兼吉
志槻 黎
前篇①
よく晴れた夏の日、緑が目に痛い昼時。煩いくらいの蝉時雨の中、パン、と革を叩く小気味良い音が響く。郊外にある公園の木漏れ日の下には、二人の青年が立っている。彼らの間には、白球が弧を描いて行き交っていた。
幼さの残る顔立ちをしているが凜々しさがある
対称的な彼らのキャッチボールは、二人が中学校進学をきっかけに出会い、同じ高等師範学校に在籍する現在までずっと続いている日課だった。
今はまだ平穏に見えるが、この
情勢が一気に不安定になり妙な閉塞感も生まれ、規制される項目も格段に増えた。まず手始めに取り締まられたのは外国製品だ。他国に利益をもたらすなという活動から、外来語も取り締まられるようになった。競技もこれの例外ではない。今は容認されているが、彼らの夢であり娯楽でもある野球も、じきに禁止されてしまうだろう。何せこれは、澄華と戦争になる以前から険悪だったカメリア発祥の球技なのだ。
これまで慣れ親しんできたものを禁止されることには違和感と戸惑いしかなかったが、一介の学生には従う以外の選択肢はない。特に、彼らの通う
今後起こりうる大戦に向けて優秀な兵士たちを育てなければならないらしく、在学している四年の間に軍事が絡んだ授業も随分と増えた。今このキャッチボールだって、人目を盗んで興じている。
明日は、全ての球児が目指すであろう全国大会がある。が、双方とも何も言わなかった。地域のささやかな草野球大会になら参加できるだろうが、そもそも一切の課外活動を禁じられている身分ではそれも叶わず、大々的に報じられる大会など論外だった。
国際情勢も学校の方針も、納得できるできないは別として理解はしている積もりだ。今年でもう二十一歳になるのだし、いつまでも駄々を捏ねるわけにもいかない。まあそれとは別に、無理にでも納得しなければならない事情もあるのだけれど。
黙々と白球を放る兼吉を見た称壱は、彼はさぞ無念に思っているだろう、と感じていた。思い起こすのは、中学時代前半の彼の輝きだ。誰より才に溢れていた兼吉が、時代の波に飲まれ進路を絶たれ、今に至るのだと思うと胸が痛む。あの事変さえなければ、今頃彼も全国大会のマウンドに立っていたに違いない。こんな陰った公園ではなく、眩い光にあふれた、あの――。
そうして悶々としている称壱に対して、兼吉には不満も無念もなかった。確かに中学時代は随分と持て囃されていたが、それももう昔の話だ。どうやら称壱は自分が「大会に出られないことに不満を持っている」と思っているらしいが、それは違う。納得が難しいと思っているのは夢がどうだという話ではなく、ただ
軍政の大人たちが勝手に始めた戦争のために、なぜ一般市民に我慢を強いるのか。何の権利があって、国が個人の嗜好に口出しするのか。強いて言えば、兼吉はそれが不満だった。けれどそんなことは口にすることすら許されない。言ってしまえば自分は勿論、親族一同の未来が閉ざされ淘汰されてしまう。そんな理不尽と不自由を、御上が強いる国になってしまったのだ、ここは。
共に夢を追った称壱には申し訳ないが、あの頃の気持ちは消えてなくなった。当時と今とでは大きく状況が変わっており、追い続けられるだけの余裕が兼吉にはない。早く自立して、早く稼げるようにならなければ。兼吉はそれだけに追い込まれ、師範学校の道を選んだのだ。
師範学校はいい。学費は負担してもらえるし、努力して実績を出せば卒業後の進路も確約される。今、国内で最も安定している職は軍人なのだろうが、あそこは駄目だ。方針や体制に少しも賛同できない自分が上手く立ち回れるとも思えず、下手なことを口走ってしまう可能性も大いにあった。
師範学校も軍事色が強くなり始めているが、何が何でも耐え抜いて自立して、家族を助けてやらねば。少しでも母の負担を減らしたいし、中学校に通う弟を無事に卒業させてやりたい……。
「兄さん! 称壱さん!」
グローブが白球を弾いたのと、控えめに張られた声が聞こえたのはほぼ同時だった。学帽と通学カバンを取りながら駆け寄ってくるのは、弟の
小柄で幼顔で、小学生と間違えられることもままある彼を前々から幼いとは思っていたが、久々に見るとやはりそれが際立つ。以前に家に連れてきた松本というクラスメイトは、もう少しがたいが良かった気がする。兼吉が取りこぼした白球を追う武吉の背中を見て、ぼんやりとそう思った。
「練習終わったのか」
「うん、今日は昼までだったから」
拾った球を投げながら、武吉は返答する。中学校の野球部に在籍している彼は、長期休暇中だろうがなんだろうが容赦なく練習の日程を詰め込まれている。そういえば自分のときも、日程表が練習予定で真っ黒だったな……と思い出した兼吉はひとり苦笑した。
「……どうした、武吉?」
投げ終えたまま突っ立ち、物言いたげにしている武吉に兼吉は問う。言いたいことは概ね解っているけれど、それを察して無言実行してやるつもりはない。さあ言ってみろと視線で圧をかけると、武吉はぴしと姿勢を正す。
「先輩方のキャッチボール、見学させていただいても宜しいでしょうか」
控えめな声を張って、真っ直ぐに見た兄の目はやはり厳しかった。自分を弟のように可愛がってくれている称壱は即座に快諾してくれたが、兄からの返答はない。他の大人たちのように上目遣いに見上げたって甘やかしてはくれず、だからこそ武吉は兄を慕っていた。
キャッチボールの見学なんて建前だ。本当はただ、兄の近くにいたいだけ。寮生になった兼吉が家を出て、もう四年になる。何かと実家に顔を出してくれるものの、本当に顔を出すだけなので、共有時間を確保するにはこうして自ら突撃するしかない。――どうか、この不純な動機が伝わりませんように。武吉は胸中で強く願いながら、じっと兼吉の目を見た。
「少し厳しすぎじゃないか?」という称壱の声を聞きながら、兼吉も武吉の目をじっと見る。確かに、厳しすぎるのだろうかと思うことはある。しかし可愛い弟だからと甘やかし尽くされ、その後ひとりきりになってしまったときに困るのは彼だ。
けれどまあ、これが今生の別れになってしまう可能性もあるのか――と六年前の事を思い出した兼吉は、すっと目を細めて仔犬のような弟を見下ろす。あの頃の俺はこの子と似たような顔をし、また父も自分と同じ気持ちでいたのだろうか。暖かでも寂しくもある感情の芽生えを感じながら、兼吉は小さく息を吐いた。
「……いいだろう、見ていくといい」
どうせ駄目と言っても聞かないんだろ? と呆れ声で付け足したが、きっとこれは聞こえていないのだろう。跳びはねるくらいの勢いで喜びを露わにした武吉は、一回り以上の身長差がある称壱とハイタッチしている。全く、何を呑気なことを。世界情勢にそぐわぬ和やかな風景に苦笑して、兼吉はもう一度、穏やかな表情で目を細めた。
※
「兼吉……称壱さん!」
「リヲナ……!」
随分と日が落ちて帰り支度を始めた頃、公園入り口付近からこちらを呼ぶ声がした。その高い声の主は
憧れと好奇心で承宗に乗り込んだリヲナは称壱に一目惚れしたらしく、その後「紹介してくれ」とあまりに熱心に懇願するので、仕方なく引き合わせたのが始まりだったらしい。優美で器量の良いリヲナを称壱もすぐに気に入り、更には両親族とも御気に召したようで瞬く間に婚約も決まってしまった。
それはそれで良い。親友と妹のように思っている幼馴染みが幸せになるのは全く構わないが、本当にこれで良かったのか? と思うことがままある。家柄も育ちも良く、美青年と美少女という見目麗しいカップルで、遠巻きに見ておく分には何の問題もないのだけれど、問題はその対話の内容だ。手を取り合って砂を吐くような甘ったるい言葉を掛け合っており、正直、胸焼けがする。赤の他人なら気にも留めないが、お互いをよく知っている分、間近で聞かされる羞恥心ったらない。よくもまあ所構わずそんなことが言えるものだと感心するほどだ。いや、全く見習いたくはないけれど。
これが苦手な武吉はさっさと帰ってしまい、ひとり残された兼吉は弟を少し憎らしく思っている。俺もさっさと帰ってしまうか。そうして帰り支度を再開した兼吉は、公園入り口付近でオロオロしている少女を見つけた。
「君も災難だな、
「み、三笠さん」
声を掛けるとハッとしてこちらを向き、少し照れたような顔をした少女は、リヲナの友人だと記憶している。名前は確か、秋津紗代子(さよこ)。高等女子校時代の同級生で、今はそれぞれ別の専門学校に通っているとリヲナに聞いた。
紗代子は、リヲナが称壱を求めて承宗に突撃するたびに帯同させられているので、名前と顔だけはなんとなく覚えている。探知機でも付いているのではないかと思うほど的確に称壱を見つけ、そのたびにこうして二人の世界に入り込むリヲナに振り回されている彼女には同情する。しかしそれでもリヲナとつるむあたり、本当に仲がいいのだな、と思う。
「悪いな、東坂が君の友人を独占してしまって」
「あ、いえ、こちらこそリヲナが……」
俯いて控えめに手を振る、謙虚な紗代子を見るたびに新鮮な気持ちになる。自分の周りにいる婦女子たちは、母を含めて皆我が強い。外では品行方正で淑やかとされているリヲナも例外ではなく、称壱の件のように強引なことがよくあった。だからだろうか。こんな子を見ると少し甘やかしたくなる。まあ、実践はしないけれど。ただの知人でしかない他所のお嬢さんを不用意に構うほど、不躾ではないつもりだ。
「しかし君もなかなかの苦労人だなぁ」と小さく呟きながら、兼吉は二人を見る。あの遣り取りに進展はなく――実際にはあるのかもしれないが、俺には分からない――、相変わらずの甘い雰囲気は展開中だ。
「……よし、帰るか」
「え、」
こんなのに待ちぼうけを食らわされる時間が惜しいと、兼吉は二人を放置することを決意する。どうせ割って入っても、リヲナに「邪魔をするな」と睨まれるのだから放っておけばいい。あとはどうなろうが自業自得、いい年なのだから自分で責任を取って貰わなければ。グローブと白球を詰めただけの学生鞄を肩に掛け、兼吉は公園から出ていこうとする。
「大丈夫だ、あの男はあれで割としっかりしているから、間違いはそうそう起きない」
本当にいいのかと再度慌てふためいた紗代子の肩に思わず手を置いてしまい、兼吉も内心慌ててしまっていた。年下の女の子を軒並み妹のように思ってしまうのが俺の悪い癖だ。嫁入り前のお嬢さんに不用意に触れてしまうとは――という気まずさを察知されないように直ぐに離し、平常心を繕って言葉を紡ぐ。一切振り返らない兼吉は、彼女が茹で蛸の如く赤面しているのを知らない。
「もう遅い。近くまで送っていくよ」
そう言って振り返った兼吉の優しい目と声色に、紗代子は息を呑む。きゅっと心臓を鷲掴まれたような感覚だった。確かに前から素敵な人だと思っていたけれど、こんなの、まるで――。
「秋津さん」
俯く紗代子にも相変わらずな二人にも構わず歩き出し、少しして立ち止まって「君も置いていくぞ」と兼吉は言う。彼は本当に置いて行く気でいるらしく、二人を省みることはなかった。自分にも他人にも厳しい人だとリヲナに聞いていたが、どうやら本当らしい。親友だろうが幼馴染みだろうがお構いなし、と言ったある種のマイペースさが可怪しくなって、紗代子は「酷い人」と呟いて笑う。先程感じたときめきも吹き飛んでしまった紗代子は、親友を放って兼吉のもとへと駆け寄った。
※
顔が熱い。頭が真っ白。帰路につく秋津紗代子は、極度の緊張で意識を朦朧とさせていた。慣れたはずの道が未知のものに感じるのは、きっと隣を歩く彼のせいだろう。憧れの人からの申し出に舞い上がって付いて行ったのは自分なのだけれど、男性にあまり免疫がない上に、抜け駆けだと怒られるのではないかという恐怖心が湧いて出る。この人は本当に女子たちに人気があるのだ。自分が通っている服飾の専門学校でも話題だし、近隣の女子校にもたくさんのファンがいると聞いている。
大らかで包容力があり、男気に満ちた好青年。それが女子たちの言う彼の印象で、紗代子もそれに異論なかった。今まさにそれを実感しているところで、緊張のあまり挙動不審気味の自分を気味悪がることも諌めることもなく、隣で楽しそうに笑うだけだった。
それを見た途端に、すっと心が落ち着いていくのを感じている。これはきっと安心感だ。ありのままでいいのだと、なにも気負うことないのだと言ってくれているようで、胸がじわりと暖かくなっていく。
――女子は女子らしく、淑やかでありなさい――。溢れ出る好奇心を滲ませるたび、そそっかしく慌てるたびに母や先生方に責められていたことを思い出す。その都度「私は駄目な子なのか」と塞ぎ込み苦痛だった。嫁の貰い手も見つからず、行かず後家のまま生涯を終えるのかという結論まで飛躍しては滅入っていた日々が嘘のよう。紗代子はすっかり安心しきって、考えるのを止めた。
一方の兼吉は、隣で笑う紗代子を横目で見、笑んでいた。謙虚で控えめな子だとばかり思っていたが、実際は確りとした芯を持った、天真爛漫な子なのかもしれない。さすがはリヲナの親友。類は友を呼ぶというかなんというか。所謂ステレオタイプの女の子とは少し異なる彼女らは、見ていて面白かった。紗代子は今、何を見て何を思っているのだろう。単なる『幼馴染みの親友』に過ぎなかった彼女に、次々と興味が湧く。
「秋津さん。なにか良いことでもあったのか?」
上から降ってきた声に驚いて、紗代子は跳ねるように顔を上げた。思う以上に近くにあった端正な笑顔にどぎまぎして、落ち着いていたはずの気持ちが大きく揺れ動く。安心して気を緩めていただけに、その混乱は大きかった。
「いいこと……は、あったような、なかったような……?」
すぐに言葉が出てこなくて、曖昧な言葉で濁して顔を俯ける。惜しい。せっかく話しかけてくれたのに。もうこんな機会ないかもしれないのに。淑女とは程遠い、あまりに不出来な自分が嫌になる。でも、言えるわけがない。憧れの貴方の隣を歩けていることが、今日一番の良いことだなんて。
「……迷惑だったか?」
「ぅえっ?」
思わず変な声が出てしまったが、それに気を取られるほどの余裕もなく、急いでもう一度顔を上げる。変な声を気にする余裕が無いのは兼吉も同じだったようで、「親しくもない男が送っていこうなんて軽率だった」と、大変申し訳なさそうに言うのだ。違う、そんなことない。迷惑どころか、嬉しいくらいだ。
「あ、あります! 良いこと! たくさん!」
何か弁解しなければ、という思いばかりが前に出て、自分でも驚くくらいに声を張ってしまった。なんてはしたない。紗代子は自分を恥じた。こうして落ち着きがないから、両親や先生方に怒られ『貰い手がない』と嘆かれるのだ。目の前の兼吉はというと、鳩が豆鉄砲を喰らったかのような驚き顔だ。さあっと血の気が引いていく。憧れの人の前でなんという失態を犯してしまったか。引かれたに決まっている。私の青春も、もうこれで終わりか……。紗代子は項垂れて、小さく息を吐いた。
「それで、どんな良いことがあった?」
表情がころころと変わる紗代子が楽しくて、可愛くて、兼吉はからからと笑いながら彼女を覗き込んで問う。小柄な自分よりも十センチほど小さい紗代子は、しょんぼりとしてうなだれている。先程の勢いはどこへやら。『はしたなくて申し訳ありませんでした』と苦々しく笑うが、別にそんなことはないと思う。ただ大人しく従順であるより、こうして動きがあって元気な方が面白いというものだ。
紗代子は俯いたまま顔を上げようとしなかったが、根気よく覗き込み続ける。この子はなんとなく武吉に似ているなあと呑気に考える兼吉に対して、紗代子は大いにテンパッていた。距離感がおかしい。顔が近い。小さな子どもに語りかけるような兼吉の態度から、自分が女としては見られていないのだということはよく分かっている。それでも私には思慕の念があるので、意識せずにはいられないのだ。
「……裁縫の実習の出来が良くて褒めて頂いたこと、久しぶりにリヲナに会えたこと。それから――お二人のキャッチボールを拝見できたこと……とか」
分かり切ってはいたけれど、互いの気持ちの大きな差を見せつけられては切なくなる。どうせ脈ナシならもうどうにでもなれと、少し自棄になった紗代子は問いに答える。「貴方に会えて、隣を歩かせて頂いていること」だとは言えなかったが、発した言葉に嘘はない。紗代子は、キャッチボールにも興味があった。
大体はリヲナの突撃で中断されたり、今日のように終わりかけに遭遇するからじっくりと見られたことはないのだけれど、楽しそうだなあ、と見かける度に思っていた。まあ、そんなことは誰にも言えないのだけれど。
「そうか。それは良かったな。それにしても珍しい。女の子はキャッチボールなんて見てもつまらないだろうと思っていたんだが」
「いえ……既にお察しかと思いますが、私は婦女子になりきれない、淑やかさに欠けた女でして……」
木登りも得意でしたしキャッチボールにも大変興味があります、と遠い目をして言う紗代子を見た兼吉は、面白い子だと思うよりも先に、この子もこの子で苦労をしているのだなと思った。
人にはそれぞれ個性があるというのに、 《三歩後ろを淑やかに歩く、女子らしい女子》 という誰かが勝手に決めた型に嵌められ苦悩している。その様が紗代子から見て取れて、兼吉は心苦しさを感じている。
国や雰囲気に進路を縛られ、強いられているのは男子ばかりだと思っていたが、まさか女子にまで及んでいるとは。やはりこの国は窮屈で生き難いと、兼吉は人知れず奥歯を噛みしめた。果たして俺は、近い将来にこの国の為に戦えるのだろうか――。
「……じゃあ、やってみるか?」
兼吉は、心底申し訳なさそうに項垂れる紗代子に問いかける。少しでも、彼女の思うままにしてやりたいと思っていた。
「キャッチボール。興味あるんだろう?」
「い、いいの……?」
緩やかに顔を上げた彼女に言うと、先程までの遠い目とは打って変わって、一気に明るさを取り戻した笑顔は眩しい。一瞬くらんでしまう程だったが――飽く迄も一瞬だ、飽く迄――、これはいかんと気を取り直して、腰を折って目線を合わせた。ぱっちりとした大きな瞳は、好奇心にきらきら輝いている。
「但し、怪我は覚悟しておけよ。十分注意はするつもりだが、慣れないうちは何があるか分からないからな。それから、この事は決して口外しないこと。承宗では遊びは勿論、一切の課外活動が禁止されている」
「勿論です! この事が知れたら私、きっと退学になってしまうもの……!」
内容はやや物騒だが、その割には声も表情も弾んでいた。やはりこの子に似合うのは笑顔だ。沈んだ顔は似合わない。
「そうか。それじゃあ、また今度な」
目線を合わせたまま柔く微笑み、頭を撫でてくる兼吉にくらくらする。子供扱い、良くて妹扱いされているのだろうということは明らかだったが、もうそんなことはどうでも良かった。
顔が熱い。頭が真っ白。触れた部分は灼けるように熱く痛かったけれど、離れてしまうのは嫌だった。もっと触れていたいという欲求を恥じて押し殺し、遠ざかる指を口惜しげに見送っている自分がいる。やっぱり私、この人のことが――。
気を遣って家から少し離れたところで別れた兼吉に背を向けて、足早に玄関へ向かう。こんな顔を見られたくない――と急いたのが不味かったか。額に強い痛みと衝撃が走り、今度は一瞬、目の前が真っ白になった。急くあまりに角を曲がる位置を間違え、門柱にぶつかったのだということは、認めたくない事実だが逃れられない現実だった。
私って、どうしてこんなにそそっかしいのだろう。
バッチリ目撃したらしい兼吉の笑い声を聞きながら玄関へ駆け込んだ紗代子は、本当にもう、消えてしまいたい気持ちになっていた。
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