おもかげ

僕凸

おもかげ

 その日、ふみの告別式を終えて、私は一人で家に帰るところだった。自殺だったからということもあるのかもしれないが、人の少ない、ひっそりとした葬儀で、ふみの両親のほかには誰も私の知っている人はいなかった。私は式のあいだじゅう、最後に会ったときのふみの姿を思い浮かべていた。高校の卒業式が終わったあと、私たちは教室に残って思い出話をした。私は地元の私立大学に、ふみは地方の国立大学に行くことが決まっていて、しばらくは会えなくなるということがわかっていたから、私たちは最後に少しでも長く一緒にいたかった。開いた窓から吹く風がふみの長い髪をなびかせて、いつものように私はそれを美しいと思った。私はそのときふみの顔をちゃんと見ていなかった。今思い返すと、そこにはなにかかげりのようなものがあったかもしれない。離れ離れになってからもときどき電話で連絡はとっていたが、電話の声から得られる情報なんてわずかなものだ。私はそのときもっとよくふみの顔を見ておくべきだった。

 斎場は家の近くだったから行き帰りは歩きだ。十二月だが、午後のこの時間、外はそれほど寒くない。買ったばかりの喪服は体になじまなくて、私はぎこちない足どりで歩きながら、ふみとのこれまでの電話でのやりとりを頭の中で反芻していた。他愛もない話ばかりが思い出される。ふみの抱えていた悲しみにどうして気付いてあげられなかったのか。それは私が何日も前から考え続けていることだった。ふみは私に気を遣ってそういうことを言わなかったのかもしれない。でも私たちは親友同士なのだから、泣き言の一つや二つ言ってくれてもよかったのに、と私は思った。少なくとも私の方は、ふみに愚痴をこぼしてばかりだった気がする。


 気付くと私は迷子になっていた。いつのまにか狭い路地に入り込んでいて、周りは見たことのない建物ばかりだった。多分曲がるところを間違えたのだろう。来た道を引き返してしばらく歩いたが、いつまでたっても大通りに出られなかった。携帯電話は持っていないから道を調べることもできない。困ったな。そう思って私はぐるりとあたりを見回した。住宅地だ。二階建ての家がいくつも並んでいた。よく見ると左手奥の方におしゃれなピンク色の屋根のついた建物があった。あれは民家ではなさそうだ、と思って近づくと、その建物の壁はレンガ調で、木でできた焦げ茶色の大きな扉があり、レースのカーテンがかかった窓があった。古風な喫茶店のように見える。だが看板は出ていない。壁には余計なものは何もついていない。私はしばらく迷ったあと、その扉を開けた。少し重い。中は薄暗く、目を凝らしても何も見えなかった。中に入ると、「いらっしゃいませ」と声がした。左手にカウンターがあり、奥にいる男性がこちらを見ていた。私はおそるおそる尋ねた。

「あの、ここは喫茶店ですか?」

 男性は何かを考えるように手を口元にもっていった。少し暗さに慣れた私の目には、その男性は四十代くらいで、平均的な喫茶店のマスターの格好をしているように見えた。

「ある種の喫茶店、と言えなくもないですね」

 ある種の喫茶店? ここは普通の喫茶店ではないのだろうか? 私は店内を見回した。白髪の老婦人が隅の方で本を読みながらコーヒーを飲んでいる。ほかに客はいない。控え目な音量でクラシック音楽が流れている。ごく普通の喫茶店のように見える。

「まあよかったら、空いているお席にお座りください」

 私は道を尋ねに来たのだ、と言おうと思った。しかし道を尋ねるのなら飲み物の一杯くらいは頼むのが礼儀かもしれない。私は言われた通り、コートを脱いでテーブル席に座った。一枚板の机の上には、砂糖の入った瓶と紙ナプキンが置かれているだけだ。メニューも何もない。あの、と私が言いかけると、おしぼりと水を持ってきたマスターは、すぐにコーヒーを淹れますので、と言った。どうやらこの店にはコーヒーしかないらしい。

 コーヒーが出来上がるのを待っている間、私は音楽に耳を傾けた。楽器編成は弦楽だけで、ピアノや管楽器は入っていない。私はクラシック音楽には詳しくないから作曲者を言い当てることはできないが、優雅で繊細で抒情的なその響きは私にふたたびあの日のふみの姿を思い出させた。過去は思い出の中にしか存在しない、とふみは言った。確かにその通りだ、と私は思ったが、思い出の中に存在していればそれで充分ではないか、とも思った。しかしふみにとってはそうではなかったのかもしれない。ふみ自身が思い出の中にしか存在しなくなってしまった今となっては、ふみの真意を知ることはできないのだが。

 マスターがコーヒーを運んできた。私が道を尋ねると、マスターは親切に教えてくれた。まっすぐ行くと神社がある。それは私の家のすぐ近くだった。私は礼を言った。せっかくだから少しゆっくりしていこう。私はコーヒーに砂糖を入れて、一口すすった。何の変哲もないブレンドコーヒーだ。今までに飲んだコーヒーとそんなに変わらない味がした。不意に白髪の老婦人に声をかけられた。

「そこのあなた、こちらに来て少しおしゃべりしない?」

 先ほどまで読まれていた本は机の上に置かれていた。老婦人は丸眼鏡をかけていて、にこやかで、いかにも無害そうだった。私は少し戸惑ったが、特に断る理由もないので、コーヒーを片手に老婦人の方に行き、向かいに座った。

「お葬式の帰りなのね」

 そう言われて、私は自分が喪服を着ていることを思い出した。

「はい、友人が亡くなりまして」

 老婦人は私の方を見ながらしばらく黙っていた。そして言った。

「あなたのような若い人は、まだ友人を亡くすのに慣れていないのでしょうね」

 何と答えたらいいのだろうか。老婦人は続ける。

「私ほどの年になると、毎年のように葬式があるの。いつ自分の番が来るかわからないし、すごく身近なものとして死を感じるようになる」

 私はうなずいた。ごく当たり前のことを言っているように聞こえた。私は気になっていたことを尋ねてみることにした。

「マスターが、ここはある種の喫茶店だと言っていました。ここは普通の喫茶店ではないのですか?」

 老婦人は物珍しそうな表情をして、私の顔をまじまじと見つめ、そしてふう、と一つ息をついた。

「端的に言うと、ここは影をなくした人たちが集まる場所なのよ」

 私には意味がよくわからなかった。それは何かの比喩なのだろうか。

「あなたは知らないかもしれないけれど、この世界では人はふとした拍子に影をなくしてしまうことがあるの。それはちょうど、飼い猫が家から出て行ってしまうようなものね。影はいつか戻ってくるかもしれないし、二度と戻ってこないかもしれない」

 私は自分の影が足元から離れて歩いて去っていく様子を想像した。もちろんそんなことが現実に起こりうるとは思えなかったが、私は話を合わせることにした。

「でも私には影があります」

 そう言って私はテーブルの上に手をかざした。ぼんやりとした影が映る。老婦人はうなずいた。

「たまにあなたのように影のある人が迷い込んできてしまうこともあるの」

 老婦人も私と同じように手をかざした。確かにテーブルの上に影は映らない。私はそんなに驚かなかった。ふみの死に比べれば、どんな出来事もそれほどショッキングではない。

 私たちはしばらくのあいだ黙ってコーヒーを飲んでいた。弦楽の曲は終わり、ピアノ曲が始まった。何かを言わなければいけない気がした。

「その友人が自殺を考えるほど思い詰めていることにどうして気付いてあげられなかったのか、とずっと考えています」

 私はそんな話がしたいわけではなかった。でもほかにどんな話をすればいいというのだろう。

「彼女は泣き言なんて一度も私に言いませんでした。いつも心にしっかりと芯が通っていて、揺らぐことがないようでした。でもそういう生き方は、ときとしてとても辛いものだったのかもしれない、と私は今になって思います」

 老婦人は何も言わず、私の話の続きを待っていた。

「私は結局、彼女のことを何もわかっていなかったのかもしれません。彼女の表面だけを見ていて、心から寄り添ってあげることができていなかったのかもしれません」

 しばらくのあいだ沈黙が流れる。老婦人は眼鏡を外して本の上に置き、それから口を開いた。

「他人のことなんて、そう簡単にわかるものではないのよ。いくら年をとってもそれは変わらない。われわれが故人のためにしてあげられるのは、思い出の中にその人の姿をしっかりと留めておくことだけ」

 過去は思い出の中にしか存在しない、とふみは言った。風に揺れる長い黒髪。

「私にはもう父も母もきょうだいもいないし、夫や多くの友人たちにも先立たれてしまった。子供たちは遠くで暮らしていて、ほとんど連絡をよこさない。おまけに私には影もない。ただ一人で淡々と日々を過ごすだけ。それでも去ってしまった人たちとの美しい思い出が、私という存在を支えているの」

 私は何かを言いかけたが、うまく言葉にならなかった。そのとき扉が開く音が聞こえて、私はそちらを見た。入ってきたのはすらりとした男性だった。彼はマスターと少し言葉を交わしていた。後ろ姿からは年齢はよくわからない。マスターと話し終えると彼はこちらを見た。私は驚いた。それは相川先生だった。先生の方も驚いたようで、私の名前を短く呼んで、こちらにやってきた。先生が老婦人に気づいて会釈すると、老婦人も会釈を返した。先生は上着を脱いで、隣のテーブルに腰かけた。そして私の方を見て久しぶりだね、と言った。私もお久しぶりです、と言った。先生は私の足元に目をやった。私の影のことが気になっているのだろうか。マスターがおしぼりと水を運んできた。

「葬式に行ってきたんだね」

 私はうなずいた。先生はふみが亡くなったことを知らないかもしれない。私たちのクラスの担任だったから、一応伝えておいた方がいいような気がした。

「小野塚ふみが亡くなりました。自殺でした」

 先生はすぐにふみのことを思い出した。

「小野塚が…、そうか、それは残念なことだった」

 老婦人は机の上に手を組んでこちらを見ていた。コーヒーが運ばれてくるまで、私たち三人は何も言わずにそれぞれの思いに浸っていた。私は先生のことを思い出していた。相川先生は英語の担当で、高校二年のとき私とふみのいるクラスの担任だった。三十代で、結婚はしていない。授業はわかりやすく、人当たりもよくて、生徒たちには人気があった。でも私は、どうしてかはわからないけれど、先生がいつも浮かべている微笑みを見るたびに、それが人生のはかなさを象徴しているように思えた。ふと、そのことと影がないこととは関係があるような気がして、私は先生に影のことを尋ねようかと思ったが、失礼にあたるかもしれないと思ってやめた。

 マスターがコーヒーを運んできたとき、老婦人が口を開いた。

「あの子はいつも旅に出たいと言っていたね」

 旅に出たい、とふみはいつも言っていた。旅に出ることで、新しい自分に生まれ変わることができるような気がする、と。でもどうしてこの人がそんなことを知っているのだろう。私は怪訝な表情を浮かべて老婦人を見た。老婦人は何も言わず、机の上に組んだ自分の手を見ていた。先生が代わりに説明を付け足した。

「小野塚も高校生の頃ここに出入りしていた。彼女も影をなくしていたんだ」

 私たちはまたしばらく黙っていた。私は今日まで影がない人のことを知らなかったし、ふみに影がないことを知るよしもなかった。しかし影がないとすると、何かこの世のものを超越したようなふみの美しさにも説明がつく気がした。

「影をなくした人はみんな、途方に暮れてここにやってくる。影がないと、われわれの存在はひどく不確かなものになってしまう。影というのはある意味で、われわれが立っている場所そのものなんだ。そしてここで同じ境遇の人と出会ううちに、われわれはやがて自分の居場所を見つけていく」

 ではふみは、自分の居場所を見つけることができたのだろうか。老婦人は言った。

「あの子はこの町を去ってしまった。遠くに一人で暮らしていて、さぞかし寂しい思いをしたことだろうね」

「ここのほかには影のない人が集まる場所はないんですか?」

 私が尋ねると、先生が答える。

「そうとも言えるし、そうでないとも言える。ここは特別な場所なんだ。われわれがこの場所を必要とするとき、この場所はわれわれの前に現れる。われわれがどこにいようと関係ない。この店の扉はどこでもドアみたいに、われわれのいるところに通じている」

 先生はそこで一呼吸おく。

「でも私の知る限りでは、高校を卒業してから小野塚はここに来ていない」

「それは自分の居場所を見つけたから、もう来る必要がなくなったということですか?」

「そうかもしれない。でも私の見立てでは、彼女は自分一人で影を探すことにしたのだと思う。彼女は影がないということをうまく受け入れられないようだったから」

 私たちはまた沈黙した。ふみはきっと影を見つけることができなかったのだろう。そのことに絶望したのかどうかはわからないが、結局ふみは自分の手で人生を終わらせることを選んだ。私はコーヒーの最後の一口をすすった。

 ふと腕時計に目をやると、もう四時を過ぎていた。親には告別式に出るとしか言っていなかった。早く帰らないと心配するかもしれない。

「すみません、私もう行かないと」

 そう言うと老婦人は私を見て微笑んだ。相川先生の微笑みにとてもよく似ていた。先生は言った。

「君たちの仲がとても良かったことは知っている。君も辛い思いをしただろうね」

 私は何も言わず、軽く会釈して席を立った。コートを着て、カウンターでコーヒーの代金を払い、扉を押し開けた。もう一度店内を振り返ってみると、老婦人も先生も、もうこちらを見ていない。二人で何かを話している。私は外に出て、後ろ手で扉を閉めた。振り返ってもう一度店の外観を眺める。影をなくした人たちが集まる場所。老婦人はそう言った。でも私には影がある。私は自分の足元を見てそのことを確認した。

 マスターに教えられた通り、まっすぐ行くと神社があった。私は神社の横の道を通って家に帰った。おかえり、遅かったね、と母は言った。私は迷子になったのだと正直に言った。そう、と母はこちらに目をやって、それ以上何も言わなかった。私は部屋に入ってコートと喪服を脱ぎ、部屋着に着替えてベッドに横たわった。そして今日の出来事を振り返った。すべてがよくできた夢のような気がした。本当に夢だったらいいのに、と思った。激しい疲れを感じて、そのまま私は眠りに落ちた。


 何日か後、私はその喫茶店を探して家の周りを歩いた。路地という路地をくまなく見て回ったが、あのピンク色の屋根とレンガ調の壁のある建物はどこにも見つからなかった。あれは本当に、よくできた夢だったのかもしれない。でもふみや相川先生が漂わせていたはかなさのようなものは、影がないという言葉で説明するのが一番ぴったりくるような気がした。

 その扉の向こうには、影をなくした不思議な人たちがいる。彼らはいつでもどこでも、必要なときには扉を見つけることができる。でも私はそうではない。私には影がある。私はたまたまそこに迷い込んでしまっただけなのだ。

 去ってしまった人たちとの美しい思い出が、私という存在を支えている、と老婦人は言った。私も年をとったら、そんな風に感じるようになるのだろうか。少なくとも今は、ふみとの思い出は私の心をきりきりと締め付ける。ふみの姿を、風に揺れるその長い黒髪を、その顔に浮かんでいたはずの表情を、私は思い描いた。それらはもう思い出の中にしか存在していない。私は一つ大きくため息をついて、家に帰った。

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おもかげ 僕凸 @bokutotsu

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