第四章 乙女の決意

「こ、近藤さん……や、やっぱり、は、恥ずかしいです……」

「今さら何を言っているんだ。ほら、とっとと開け。入れにくいだろ?」

「……だ、だって……ぼ、ぼく、こんなの、は、初めてですし……」

「大丈夫だ。優しく入れてやるから安心しろ。ほら、いくぞ」

「……あっ……んっ……」

「ど、どうだ……?」

「あ、あついっ…………で、でも、すごく…………美味しい、です……」

「そうか。口に合うようで良かった」


 刀華は、ベッドの上に座る転校生の口からスプーンを引き抜いた。左手が抱えているお茶碗からは、作りたての雑炊がほかほかと湯気を上げている。人参、白菜、葱、大根、そして卵と鮭が入っており、なかなかに色とりどりだ。

 刀華は転校生に、手作りの雑炊を食べさせてやっているところだった。

 顔色は随分と良くなり、体温も微熱にまで下がっていた。だが、気を失ってから一晩中眠り続け、ようやく目を覚ましたのはつい先ほどのことだった。すでに太陽は西に傾きつつある。


「近藤さんって、料理、上手なんですね……意外です」

「意外とは何だ、意外とは」


 刀華はむっと唇を尖らせ、雑炊を乗せたスプーンを可憐な口に強引に突っ込んだ。


「あっ、あふっ……あ、あふいでふっ……」

「私だって一人暮らしをしているんだ。雑炊くらい作れるに決まってる。むしろ、カップラーメンばかり食べて生活しているお前がおかしいんだ。あの冷蔵庫、中身が空っぽどころか、電源すら入っていなかったのを知ったときは本当に驚いたぞ」

「く、口の中が焼けるかと思った……。で、でも、昼はちゃんと食堂で食べてますし……」

「昼だけだろうが。そんなだから、身体が弱いんだ」

「しゅいましぇん。残念じゃんねんなことに、みことはこのさいじゅでしゅので、できることと言えば、かっぷらーめんにお湯を入れてしゃし上げることくらいでして……」


 転校生の布団の上にちょこんと乗っかった機巧人形が、申し訳なさそうに言う。


「妹はどうしているんだ? お前がそんな状態なら、彼女の食生活も酷いものだろう?」

「瑠璃は……いつもネットで注文したものを食べてるみたいです……。定期的に段ボールが届くんですけど……開けると怒るので、何を食べているか知らないです……」

「健康食品か……まぁ、しかし、仕方ないと言えば仕方ないか」


 何せ二人には親がいないのだ。亡くなったというのではなく最初から。家庭の料理というものに一度も触れたことがないのだから、食べ物に無頓着になってしまうのも無理ないだろう。


「分かった。だったら、これからはお前たちの分まで私が作ってやろう」


 刀華の唐突な提案に、転校生は碧い目を丸くした。


「え? い、いえ……そんなの、わ、悪いです……」

「気にするな。どうせ一人分を作るのも二人分を作るのも一緒だからな。……それに、美味しいと言ってくれる相手がいると、作る方も張り合いがある。嫌だと言っても私は聞かないぞ。私は頑固だからな」


 刀華はふふっと笑って立ち上がった。空になったお茶碗を手に、流し台の方へと向かう。手早く洗剤で洗い、水切りカゴに置く。それからベッドに横になった転校生の元へと戻ると、


「あともう一つ、言っておくことがある」


 何だろうかと、不思議そうに見上げてくる転校生の無垢な瞳に、刀華は少しだけ続く言葉を出すのに躊躇した。


「お前の養父だという男に会った。……そして、お前たちの出生のことについてを聞いた」

「っ……」


 息を呑んだ転校生の表情が、みるみるうちに陰り、蒼ざめていくのが分かった。


「……すまないな。きっと知られたくないことだっただろうが……」

「い、いえ……」


 転校生は小さな唇を緩やかに曲げ、微かに笑った。それは、とても寂寞とした笑いだった。


「そう、です……。ぼくは試験官の中で生まれ、実験用の動物のように育てられたんです……。改めて考えてみると、怖ろしい存在ですよね……ぼくって……」

「そんなことはない!」

「近藤、さん……?」


 刀華の有無を言わせぬ否定に、転校生が弾かれたように顔を上げた。刀華は彼の瞳をじっと見据えながら、はっきりと告げる。


「怖ろしくなどない。私が知っているお前は、普通の人間だ。引っ込み思案で、いつもおどおどしていて、気が弱くて、思っていることをはっきりと口にできない、普通の人間だ」

「えっと……それって……もしかして、貶してます……?」


 刀華は思わず笑った。


「だが強く生きている。私には分かる。お前はそんな境遇であるにもかかわらず、めげずに、腐らずに、負けずに、強く生きようとしているということが」


 刀華は、研究所での一件や昨日のことを思い出していた。

 人の本当の強さというものは、極限の環境でこそ剥き出しになるものだ。極限の環境――すなわち戦場だ。普通の人間なら尻尾を巻いて逃げ出すだろう、化け物や自律機巧の群れ。疲労困憊の中、それでも転校生は一瞬たりともその瞳から闘う意志を陰らせることがなかった。悲嘆や絶望にとらわれた人間に、そんなことはできない。


「お前はそこら辺の士族などより、よほど骨のある人間だ。それは、私が保証してやる」

「こ、近藤さん……。そんなふうに言ってくださる人、初めてです………」


 下唇をきゅっとさせ、潤んだ瞳で見上げてくる転校生。保護欲を掻き立てられそうなその顔に、刀華は思わず言ってしまう。


「お前、本当に女の子のような可愛い顔をしているな」

「はうっ……。そ、それ……本当は結構、気にしてるんですよ……っ?」


 目尻に涙さえ浮かべて訴えてくる転校生だが、その様子がもう女の子そのものなのである。


「ごほん。それと、だ」


 刀華は一つ咳払い。そして決意の籠る声で言った。


「これからはお前の戦いに、私も参加させてもらう」

「え、え? ど、どういう?」

「どういうも何も、そのままの意味だ。先日や昨日のようなことがまた起こった場合、お前は本当に死ぬぞ。だから、私が手を貸してやろうと言っているんだ」

「で、でも、それは……」

「私は侍だ。侍とは正義に生きる者だ。私は、お前とともに戦うことが、自分の正義だと思った。だから、私はお前に協力する。協力したい。真実を知った今、ここで引き下がることは、私の侍としての矜持が許さない」


 刀華は気炎を吐く。そこには、当人も気が付いてはいないが、侍らしからぬ反骨的な想いも混じっていた。


「……だ、だけど……それだと、近藤さんまで、危険な目に遭うことに……」

「私の力を舐めてもらっては困る。十二分に戦力になれるという自負はある。それに、私はもう決めた。先ほども言ったが、私は頑固だからな。決めたからには必ずやる。お前が何と言おうとだ」

「………」


 転校生は顔を伏せて黙り込む。


「ましゅたー、みことは賛成でしゅ。刀華しゃまがいてくだしゃれば、ましゅたーの負傷確りちゅは格段にしゃがりましゅし、身体への負担も大幅に軽減できましゅ」


 一方でその愛機は喜色を露わにしていた。幾度か転校生の危機を救ったためか、彼女は刀華に好感を持ってくれているようだった。いつの間にか苗字ではなく名前で呼んでくれている。

 彼女の言葉が後押しになったのか、転校生は沈黙を破って口を開いた。


「……分かり、ました……では、お言葉に甘えて……」

「よし、決まりだな」


 満足げに首肯する刀華。転校生は両手を布団の上で揃えると、丁寧にお辞儀してみせた。


「……不束者ですけど……よろしくお願いします」








「くそにぃ! あほにぃ! ばかにぃ! うんこにぃ!」


 机をばんばんと叩き、瑠璃は苛立ちを露わにした。

 数あるパソコンのディスプレイの一つには今、自身が製造した機巧式神の一体である貴人みことの視覚情報が表示されていた。

 映っているのは、ベッドの上に座る、兄。

 そして、その兄と仲良さそうに会話している、女。

 この間も家にきた。昨日の展示会にもいた。学校でも。最近いつも兄の近くにいる。


「死ねっ! 死んじゃえ! うんこ漏らして食べて腹壊して死んじゃえ!」


 黙っていれば可憐なはずの唇から、次々と汚らしい罵倒の言葉が出てくる。机と叩く手にもさらなる力が籠るが、しかし、そんなことでは到底この怒りは収まらない。

 いや、怒りというより、不安だ。不安を怒りで紛らわしているのだ。あるいは、嫉妬と言い換えても良いかもしれない。


「ばかっ! ばかにぃっ! ばかおとこおんなっ!」


 手が赤くなっても、瑠璃は机を叩くのを止めようとはしなかった。







『東京第四地下街』を、二つの人影が行く。

 そこは世田谷区と杉並区に跨って地下に作られた、地下都市とも称される巨大な地下街だ。計三層あるその敷地面積は、ゆうに杉並区の二倍にも達している。

 今や東京の都市空間は地中にまで及んでいた。地下熱を利用した空調システムのお陰で夏は涼しく冬は暖かく、強い日差しも雨も風も無い。また車が走っていないことから交通事故に遭う心配も無く、常に清浄機で浄化されている空気は地上よりも綺麗なくらいだ。その快適さゆえに、年々、地下空間へのニーズは高まり、地下に暮らしている人々も少なくない。

 それはともかく。日の沈んだ地上に合せて光量が絞られているとは言え、二つの人影は道行く人々に決してその存在を認識されることがない。傍らを通り過ぎても、誰も気が付かない。


「……さすが、近藤さんです。まさか、この短期間で、そこまで隠形術を使いこなせるようになるなんて……」


 人影の片方――転校生が感嘆して言う。


「そ、そうか?」


 応じるもう一方の人影――刀華の声は少し上ずっていた。


「まぁ、呪術的なものは、天燃理心流の修行にも組み込まれていたからな。コツさえ掴めれば、大したものではない。……そ、それより、だ」


 刀華は周りを見渡す。そこは、色鮮やかなネオンが煌めき、夜が深まるほどに活気付く大人の街。スナックやバー、あるいは湯屋や遊女屋などが軒を連ねる、いわゆる歓楽街だった。


「こ、ここは高校生が来るような場所ではないな……」

「そう、なんですか……? 確かに、大人の人が多いみたいですけど……。でも、夜はどこに行っても子供は少ないですよ……?」


 転校生の頓珍漢な返答に、刀華は呆れ混じりの溜息を吐き出して、


「お前はもう少し世の中というものを知った方が良いな……。いや、ここがどういうところなのかは別に知らなくて良いが……」

「え? どういうところなんですか……? あ、あそこ、無料案内所って書いてありますけど……もしかして観光地とかですか?」

「こんなピンク色の多い観光地がどこにある?」

「桃源郷、とかでしょうか……?」

「さて、行くぞ」

「え? ちょっと近藤さんっ……? 今、もしかしてすごく呆れた顔されましたっ……?」

「ここのビルの三階が、住処になっているのか」


 転校生を無視し、刀華は目的の雑居ビルの非常階段を上がって行く。

「腕が鳴るな」







「中華系呪術マフィア《仙道狼シィェンダオラン》の拠点を叩いてからすでに数日が経ったが……連中は特に何も言ってこないか?」

「あ、はい……今のところは、ですけど……。でも、本当に大丈夫なんでしょうか……? 第三者を介入させていることが、もしバレてしまったら……」

「いや、恐らくそれくらいのことはすでに察知しているだろう」


 不安そうに唇を噛む転校生の意見に、刀華は冷静な分析を返す。


「諜報は奴らの専門だろうからな」

「ええっ……そ、それじゃ……」

「いや、だからこそ、心配する必要は無いとも言える。もし私がお前に協力することが、連中にとって本当に都合が悪いことだとしたら、もうとっくに勧告なり脅迫なんなりしてきているはずだ。静観しているということは、大して問題にしていない、あるいは黙認している、ということだろう。ただし、機密を漏らさなければ、だろうが」

「そう、ですか……あの……すいません」

「何で謝る必要がある。言っただろう? 私が好きでやっていると。……それより、早く食べないと昼休みが終ってしまうぞ」

「あ、はい……」


 昼休み。刀華と転校生は一緒に食堂に来ていた。周囲の年齢層は高く、ほとんどが二十代。中には四十代、五十代くらいの人もいる。というのも、わざわざ大学の食堂まで足を運んだからだった。色々と噂されているせいで、高校の食堂に二人で居づらくなったからである。

 刀華は転校生のランチトレイへと視線を向けた。


「しかし、お前は相変わらず少食だな」


 彼のランチトイレの上に乗っているのは、Sサイズの白飯、アジの塩焼き、味噌汁、それからほうれん草のおひたし。なかなかに質素だ。


「育ち盛りの男なら、もっと食べろ」

「……こ、近藤さんが食べすぎなんですよっ……」

「そ、そんなことはないと思う、ぞ……?」


 などと否定しながらも、刀華は自分でも確かにちょっと今日は食べ過ぎかもしれないと思った。

 刀華のランチトレイの上には、ネギトロ丼(大盛り)、豚の生姜焼き、鰤の照り焼き、豚汁、きんぴらごぼう、ブドウゼリー。転校生はさすがにちょっと呆れている。


「ネギトロ丼に豚の生姜焼きに鰤の照り焼きって……そういうメインディッシュ系のものは、普通、一食に一品だけですよね……?」

「お、お腹が空いていたのだから仕方ないだろうっ?」

「カロリー、きっとすごいことになってますよ……うわ、千百越えてます……」


 転校生は勝手に刀華のレシートを覗き見ていた。大学の食堂では、頼んだ料理の簡単な栄養成分とカロリーが表示されるという、ありがた迷惑なサービスが提供されているのである。


「言うな! こ、これくらい、稽古ですぐに消費してしまう! それに、私はどんなに食べても太らない体質だからな!」


 刀華はむすっと頬を膨らませると、その膨らんだ口に無造作に食べ物を放り込んでいく。


「……近藤さんって、たまに、すごくムキになりますよね……?」

「なっ……。う、うるさいなっ。どうせ、私は可愛い女ではないっ」

「……いえ、むしろそういうころとかが、なんていうか……かわいい、と思いますけど……」


 ぶっ、と刀華は口の中のものを噴き出してしまった。慌ててナフキンで拭く。


「なななっ、何を言っている!? だ、だ、誰が可愛いだっ……」

「……そういう反応をする、近藤さんが、です……」

「ばばば馬鹿っ! 人をからかうのも大概にしろ!」


 頬がかぁぁぁっと熱くなった。それを誤魔化すようにそっぽを向いて頬を膨らませる。


「そ、それに、お、お前に可愛いとか言われてもっ……べ、別に嬉しくなどないからなっ……」


 そもそも、転校生の方がよほど可愛い顔をしているのだ。


「そう、ですよね……ごめんなさい……」

「い、いや、本気で謝られても、困るが……」


 前からそうだが、転校生と話をしているとどうも調子が狂う。

 だが、決してそれが不快ではない。最初はなんて女々しい奴なんだと少し苛立つときもあったが、今はそうは思わない。むしろ一緒にいると、すごく…………楽しい。

 そう言えば、先日のメガサイトでの一件以来、ほとんど一緒にいる。クラスメイトで家が隣同士なのだから当たり前と言えば当たり前だが、こんなに同級生の男と親しく接したのは、刀華にとって生まれて初めてのことだった。そう考えると、なぜか気恥ずかしいような気持ちになり、頬に不思議な火照りを覚えてしまう。


「……ど、どうされました……?」

「な、何でもないぞっ」


 頭を振って、刀華ははぐらかす。


「そ、そう言えば、お前、左利きなのか?」

「え? あ、はい、そうです、けど……」


 転校生は左手で箸を持っていた。


「そうなのか。だったら、あのとき、刀の構えは間違っていなかったのか」


 以前、手合わせしたときのことを思い出し、刀華は呟く。左右が逆だと注意したのだが、左利きならあれでも良かったのだ。かつては無理やり矯正させられていたらしいが。


「あら、相変わらず仲が良いわね。こんなところで逢引きだなんて」


 不意に背後から聞き慣れた声がした。振り向くと、藤原千夏がいた。


「……べ、別に逢引きなどではない! ちょっと話すべきことがあっただけだ!」

「そうなの?」


 と、藤原は意味ありげな笑みを顔に浮かべて、


「でも頑張ってね、近藤さん。先生、応援してるから」

「だ、だから違うと言っているだろっ。……そもそも、二十代後半独身女性のお前に応援される筋合いはない」

「あら、ひどーい。そりゃあ、先生も良い男がいればとっくに結婚してるわよ。でもね、残念なことに、なかなかいないのよ。先生のような高根の花とつり合うような人が」

「それを自分で言うか……?」

「あー、どこかに頭が良くて優しくて顔が良くて、しかも貧乳歓迎って人いないかしらー」


 自虐的にそんなことを言う藤原の胸は――いや、本人の名誉のために伏せておこう。

 ……やはり、先生も悩んでいるのだろうか。い、いや、別に私は悩んでなどいないけどな!


「にしても、どうして男って胸が大きい方を好むのかしら。ねぇ、近藤さん?」

「なぜ私に意見を求める!? 私は別に気にしてなどいない!」

「木下君だって、やっぱり大きい方が良いんでしょ?」

「え? あ、いえ、ぼ、ぼくは……」

「ち、小さいとダメなのか!?」


 思わず身を乗り出し叫んでしまった刀華は、ハッとして咳払い。そして、何事も無かったかのように座り直した。


「……さて、早く食べないと昼休みが終ってしまうな」

「あなた今、無かったことにしたわね?」


 藤原はくすくすと笑って、それから「じゃあ、わたしはこの後、高校の方で授業だから」と言い残して去って行った。まさか、からかうためだけに声をかけたのだろうか。性格が悪い。

 再び二人きりになった直後、転校生と目が合った。彼は一生懸命な顔で言ってきた。


「あ、あのっ……ほ、ほんとにっ、胸の大きさなんて、ぼくは、全然気にする必要ないと思いますからっ……」

「だから気にしてなどいない言っているだろう!?」


 優しさは時に人を傷つけることがあるのだ。







「何で怒られたのかな……?」


 秀美は不思議そうに首を傾げつつ、廊下を歩いていた。

 先ほど食堂で「胸の大きさなんて気にしなくて大丈夫!」と彼女を励ましたつもりだったのだが、なぜか怒られ、その後も彼女はずっと不機嫌そうにしていた。たぶん女の子には女の子の事情というものがあるのだろう。そんな風に自分に合点させ、秀美は用を足すため男子トイレに入る。

 すれ違った男子が一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに胸を撫で下ろしたようだった。転校してきた頃は毎回のように「女!?」などとと驚かれたものだが、最近はようやくそれも無くなってきた。たまに今のように「えっ?」という顔をする人もいるにはいるが、大抵は「ああ、あの噂の」という形で落ち着く。

 秀美が便器の前に立とうとしたとき、不意に個室の方から不気味な声が聞こえてきた。


「……近藤刀華……木下秀美……近藤刀華……木下秀美……」


 え? な、なんでぼくと、近藤さんの名前を……? 

 しかも、まるで念仏を唱えるかのような、いや、むしろ呪詛するかのような、苦しげな声で名前を復唱していた。かなり怖い。


「……近藤刀華……木下秀美……近藤刀華……木下秀美……ああっ! 拙者はっ! 拙者は一体どうすれば良いのだぁぁぁっ!」


 いきなり苦悶の叫び声が上がったので、秀美はぎょっとした。


「どっちを選べと言うのだっ!? いや、どっちだと!? 無理だ! 拙者にはどちらかを選ぶことなどできんっ! どうしてもできんっ! ああああああああああああっ!」


 やばい。中にいるのは、きっとかなりやばい人だ。

 秀美は中にいる人が出てくる前にと、すぐさまその場から立ち去ろうとした。


「わっ」


 が、慌てたあまり前を見ておらず、ちょうどトイレに入ってきた人物とぶつかってしまう。

「……え?」と、秀美はその場で固まった。一方の相手はちょっと目をぱちぱちした後、


「あらごめんなさい。間違えてしまったわ。女の子が入っていくのが見えたと思っちゃって。にしても、今日はよく会うわねぇ」


 などと言ってあっけらかんと笑うのは、先ほど会ったばかりの藤原千夏だった。


「そ、そうですか……すいません、藤原先生。ぼく、こんなで……」

「別に、木下君が悪いんじゃないわよ。むしろ先生、その顔、とっても可愛くって好きよ?」


 藤原はにっこり微笑み、こちらの顔を撫で回すように眺めてくる。

 ふとその顔を見返していて、秀美は得体のしれない違和感を覚えた。背筋を何か冷たいものが撫でていくような、そんな感覚があった。


「あ、あの……」

「あら、ごめんなさい。つい魅入っちゃったわ」


 困った顔をする秀美に、彼女は悪戯っぽく微笑してから踵を返し、先に男子トイレから出ていく。


「……はぁ……もうちょっと、男らしい顔に生まれたかったな……」


 秀美は深々と溜息を吐き出した。しかし、そもそも自分たちが誰の遺伝子を元に作られたのかも知らない。今思うと比較的みな顔が似ていたので、同じ遺伝子の可能性はあるだろう。

 あの施設を作ったのは、ある反政府組織を率いるある一族だった。基本的に組織の構成員が施設を運営していたため、秀美は一つの例外を除けば一度も連中に会ったことはない。

 それでも彼らに対して抱く怒りは強い。

 あの施設にいたのは奇形の子供ばかりだった。腕が二本ではなかったり、目が二つではなかったり、あるいは普通の人間にはないものが付いていたり。

 だがそれが一体なんだというのだろうか。たとえ大なり小なり異常があろうとも、嬉しいことがあれば笑い、悲しいことがあれば泣く、ちゃんと人間らしい心を持った子供たちだった。

 それなのに彼らは殺された。失敗作との烙印を押され、まるで壊れたおもちゃを捨てるときのように、無慈悲に、無造作に、何の躊躇もなく処分されてしまったのだ。

 それが秀美には許せない。

 だから戦うと決めたのだ。もう二度と、あんなことが繰り返されないように。

 それがあの夜を生き伸びた自分の使命だと、秀美は信じている。

 ただ特高に命じられているがゆえに戦っているわけではない。その先に、いずれその一族と交わるときがくるであろうからこそ、厳しい任務にも耐えているのだ。


 ――とっとと始末しちゃって。実験は失敗。こいつら、失敗作のゴミ屑だから。


 そして、あの男とも……。

 不意にまたしても先ほど覚えた違和感が、曖昧模糊としたまま頭の中に染みだしてくる。

 何だろう、これは……?


「木下秀美……っ? な、なぜここに……?」


 突然、背後から名前を呼ばれて我に返った秀美は、振り返って硬直した。

 一メートル九十はあろうかという巨漢が立っていた。

 色々と大ぶりな顔立ちは、どこかで見たことがある気がしたが、今は悠長にそれ思い出そうとしている場合ではない。先ほど、不気味な声が漏れ聞こえてきていた個室のドアが開いていた。つまりは目の前に屹立する巨漢が、中でぶつぶつと呟いていた人物に違いなかった。

 巨漢はなぜか眼球をキョロキョロ、口をパクパクさせていたが、やがて厚い唇をギュッと噛みしめ、何かを決意したような顔付きとなった。


「いや、そうだ。これは、きっと運命だ! ここでお主に再び出会えたこの瞬間を、運命と言わずしてなんと言おう!」

「え、え、え……?」


 なんとも大袈裟で理解不能なことを言う巨漢に怯え、秀美は後ずさる。


「木下秀美ぃぃぃぃぃぃぃぃぃっっっ!!」

「ひっ……」


 巨漢がいきなり突進してきたかと思うと、秀美の両肩を無造作に掴んだ。

こ、殺される!? し、式神をっ……。

 秀美は肩を抑えられながらも、腕を懐へと伸ばし入れた。しかし、なんとかひとかた人形を掴み出そうとしたその寸前、巨漢が大声で叫んだ。


「お主のことが好きだぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!! 結婚を前提に付き合ってくれぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」

「……え?」


 秀美は思わずひとかた人形を手放してしまう。


「すまぬ近藤刀華ぁぁぁっ! お主という者がいながら、彼女を選ぶこの拙者をどうかっ、どうか許してくれぇぇぇっ! だが、拙者はこの娘子を一目見たその瞬間から、もはや後戻りできない永遠の恋に落ちてしまったのだぁぁぁぁぁぁっ!」

「えっ、えっ、えええっ……!?」


 もう何が何だか分からない。しかし、これだけは分かる。この人、本当にやばい。


「木下秀美っ……どうかこの拙者の真摯な想いを受け取ってくれぇぇぇっ!」


 とにかくはっきり断ろう。断るのは苦手だが、そんなことを言っている場合ではない。


「あ、あなたとはっ……つ、付き合えません……っ!」


 秀美の断言に、巨漢は可哀想なくらいに愕然とした。


「なぜだ!? せ、拙者はっ……拙者はこんなにも愛しているというのに!」

「……い、いや……そそ、そんなこと言われても……ぼ、ぼく、あなたと面識ないですし……そ、それにっ……」


 そうだ。なんですぐに気付かなかったのか。この人は、きっと間違えているのだ。

 秀美はトドメとばかりに真実を告げた。


「……ぼく、男、ですし……っ!」

「……へ?」


 巨漢の表情が固まった。

 肩を掴んでいた手の力が緩んだ一瞬の隙を突き、秀美は一目散に逃げ出した。







「……間違いない。そいつは三年の山本だ」


 放課後の校舎。廊下を二人で歩きながら、彼女はこれでもかというくらい苦々しい顔で今日の昼に遭遇した巨漢の名前を教えてくれた。


「こ、近藤さんの、お知り合いですか……?」


 秀美が問うと、彼女は声を荒げて否定した。


「知り合いなわけがあるか! あれは、私とはまったくもってまるで何も一ミクロンも関係のないただの変態だ!」

「そ、そうなんですね……。あの……ほんと、怖かったです……」

「もしかして……何かされたのか?」と問うてくる彼女の顔は、いつになく真剣だった。

「何か、っていうか……」


 秀美は口ごもる。さすがに女子と間違えられ、告白されたなどとは恥ずかしくて言えない。

 そうこうしている内に校舎から出て、いつも別れる地点に辿り着いていた。秀美ははぐらかすように話題を変える。


「あの、ええっと……きょ、今日も、稽古ですよね?」

「え? あ、ああ。だが、七時には家に帰る。……確か、十時からだったな?」

「は、はい……。……あの、また……協力、してくださるんですか……?」

「当然だ」


 秀美が問うと、彼女は逡巡の欠片すら見せず即答した。本当に男気溢れる人だなと、秀美は思う。


「……あ、ありがとう、ございます」

「礼はいい。何度も言っただろう? 私が好きでやっているんだと。じゃあ、また夜にな」


 軽く手を振って道場の方へと向かう彼女に「は、はい」と応じて、秀美も歩き出した。

 最近、秀美は家まで歩いて帰ることにしていた。毎日欠かさず激しい稽古をしている彼女に触発され、少しでも体力を付けようと思ったのだ。

 温かい長羽織や西洋外套を着ている勤め人と思しき人たちが、すでに陽の落ちた街を忙しなく歩いていた。師走の忙しい時期は、人々の足取りも自然と速くなるようだ。初冬の空気が冷たく、ふとあの雪の夜のことが思い起こされる。

 しばらく歩いていると、リュックサックのファスナーが内側から開き、みことがぴょこっと顔を出した。


「刀華しゃまは、本当に良い方でしゅ」

「そうだね……」

「お料理は上手でしゅし、おやしゃしいでしゅし、そして何より、とてもちゅよい方でしゅ。刀華しゃまがお手伝てちゅだいくだしゃった先日しぇんじちゅの任務、みことの予測よしょくでしゅと、ましゅたー単独であれば倍以上の時間がかかっていました。式神の破損はしょんも軽微におしゃえられましたし、体力・魔力の温存おんじょんもできました。お陰で、今日の任務にも万全ばんじぇんの体調で臨めましゅ」

「……うん」


 と、秀美が曖昧に頷いたからか、みことが不思議そうな顔で見上げてきた。


「ましゅたー? どうかしゃれましたか?」

「ううん、何でもないよ」

「……もしかして、ましゅたーは刀華しゃまが協力してくだしゃることを、あまり良くは思っておられないのでしゅか?」

「……そういうわけでは、ないんだけど……。実際、本当に助かっているし、すごくありがたいと思う……。ただ……」

「ただ?」

「……彼女がいてくれて、確かに、ぼくの生存確率は上がるかもしれない……。だけど、それは、彼女が負う危険の上に成り立っているものだから……」

「……しょれは、何度もおっしゃっておられましゅが、刀華しゃまご自身が望んでされていることでしゅし……」

「うん、分かってる……。でも……もしものことがあったらって思うと……。それに……やっぱりこれは、あくまでのぼくの戦いだとも思うから……」

「…………」

「本当に、このままで良いのかな……?」


 答えの出ない呟きが、冷たい風に紛れて消えていく。

 そこで、ふとあることを思い出した秀美は、みことに訊ねた。


「そう言えば、この間のハッキングのことだけど……」

「そうでしゅた。やはり予測よしょくした通り、遠隔操作ういるしゅに感染かんしぇんしていたようでしゅ。またしょのういるしゅは、展示されていた他の自律機巧たちに感染していたういるしゅと同一どういちゅのものであるとの確認もできました。おしょろしく巧妙なぷろぐらむで、ちゅくった者は間違いなく超級のぷろぐらまーでしゅ」

「でも、他の自律機巧たちはともかく、みことには一体どこから感染したのかな……?」

「しょれが、分からないのでしゅ……。みことは基本的に外部とは特高としかやり取りをしましぇんので、感染かんしぇんする経路けいりょとしたらそこからしか……。でしゅが、彼らの方はういるしゅに感染したという事実じじちゅはないとのことで……」


 みことが首を傾げ、秀美も釣られて首を傾けた。


「感染経路けいりょにちゅいては、もうしゅこ少し調べてみましゅ」

「うん、お願い」


 そんなことを話している内に、やがてマンションに辿り着いた。

 オートロックの電子錠を開錠し、立体ホログラムで描かれた日本庭園の先にあるエレベーターで最上階へと上がる。大坂で訓練を受けつつ任務をこなしていた頃は随分と年季の入った屋敷に暮らしていたため、この高級感漂う雰囲気に未だ馴染めない。まさかこんなところに住むことになるとは、上京を打診された際には思ってもみなかった。

 部屋に入ると、中は真っ暗だった。瑠璃は部屋にいるはずだが、ほとんど気配も無い。


「しょう言えば、最近しゃいきん、瑠璃しゃまの様子ようしゅが少しおかしいでしゅ」

「瑠璃の……?」

「はいでしゅ。しょの、ご機嫌斜めと言いましゅか……。いちゅもしょうだと言えば、しょうなのでしゅが、最近は特に……」

「何か、あったのかな……?」


 言われてみれば、ここ最近いつにも増して部屋から出てこない気がする。

「みことにも分かりましぇん。みことも顔を合わせて会話しているわけではなく、ただ電子的にやり取りをしているだけでしゅし……」


 心配だ。正直、秀美は彼女とどう接したら良いか未だに分からない。それでもあの施設から一緒に逃げ出してきた大切な妹だ。引き籠ってばかりいるが、放っておくわけにはいかない。

 彼女の部屋の前に立ち、呼びかけてみる。


「瑠璃……起きてる?」


 返事はない。


「大丈夫……? 最近、ぜんぜん顔を見ないけど……」


 どん、という振動が響いた。


「……あの……何か、あったのかな……?」 ――どん!

「……あの……心配、なんだ……」 ――どん!

「……もしかして、機嫌が悪いの……?」 ――どん!


 取り付く島もなかった。

 仕方なくドアの前から立ち去ろうとしたとき、中から罵倒が飛んできた。


「あほっ! あほにぃっ! あほにぃなんか、大嫌いだっ!」


 秀美は大きなショックを受けた。いつも酷いことを言われてきたが〝嫌い〟と言われたのは初めてだった。


「……ど、どうしたの? ぼく、何か、嫌われるようなこと、しちゃったかな……?」

「うっさい! 嫌いったら、嫌いっ!」


 どんっ、といきなりドアが開く。くしゃくしゃの服を着て、ボサボサの金髪で顔を隠した瑠璃が出てきた。


「嫌いっ! ばかにぃなんてっ……嫌いっ、嫌いだっ……うっ……きらい……うっ……」

「瑠璃……?」


 肩が痙攣したように上下し、口からは嗚咽のようなものが漏れていた。ぽたぽたと、小さな雫が廊下を濡らす。


「ど、どうしたの……? なんで……泣いているの……?」

「うっ……うっ……やっ」


 肩に触れようとした秀美の手が、柳のように細い腕で振り払われた。長い前髪の間に覗く頬が少しこけている。あまり食べていないのかもしれない。秀美は拒絶されるのを承知で今度はもっと強い力で彼女の肩を掴むと、そのまま小さな身体を抱き締める。最初は抵抗されたが、すぐに大人しくなった。


「……瑠璃……お願い……話して、くれないかな……? もしぼくが、何か瑠璃が嫌がるようなことをしちゃったというなら、ちゃんと謝るから……」

「……う……うっ……あいつっ……あのっ……あのおとこおんなっ!」

「おとこ、おんな……? もしかして、近藤さんのこと……?」

「……いっしょにっ……いてほしくないっ……あいつっ……きらいっ……」


 秀美の着物をぎゅっと握り締め、ひくひくと喉の奥を鳴らしながら訴えてくる。


「ど、どうして……?」


 二人は今まで直接的に顔を合わせたことすらない。なぜそんなにも嫌うのか秀美にはまるで分からなかった。瑠璃はふるふると首を振る。秀美はそのまましばらく妹を抱き締め続けた。


「……これは、瑠璃たちだけの戦い。……あいつには、関係ない。……瑠璃と、にぃだけで、いい。それで、じゅうぶん。他のやつは、いらない。不要」


 ようやく心を落ち着かせた瑠璃の口からぽつぽつと出てきたのは、そんな主張だった。


「で、でしゅが、瑠璃しゃま……。刀華しゃまのお陰で、ましゅたーは以前いじぇんよりずっと安全あんじぇんに……あひゃうっ」


 瑠璃に頭を掴まれてぐにぐにされ、みことが悲鳴を上げる。


「式神、性能あげる。問題は、ない」


 有無を言わさぬ口調の瑠璃。

 だが、いかに式神の性能を上げようと限界がある。それに、彼らを操る秀美の体力の方は、ほとんどその性能とは無関係だ。彼女の力を借りなければ、戦力が格段に低下する。それは間違いない。もっとも、今までもずっとそれで何とかやってきたのだが。


「じゃないと、瑠璃は、もうやめる。にぃは、勝手に、すればいい」


 最後にそれだけ言い残し、瑠璃は儚げな後ろ姿を見せて自室へと戻っていった。


「頭が痛いでしゅ……」


 頭をさすりながら、みことが心配そうに秀美の顔を伺ってきた。


「ましゅたー、どうしゃれましゅか……?」

「そう、だね……」


 つまりは、どちらかを選ばなければならないのだ。

 たった一人の妹か。それとも、知り合ったばかりのクラスメイトか。

 すでに秀美の結論は出ていた。







「どういう、ことだ……?」


 転校生からの唐突な申し出に、刀華は呻くように訊き返した。


「すいません……。……でも……やっぱり、もう、やめていただきたいんです……」


 マンション最上階の廊下で向かい合う転校生は、弱々しい口調で、しかしはっきりとその意志を伝えてきた。すでに黒い装束に身を包んだ刀華は、不審げに片眉を吊り上げる。


「……どうしてまた急に? 帰り際にはそんなことは言っていなかったじゃないか?」

「その……考えが、変わったんです」

「……考えが変わった?」


 無論、それだけでは納得がいかない。


「何か、あったのか?」

「いえ……そういう、わけではないんですけど……」


 刀華は、ふぅ、と息を吐いて心を落ち着ける。


「だとしたら、まだ私のことを心配してくれているのか? そんな心配はいらんと言っただろう? 私はそう簡単にやられはせん。むしろ、身体の弱いお前の方がよほど心配だ」

「で、でも……ぼくは、良いんです……。だって、これは、ぼくの問題ですし……」


 少しカチンときた。だから、それも何度も繰り返した議論だろう、と。


「お前の問題かもしれんが、私は自分の意志で首を突っ込んでいるんだ。その時点で、お前が気にする必要などない。たとえ何があっても、私自身の責任だ。そしてその考えを、私は何があっても曲げんと言っているだろう!」

「……どうして、ですか?」


 そう問うてきた転校生の声は震えていた。唇を噛み、拳を握り締めている。


「どうして、だと?」

「……どうして……どうして、そんなに自分勝手なんですか!?」


 その声が殊の外大きかったので、刀華は一瞬たじろいでしまう。


「自分、勝手……?」

「だって、そうじゃないですか! ぼくはっ……ぼくはこんなにもっ……ちゃんと断っているというのに! 自分の責任だからとか、自分の考えは曲げないだとかっ! そんなことを言って、全然聞いてくれないじゃないですかっ! それって……それって、自分勝手じゃないんですかっ!?」

「な……」


 氷の手で掴まれたかのように、心臓がぎゅっと縮んだような気がした。

 自分勝手……? 違う。私は、ただ良かれと思って……。いや、それが、こいつにとっては余計なお節介だったということか……?

 心が明らかに動揺した。しかし、刀華はそれを抑え込む。頭に思い浮かぶのは、先日のロボット展。転校生の蒼白な顔。紫の唇。酷い熱。気を失って、まる一日、目を覚まさなかった。

 一体どれほど心配したことか。あんな姿はもう見たくなかった。


「じ、自分勝手で何が悪い! 私は、それを正義だと信じている!」

「……ぼ、ぼくはっ……その自分勝手な正義が、迷惑だって言ってるんです……っ!」

「……っ」


 怒りが込み上がる。あんな姿を晒しておいて、何が迷惑だと言うのだ。だが、転校生が次に告げた言葉に、刀華は継ぎ句を失ってしまった。


「……近藤さんのせいで……瑠璃が、苦しんでいるんです……」

「どういう、ことだ……?」

「瑠璃は、怖いんだと、思います……。ぼくを……誰かに取られてしまうことが……。いつもぼくを罵倒してくるけれど……本当は、すごく、寂しがり屋なんです……。……それに……ぼくも……ぼくも、瑠璃のことを、心から大切に思っています……」


 転校生は、喘ぐようにとつとつと言葉を紡いでいく。


「……確かに、近藤さんには……とても、感謝しています……。でも、でもぼくにとっては……瑠璃の方が、ずっとずっと大切なんです……。……だから、ぼくは……ぼくは、瑠璃が悲しむというのなら……はっきりと、言わなければならないんです……」


 転校生が俯けていた顔を上げる。哀しげな、申し訳なさそうな顔をしていた。


「ごめんなさい。……もうこれ以上、ぼくたちの問題に首を突っ込んでこないでください。……お願いします」


 そして深く頭を下げてから、転校生は刀華の傍を通り過ぎていく。たった一人で、己の戦場に向かって。

 刀華はその後ろ姿を、ただ見送ることしかできなかった。







 部屋に遊びに来たいという友人がいても、刀華は必ず断ることにしている。

 理由は単純。誰にも見られたくないからだ。

 ガンムサシのプラモデルや刀剣類などで溢れているのは別に良い。男っぽい趣味だねと言われるのは慣れているし、自分でもそう思っているからだ。

 だが、実は可愛いぬいぐるみも多数置かれていることが知られてしまうのは、どうしても嫌だった。妹から『刀華ちゃんがぬいぐるみ好きだって教えたら、クラスのみんな爆笑してたよ!』と言われて以来、そういうものが周囲の認識している自分像とは大きくかけ離れているということを自覚しているからだ。

 刀華は今、一番のお気に入りであるくまにゃんの特大ぬいぐるみを胸に抱き、ベッドの上に座って壁にもたれていた。ぬいぐるみは数年前の誕生日、祖父母から貰った特注のプレゼントである。

「私は……」自分勝手だったのだろうか? 迷惑な奴だったのだろうか?

 そうかもしれない。自分がもし逆の立場だったら、確かに嫌だったかもしれない。

 だがそれでも、力になりたかったのだ。それなのに――


「……ばか」


 小さな呟きが、くまにゃんの頭に置いた唇から洩れる。


「私だって」


 ――そんなふうに言われたら、私だって苦しいに決まっている。

 それでも、込み上げてくるものは堪えた。

 泣くか馬鹿。私は士族だ。侍だ。涙なんか流して堪るか。

 そのプライドが、心に入った亀裂を辛うじて亀裂のままに留めさせてくれた。







「これは……」


 モニター上に表示されたその写真に、木下藤次は驚きでしばし言葉を失った。


「かなり時間がかかってしまいましたが、間違いありません」


 応じたのは、部下の浅野だ。木下は思わず唸る。


「経歴や名前くらいは当然、詐称しているとは思っていましたが……まさか、そんなところまで偽っているとは。道理で、なかなか調査の網に引っ掛からなかったわけです」


 木下は、写真の人物の名を苦々しげに口にした。


反政府組織聚楽《じゅらく会》。その幹部にして、羽柴家の一人、羽柴國龍くにたつ

 羽柴家――それはかつて「豊臣」という姓を名乗り、この国の天下に君臨した家柄だ。

 しかし、その立役者たる豊臣秀吉の死後、関東の徳川家康が台頭すると、政権の座は次第に家康へと移っていく。やがて関ヶ原で勝利を収めた家康は、さらに大坂の役によって羽柴家当主の羽柴秀頼とその子・国松を討ち、羽柴の血筋を根絶やしにした。

 だが、実は国松は落ち延びていたという。

 若干七歳の幼子は、鳥獣の生肉を喰らい、泥水を啜って生き抜いた。ひとえに徳川に復讐せんという一念で。

 とは言え、真偽は定かではない。なにせ昔のことだ。ただの作り話かもしれない。

 しかし現在、その子孫を名乗る彼ら一族が、反徳川の急先鋒と言っても過言ではない存在であるのは確かだった。

 数代に渡って続いている幼帝と、その傀儡政権に対して強まる国民の不信感に乗じ、討皇の準備を進めているという不穏な動きもある。


「それで……奴の目的ですが――」


 浅野が告げた言葉で、木下はさらに表情を苦々しく歪めた。


「なるほど……。当時の総長は軍と浅からぬ関係を持っていたそうですが、まさかそんな物騒なものをあんなところに隠していたとは」

「ですが、さすがにを突破することはできなかったのでしょう。現状、何の動きも見られません。しかし、いかがいたしましょう? 学内への介入は、学内自治を主張する教授陣や学生組織との更なる軋轢に繋がります」

「大学側と手を組み、介入の事実自体を揉み消してしまいましょう。隠蔽の件に目を瞑ることを引き換えにすれば否とは言えないでしょうしね」


 そこで木下の目が、獲物を狙う獣のようにすぼめられた。


「浅野君。彼の名を借りて、奴を誘き出してください。そして特別部隊に出動命令を。無論、その彼も作戦に加えます。標的の生死は問いません。絶対に逃さないでください」







 その日、刀華の姿は京都にあった。

 中央リニア新幹線で小一時間。現在のみやこと古都は、今や目と鼻の先だ。早朝六時前にマンションを出た刀華は、七時には京都駅に、そして八時には京都の北東、霊峰として知られる比叡山の麓にある実家に辿り着いていた。


「ただいま」

「はにゃ!? 刀華ちゃん!? にょぉっうと!」


 引戸を開けると、玄関で靴を履きかけていた妹が仰天の声を上げた。どうやらちょうど学校に行くところだったらしい。にょぉっうと、という奇妙な掛け声は、地面に落ちかけた食パンをぎりぎりのところでキャッチしたときのものだ。


刃菜はな、お前また食パン咥えて……いい加減、早く起きれるようになれ」

「そそそ、そんなことより!」


 短めの髪を無理やりツインテールにした妹・近藤刃菜は、円らな目をパチクリさせて叫ぶ。


「何で刀華ちゃんがおるん!? 幽霊!? それとも誰かの変装やろか!?」

「本人だ、本人。あと、姉に向かってちゃん付けするのやめろ」

「むむぅ~、やけど、刃菜はそー簡単には騙されへんよ! 本人言うんなら、その証拠として刃菜の秘密を言ってみそ!」

「小学六年生のときに寝小便した」

「にゃあああああっ! 刀華ちゃんしか知らない、刃菜の超絶恥ずかしい秘密を知っているなんてぇぇぇっ!」

「これで納得したか?」

「組織はもうそこまで刃菜のこと調べとったんかっ? ま、まさか、刃菜の正体まで……?」

「何の組織だ何の正体だ」


 刀華は呆れの吐息を漏らす。妹はちょっと中二のビョーキなのだ。


「どうでも良いから、とっとと学校に行け」

「おねぇ……刀華ちゃん、学校どしたん? やめたん?」

「何で言い直した? やめるか馬鹿。事情があって休んだだけだ。明日には東京に帰るがな」

「刀華ちゅわぁぁぁぁぁぁぁぁぁっん!」


 気持ちの悪い絶叫が上ったかと思うと、いきなり廊下の向こうから突進してきたのは、つるりとした禿頭の髭面中年男――刀華の父親である近藤豪剣ごうけんだった。

 抱きついてこようとした父親を、刀華はひらりと身を翻して回避。ずごん、と豪剣の額がドアの上部に激突する。


「いきなり抱きついてくるな、馬鹿親父」

「あたたた……」


 豪剣は額を抑えてしばし悶絶。


「と、刀華……な、なぜ父の愛を拒むんや? ワシは、こんなにもお前を愛しとるのに……」

「母さんはもう仕事に行ったか……。刃菜、お前も早く行け。本当に遅刻するぞ」


 父親の哀切な訴えを、刀華は無視した。


「にゃっ、もう二十分やん! 刃菜、行っきまーす!」


 刃菜が慌てて飛び出していく。「ワ、ワシは無視か……」という父親の情けない声はやはり無視し、刀華は家に上がった。築百年以上にもなる木造の武家屋敷で、仄かに漂う古い木の香りがなんだか懐かしい。


「相変わらず、騒がしい家だ」


 だが今は、それがかえって有り難かった。







 実家の裏手にある山中を少し行くと、近藤家が勝手に『修行の滝』と呼んでいる滝がある。

 滝と言っても、三メートルほどの高さしかなく水量もたかが知れてはいるが、それでも己の気を静め、心身を浄化させるには十分だ。

 すでに十二月。しかも京都の朝は寒い。だが、刀華は行衣に裸足という出で立ちで滝の前に立っていた。さらに、その行衣すらも脱ぎ捨てる。露わになる白い肌と鍛えられた四肢。胸にはさらしを、下には褌だけを付けていた。肌を撫でる微かな風が痛い。


「はぁはぁ……ふんどし姿の刀華ちゃんマジ最高天使や……」

「写真撮るな家に戻れこの阿呆」


 刀華はカメラ片手に隠れて付いてきていた父親を睨んで追い返す。


「でないと、二度と口を利いてやらん」

「そ、それはなんと無体な……せ、せめて奇跡の一枚を」

「帰れ」


 無念そうにすごすごと帰っていく豪剣。刀華は心を落ち着け直し、力強い足取りで滝壺へと入った。凍てつく水温が、すぐに足の感覚を奪っていく。

 真言を唱えながら心頭滅却。滝に打たれると、あまりの水の冷たさに思わず全身の穴という穴が縮こまる。だが、次第に冷たいという感覚は薄れていく。さらに「氣」を身体中に循環させていけば、だんだんと温かいとすら思えるようになっていった。

 やはり滝行は良い。自身の紡ぐ真言と水の音だけが、世界のすべてとなる。

 滝に打たれている間は、俗世の何もかもを忘れることができた。







「滝に打たれている間は、忘れられたのだがな……」


 思わず苦笑しながら、刀華はそう呟いた。

 時刻は夕刻、陽はほとんど沈みかけている。気付けば十時間近くも滝に打たれ続けていた。我ながら怖ろしい体力だ。

 風呂場の脱衣所でさらしと褌を脱ぎ、手拭いで水滴を拭き取っているとノックの音がした。


「刀華ちゃん、お帰りなさい。随分と急だったわね」

「母さん」


 刀華の母親である近藤鞘香さやかが、柔和な笑みを浮かべて脱衣所に入ってくる。続いて父親まで入ってこようとしたので、無理やり扉を閉めてやった。足の指が挟まったらしく、悶絶する声が聞こえたが、構うものか。


「なぜ母さんは良くてワシはあかんのや!?」

「当たり前だ!」


 父親を完全に追い出した刀華は、母親と向き合った。とても四十間近には見えない若々しい肌と、艶を失わない黒髪。背は刀華よりも少し低い。刀華や刃菜、あるいは豪剣と対照的に物腰は柔らかで、その仕草一つ一つに上品さが漂う。


「すまないな、急で」

「いいのよ。それより何かあったの? いきなり帰ってきたと思ったら、ずっと滝に打たれていたらしいじゃない」

「突然、精神統一したくてなって、な」

「そう。でも、その割にまるで表情が晴れてないわね」

「………」


 さすが母親と言ったところか。顔色一つで察せられてしまったらしい。事実、十時間も滝に打たれておきながら、まだ刀華の心の中のもやもやは晴れていなかった。


「ちょっと、悩むことがあってな」

「珍しいわね、刀華ちゃんが悩むなんて」

「わ、私だって、悩むときくらいある」

「そうよね。だって、思春期だもの」


 言いつつ、鞘花は刀華の着物を脱がし始めた。


「せっかくだから、このまま一緒にお風呂に入りましょう」


 父親には反発――というよりあしらっていると言った方が適切だが――ばかりしている刀華だが、基本的に母親には逆らわない。いや、逆らう気が起きないと言った方が正しいかもしれない。美人で良妻賢母で仕事もして家計を支えてくれている。こんな理想的な母親に反発するのは、よほど心の擦れた反抗期の子供くらいだろう。


「もしかして刀華ちゃん、また大きくなった?」

「ほ、本当かっ?」

「胸じゃなくて、身長の方だけど」

「あー、そうかもしれんなー」


 落胆混じりの乾いた反応を返し、刀華は母の胸を見遣る。……相変わらず大きい。

 その遺伝子を受け継いでいることを秘かに願いつつ、刀華は母の背中を洗う。やがて交代し、母娘仲良くお互いを洗い終わってから湯船に浸かった。


「それにしても刀華ちゃん、本当に女らしくなったわねぇ」

「そう、だろうか……。母さんと違って、私は随分とガサツだが」

「そんなことないわよ。刃菜ちゃんに比べればずっと落ち着いてる」

「そりゃ、あいつに比べればな……」


 やんわりと微笑む母の瞳は、とても慈愛に満ちている。刀華は、ふとそれに甘えたくなってしまった。悩みの一部を、かいつまんで話してしまう。無論、母親に余計な心配はさせたくない。話すべきではない部分は伏せた。


「――結局、いくら考えても分からないんだ。武士道は『義』を重んじる。正義を貫くことこそが、侍の生き様だ。だが、では一体、何が本当の正義なのか。それが分からない」

「確かに、難しい話ね」


 頷く鞘香。しかしその顔は、眉間に皺を寄せている刀華と違って、なぜかにこやかだった。


「私はこれまで、どうやら正義という言葉を上っ面にしか捉えていなかったようなんだ」

「でも、刀華ちゃんが本当に悩んでいるのは、そのことじゃないでしょ?」


「は?」と、母の予想外の言葉に、刀華は間の抜けた声を発した。


「知ってる? 刀華ちゃん。この世の中にはね、男と女しかいないのよ」


 そんな刀華へ、母は何とも当たり前のことを、まるで世のことわり理でも説くかのように告げた。


「待ってくれ、母さん。それはそうかもしれないが……今の話とどう関係している?」

「分からないかなー。要するに、刀華ちゃんが本当に悩んで苦しんでいるのは、正義云々じゃなくて、その彼のことなのよ」


 人差し指を唇の前に立て、茶目っ気に微笑む鞘香。なんだか可愛らしくて、本当は自分の姉ではないかと錯覚してしまうほどだった。


「つーまーり、恋の、悩みってこと」

「ななななに言うとるんや母さんっ? べべべ別に、あいつは、そんなんやあらへんから!」


 動揺のあまり、つい封印したはずの京都弁が出てしまう刀華。


「そうかしら? 私には刀華ちゃんが恋する乙女に見えたけれど?」

「お、乙女だなんてっ……私には似合わぬ言葉だ! それに、恋だなんて……」


 自分はただ自分の正義を否定され、信じていたものが揺らいで悩んでいただけだ。あいつの力になりたいと思ったのも、侍としての生き方に恥じぬようにと思ったからだ。別に、あいつのことが……その、す、好き、だなんて、そそそ、そんなこと、あるわけがないではないか!

 しかし、そんな刀華の心を見透かしたかのように、母は言った。


「だけど、胸が苦しいんでしょ? それは、自分の正義を否定されたからじゃなくて、刀華ちゃん自身を拒絶されたように思ったからじゃないのかしら」

「そ、そんなことは……」


 ぶくぶくぶくと湯船の中に顔半分を沈めつつ、刀華は母親から顔を反らした。なんとなく、顔を見られることが恥ずかしかった。


「別に恥ずかしがらなくて良いのよ。だって、刀華ちゃんは侍である前に女の子なのだから」

「女の子、だろうか……」


 と、湯から少しだけ口を出し、呟く。


「女の子よ。お母さんもそうだったわ。だから、お父さんと結婚したの」

「………?」


 不思議そうにする刀華へ、鞘香は昔を懐かしむような口調で語り出した。


「私たちの結婚は皆から反対されていたのよ。同じ士族でも家柄が違い過ぎるって言われて」


 昔に比べればはるかに結婚は自由になったとは言え、やはり家を尊ぶ士族の間では、未だに家柄へのこだわりが根強く残っている。

 母の実家は代々、高禄の有力藩士だったそうだ。一方、近藤家は元々、武士の下層に属する郷士の家柄だった。近藤家の養子となり、天燃理心流宗家を継いだ三代目の近藤勇が戊辰戦争で旧幕府軍の勝利に貢献したため、新政府下で士族を名乗ることを許されたが、母方の家格とは比べ物にならない。それに近藤勇は農民の出でもあった。

 しかも母は立派な学歴があるのに対し、父は今時高卒だ。その上、天燃理心流の道場を細々と続けているだけで他の職は持たず、剣術以外はからきしときている。周囲が二人の結婚に反対したのも、無理のないことだろう。今でも母方の祖父は父を嫌っていて、向こうからこちらの家に来ることはまずない。


「だけど、私は言ってやったの。私は士族である前に、女ですって。好きになった男の人を追いかけて何が悪いって。お爺ちゃん、ものすごく怒ったわ。『こんなくだらん男を好きになるなど、言語道断じゃ!』とかなんとか」

「……それは家柄というより、人格的な部分を問題視したのではないか?」


 という刀華の突っ込みを無視し、母は段々とのろけ始めた。


「だけど、お母さんは絶対に退かなかったわ。だって、あんな素敵な人、他にいるわけないもの。強くて、優しくて、ちょっと子供っぽくて、面白くて……。そりゃあ、勉強はできないし、仕事はできないし、家事はできないし、というか自分のことすらロクにできないけれど」

「我が父親ながら恥ずかしいな……」

「でも、初めて見た瞬間から確信していたわ。私にはこの人しかいないって。それでお母さんの必死の説得の甲斐あって、最後の最後には頑固なお爺ちゃんも納得してくれたの。『もう勝手にしろ!』って」

「それは、納得したとは言わないのでは……?」


 むしろ呆れて突き放したと言うべきだろう。


「だから刀華ちゃんも、ちょっとやそっとの困難があっても、簡単に諦めたりなんかしてはダメ。じゃないと、きっと一生、後悔することになるわよ」

「後悔、か……」


 刀華は胸に手を当てた。脳裏を過る彼の顔。それだけで自然と胸の鼓動が早くなる。そう言えば、あのとき反論の言葉を失ったのは……自分の正義を否定されたからというよりも――


 ――でもぼくにとっては……瑠璃の方が、ずっとずっと大切なんです。


 妹と刀華を天秤にかけ、そして彼は妹の方を選んだ。それが、なぜだかとても悔しくて、苦しくて。そして、何も言い返せなくなった。彼の選択は、当たり前のことだというのに。

 その胸の痛みは、今まで刀華が経験したことのないものだった。

 だから目を背けたのか。

 別の悩みにすり替えて、無かったことにしようとしたのか。

 分からなかったのだ。どんなふうに、その苦しさに向き合えば良いのか。

 いくら滝に打たれて正義について考えても、もやもやが晴れないわけだ。

 けれど今、母の話を聞いて、少しだけ胸に詰まっていたものが取れた気がしている。

 じゃあ、やはり私は、あいつのことが……。


「ただいまー」


 そのとき脱衣所の方から、妹の快活な声が聞こえてきた。


「……あっ、お母さんに刀華ちゃん、もしかして一緒にお風呂?」

「そうよ」

「にゃーっ、刃菜も一緒に入るぅーっ!」


 バタバタばったん。騒がしい音を響かせ浴室へと入ってきたかと思うと、刃菜は跳んだ。


「とやーっ」


 ざっぶーんと盛大なお湯飛沫を上げ、両腕をTの字に広げて満足げに叫ぶ。


「刃菜選手、見事な着地を決めました! これは高得点が期待できます!」

「この阿呆! お湯が勿体ないだろう! それと身体を洗ってから入れ!」

「だいじょーV! 学校でシャワー浴びて来たし! それより見てぇや、刃菜の胸! また大きくなりおったんや!」


 姉の訴えを受け流し、刃菜は下から抱えるようにして自分の胸を両手で抱え上げてみせた。体格に関して言えば、刃菜は刀華と比べてずっと小柄だ。にもかかわらず、胸の方は刀華の倍……いや、三倍……いや……悲しいことにもっと大きかった。


「な……また大きくなっただと……?」

「男子からイヤらしい目で見られるし、走ると揺れるし、跳ぶと揺れるし、刀を振ると揺れるし、もうこれ以上、大きくなってほしいないんやけどなぁ~」

「走ると揺れる? 跳ぶと揺れる? 刀を振ると揺れる?」←まるで揺れない人。

「Dカップのブラやと、もうあかんねん。刀華ちゃんは……まだ当分、●カップで大丈夫そうやね。あ~、ほんま、ちょっと分けたげたいわぁ~」


 ぴきり。刀華の額に鋭く青筋が走った。


「もぐ! もいでやる!」

「にゃぁっ!? ちょっ、やめて刀華ちゃん!」

「やめるか! この脂肪の塊め! 私の林檎を軽く潰せる握力でもぎ取ってくれる!」

「痛いっ! 痛いやんかっ!」

「二人とも、喧嘩しちゃダメよ」

「喧嘩ではない! これは粛清だ! 貧乳の貧乳による貧乳のための粛清だ!」

「刀華ちゃん怖い!」


 と、姉妹が組んず解れずしていたときだった。


「随分と楽しそうにしとるやないか! ぜひワシも混ぜてや!」


 いきなり浴室のドアが開いたかと思うと、すっぽんぽんの豪剣が現れた。股の間で禍々しいモノがぷらぷらと揺れた。


「っ!! へ、変なもの見せるなぁぁぁっ!」

「にゃぁぁぁっ! サイアクやぁぁぁっ!」


 刀華は近くの洗面器を投げ付け、刃菜はタオルを叩き付ける。


「出て行けこの阿呆親父!」

「ばかばかばかばかばかヘンタイっ!」


 怒号、悲鳴、叫喚。


「な、なんでや娘たちよ!? 昔は仲よく三人でお風呂に入ったやんか!」


「いつの話だ!」

「早よ出ていけや、このハゲェっ!」


 娘二人に激怒され、豪剣はしょんぼり肩を落として浴室を出ていく。


「母さん……ワシはもう一生、娘たちと一緒にお風呂に入ることはできひんのやろか……?」

「う~ん……三人目を作るしかないかしら……?」

「そ、その手があるやんか! では母さん! 早速、今日の夜にセ――」

「そういうことは二人だけのときに話せ!」


 刀華は赤面して怒鳴り、それから嘆息した。相変わらず、本当に騒がしい家だ。久しぶりに帰ってきたが、まるで変わっていない。

 それでも、やっぱり家族とは良いものだ。だが、彼らには――


「そうか……」と、刀華は唐突に呟いた。

「んんっ? 刀華ちゃん、どないしたん?」


 刃菜がぐにゃりと器用に身体を曲げて顔を覗き込んでくる。それを無視し、刀華は湯船から出た。


「すぐに東京に戻る」

「ええっ……? 刀華ちゃん、もう帰るんや!? 久しぶりに刃菜と一緒に寝てくれへんの!?」

「また随分と急ね。夕飯は食べていかないの?」

「すまない、母さん」


 刀華は一度振り向いて、母の顔を見た。


「だが、ありがとう」


 刀華は浴室を後にする。半日足らずの滞在を経て、京都を発った。


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