたいなら強気な態度は改めたほうがいい。別に悪いことではないんだがな、あまり貫きすぎると死にかけるぞ。俺みたいに」



 兼吉は二年くらい前に経験した、数分程度の心肺停止を思い出してからからと笑う。それに対して掛野は、途端に赤く腫らしたはずの顔を青ざめさせていた。ここでは選択を誤れば本当に死にかける。兼吉自身も懐柔されない道を選択してしまったがために、外傷性ショックで心肺が停止するまで殴られたことがあった。


 そうか、まだ怯めるほどの感覚は持ち合わせているか。それなら安心だと、何をされても反発心しか生まれなかった自分との差を確認した兼吉は安堵している。これに懲りて、無事に最低学年を終えればいいのだが。



「柿崎、八橋。掛野を回収してやれ。同室だろ?」



 兼吉は笑いながら廊下側を振り返り、柱の陰に隠れていた二人に言う。はい! と跳ねるのではないかと思うほど勢い良く姿勢を正した二人は、急いで中庭へと出て行った。



「それから……小宮こみや。悪いが少し手を貸してくれないか? 中庭に死にかけた奴が一人いてな」


「え、あっ、はい!」



 二人の最低学年生たちに愛らしさを感じつつ、兼吉は通りすがりの二年生に声を掛ける。突然呼び止められた小宮という青年は、少し狼狽え気味に返事をした。手招かれるままに寄ってきた彼に「恒例行事だ」と告げると、小宮は嗚呼、と納得して恐る恐る外を見る。



「うわぁ……これは酷い」


「お前、実際に見るのは初めてだろう。昨年はこれといって目立つ、気の強い奴がいなかったからな」



 小宮の隣に立って同じように外を見る兼吉は、ニヤと笑って皮肉ったような口調で言う。確かに、自分たちの学年には大人しい奴が多いと小宮は思う。今でこそ上級生面して幅を利かせている奴もいるが、中庭に転がる彼のように、ぼろぼろになるまで歯向かう奴はいなかった。


 大人しくしておけばそれなりに充実した学生生活が送れるのに、何が不満なのでしょうね? と言いかけて止めた。隣で温かい目をしている三笠兼吉の顔に見つけた痣は、薄くなってはいるが今でも存在感がある。それはつまり、つい最近までその跡が残るようなことがあったということで……この人は……何を抱えて戦っていたのだろう――。



「あ……あの、三笠先輩」


「ん、どうした?」


「三笠先輩は、なぜ自分の名前を知っておられたのでしょうか」



 小宮は呼び止められたときの事を思い出して、兼吉に問うた。凛々しく気丈な三笠先輩は後輩たちの憧れで、そんな彼からの声掛けに舞い上がるほどの喜びを感じながらも不思議に思っていた。目立つことのない平々凡々な自分は、その他大勢の一人に過ぎないのに。大した接点もなく、対面しての会話はこれが初めてなのに、どうして俺の名前を知っているのだろう……。



「何を言っているんだ、お前は」



 呆れ顔で苦笑しながら、兼吉は小宮に向き合う。



「お前は俺の後輩だろう。後輩の名前を知ってることの、一体何が不思議なんだ?」



 別に大したことはないだろう、小宮慎士しんじ。そう言ってニヤと笑う兼吉を見た小宮は、協力を求められた事を忘れて呆然としていた。この人の頭には、およそ四〇〇人分の顔と名前が詰まっているのか。総ての後輩を記憶し、平等に振る舞うのは至難の業だろう。それを平然とやってのける、頭ひとつ分も小さい彼は確かに大きく感じる。理想の先輩像そのものの兼吉が堪らなく格好良くて、畏怖の念さえ抱いていた。




              ※




 葉が仄かに色づき、日照時間も短くなってきた頃。


 夏の厳しい日射しが弱まる一方で、澄華国との戦争は激しさを増していた。基本的な戦闘は、大陸にある《同盟国》の洲里で行われているために物理的な被害はなかったが、噂によれば両軍とも結構な死者を出しているらしい。まるで消耗品のように次々と人が戦地に送り出されているあたり、その話も強ち間違いではないのだろう。


 近頃は社会に出た成人男性だけでなく、幼さの残る学生までもが出荷されるようになってしまった。周囲が好戦的な雰囲気を醸すなか、兼吉はひとり危機を感じて歯噛みしていた。


 兼吉の学年からも半数以上が出征した。強制か? 志願か? といえばその殆どが志願で、教室もあっという間に寂しくなった。あの垂水や里家らの姿もなく、いなくなった奴らは皆、少し前まで「俺が行かねば」と息巻いていた奴らばかりだった。


――なぜ、進んで死んでいくのだろう。兼吉には、どうしてもそれが分からなかった。


 本当は声を大にして問いたいのだけれど、それをしてしまえば人生が終わる。自分一人が更正機関に送られるならまだしも、家族にまで害が及ぶのが厄介だった。俺は征くつもりが全くないのだが、きっと近い将来、国から家族を守るために征かねばならない日がくるのだろう。なんて生きづらい国だ。兼吉は黒板よりも少し上に掲示された、『暴懲支那』のスローガンを憎々しげに睨んだ。


 東坂称壱も、近いうちに軍職に就くのだろう。彼の机を囲う人垣を横目で見遣り、兼吉はそう思った。けれどきっと、勤務地は戦地ではなく内地だ。称壱が望もうが望まざろうが、貴族軍人一同がそう決めるだろうということは誰が見ても明らかだった。


 称壱は良い奴だし、最高の親友だと思っている。けれどその反面、とても遠い人のように感じることもあった。身分の高い貴族と貧しい一般人とでは当たり前のことで、彼から聞く社交界の話は全く馴染みがなく、ひどく理解に苦しんだ。


 ただ話が咬み合わないだけで、別に何をされたというわけではない。自分が彼の両親によく思われておらず、そのために彼自身にもよく思われていない気がしているだけだ。師範学校入学以来、互いに特別扱いされるようになってから絡みが減ったことが、更にその思いに拍車を掛けたのかも知れない。


 一方の称壱は、物思いに耽ける兼吉を横目に見ていた。卒業を待たずに海軍省へ行くと決まった七月末から、兼吉との交流は格段に減ってしまった。いや、正確に言えばこの師範学校へ入学してからか。倉橋だけでなく垂水や里家らと絡み始めてから徐々に減った感があって、少し寂しい思いをしている。男前で、面倒見がよくて、人望も厚い彼に友人ができるのは当たり前といえば当たり前なのに、何だか気に入らなくて冷たい態度を取ってしまったのは自分自身だ。


 馬鹿みたいに、大人気なく拗ねて。称壱は素直になれなかった一年生の頃を思い出して、ぎっ、と奥歯を噛み締めた。


――兼吉。俺、明日行くんだ……。


 およそ二ヶ月のあいだ言えなかった言葉を再度飲み込んで、終ぞ言えなかった称壱は、前方を睨む兼吉を見詰めるしかできなかった。




              ※




「三笠」



 呼ばれるままに顔を上げて、ぼんやりと寮の中庭を見ていた兼吉は視線を屋内へ移す。そこに居たのは、神妙な顔つきをした倉橋だ。何か本心を隠したような、決心したような、そんな堅い顔をしている。



「なんだ?」


「……征ったな、東坂」


「ああ、そうだな」



 事も無げに返し、再び目線を庭に戻した兼吉の心情は読めなかった。声はいつも通りだけれど、雰囲気に覇気はない。無理に取り繕っているのか、感情を絞め殺しているのか、混乱しているのか。どれも想像の域を出ないけれど、その原因を思うと無性に腹が立った。


 今日、東坂称壱が承宗学院を中退した。海軍省へ編入するためであり、つい先程に華々しく送り出したばかりだ。


 それを目の当たりにした兼吉の様子からすると、きっと彼はそれを知らなかったのだろう。目を見開いて息を呑んでいたが、一瞬だけ唇を噛んで耐え抜き、すぐに平静を装った彼の姿は哀しかった。何もなかったかのように称壱を激励する兼吉を見ていられなくて、倉橋はその送別会に参加していない。別に構わないだろう。俺はあいつが好きではないし、あいつも俺が好きではない。


――あいつ、三笠の親友を名乗っておきながら、こんな大事なことも報せないなんて。いつもそうだ、あいつは俺達になにも言わずに勝手にどこか遠くへ行ってしまう。それが気に喰わなくて、見下されている気がして、幾度と無く衝突を繰り返した。その度にやはり高飛車な態度を取られてばかりだった中学時代を思い出して、倉橋は奥歯を強く噛み締める。



「なあ三笠、もうあいつとつるむのやめろよ」


「どうした急に……いや、急じゃあないか」



 中学時代から事あるごとに言われていたのを思い出して、兼吉は苦笑した。称壱の挙動全てが気に入らないらしい倉橋は、よく彼との絶交を薦めてきたっけ。



「どうした? 今回は称壱が征ったことが理由か? でもそんなの、今の時世では仕方が、」


「あいつは! 親友を名乗っているくせに征くことをお前に言わなかった! 今に始まったことじゃないが、承宗に入学してからはそれが顕著だ! あいつはお前が大事になってるときは必ず傍に居なかったじゃないか! 事変のときだって、リンチで死にかけた時だって、知ってすらいなかったじゃないか!」



 それどころか、先輩たちに目を付けられていることすら知らないといったていだった。あんなに傷だらけなのになぜ気付かないのか。なぜ気にかけないのか。なぜ親友を自称しているのか。気に喰わないそもそものきっかけまで思い出してしまい、倉橋は強く拳を握り震えていた。


 兼吉も同じように、称壱が他の同期たちとの折り合いが悪い原因を考えていた。一番の原因は、やはり「特別扱い」だ。一般庶民とは程遠い高貴な身分に生まれ育ってしまったがために、何がなくてもちやほやされていた記憶がある。


 周囲に気を留めずに生きてきた兼吉は別に気にしたことがなかったが、多感な年頃の同級生たちは違ったらしい。たとえ本人の望んでいない待遇だったとしても、それが加味されることはない。度々みせる高飛車な態度や威圧的な口調が、東坂称壱の『普通』であることもまた然りだ。


 彼と良好な交友関係を築けた自分と、築けなかった彼らとの違いは、その『普通』の差を理解し合えるか否かだと兼吉は思っていた。倉橋にもいつか、理解し合える日がくればいいのに。中学の五年間、周囲が壁を作っていくなか飽きもせず、称壱に食って掛かっていた事を思い出して笑む。――本当は仲良くなれるんじゃないか? ――そんな期待を抱きながら。



「三笠、何を笑って、」


「倉橋。やはり俺は称壱とは縁を切らないよ」



 これを機に東坂称壱の不器用さを思い出して、『遠い人』だという意識は掻き消された。



「立場に差はあるかもしれんが、俺にとってはお前たちも称壱も同じなんだ」



 内向的に見えて実は何でもかんでも話したがる社交的な倉橋清十郎と、社交的に見えて、本当は強要されているだけで酷く内向的な東坂称壱。性格も大きく違えば自出も異なる二人が分かり合うのは難しいかもしれないが、間に立たされている自分から見れば、大した問題ではないように思えるのだ。


 両極端な奴らだが、だからと言ってどちらが好きか? と聞かれればどちらも好きだ。それぞれにそれぞれの個性を持った大事な友人であり、どちらかを切り捨てるなんて考えも及ばなかった。俺はいつからこんな博愛者になったのだろう。兼吉は自分の間口の広さに愕然とし、笑う。



「お前は人と違う称壱が気に喰わないのかもしれんが、それを言えば俺だってかなりの外れ者だぞ。なんたって軍隊も戦争も大嫌いだからな」


「おい、三笠……!」



 憚ることなく声を上げる兼吉に、倉橋はどぎまぎした。今の彼の言葉は酷く不謹慎であり、決して許されることではない。こういった非国民的な思想を掲げて憚らない兼吉は少々危うかったが、だからといって嫌いになったことはない。寧ろ好意的にさえ思え、密やかながらに応援してやろうという気になるのだから不思議なものだ。それはきっと、何にも挫けず突き進んだ彼の強さと真っ直ぐさを、間近に見てきたからだろう。


――そうか、この寛容さと芯の強さと、危うさも全て含めたのが三笠兼吉という男だった。


 善きも悪きも全て含めた兼吉を気に入り、信頼しているのだと思い出した倉橋は、個人の交友関係に干渉して悪かったと反省して素直に謝罪する。謝るのは三笠だけでいい、東坂に素直に謝るなんて、死んでも御免だ。


「そんなの気にすることないさ」とからから笑う兼吉につられ、倉橋も笑う。爽やかに危険行為をする兼吉の横顔は妙に清々しく、そこに少しだけ、不安を感じていた。


――頼むから、特高で拷問死なんて悲惨な末路だけは辿ってくれるなよ。そう強く願いながらネガを振り払い、倉橋は別の話題を持ちかけた。



「で? その戦争嫌いの三笠氏は今後どうするつもりなんだ?」



 卒業か、出征かと問われても、兼吉は何も答えられなかった。戦争に突入した今、一番の問題はそこだ。卒業して教鞭をとる未来も、出征して銃を手に取り戦う未来も想像できない。


 外れ者にとってはどちらに進んでも絶望的であるに違いなかったが、どうしてもどちらか一方を選ばなければならない。教師になって戦争の愚かさを説くか? さっさと征って早死し、この窮屈な世界と訣別するか? 熟考しても答えは出ない。沈黙が続く。それに耐えかねた倉橋が口を開くのと、兼吉が答えるのはほぼ同時だった。



「――まあ、卒業までには決めるさ」


「そうか。まあ一生に関わることだし、慎重に決めればいいさ。俺は卒業する。教師になりたいんだ」



 憧れてる先生がいてさ。覚えてるか? 竹田先生のこと――と続けた中学時代の思い出話に懐かしくなる。それに釣られた同じ中学の連中も集まり盛り上がっていたが、その一方で、兼吉の心は沈みはじめていた。



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