第二章 鬼退治
刀華の下宿は高層マンションの一室だ。しかも、三十階建ての最上階。最上階のフロアにはたった二部屋しかなく、その間取りは高校生の一人暮らしにはどう考えても広すぎる、4LDK。当然ながら家賃はバカ高い。
刀華の実家は、京都にある天燃理心流の道場だが、門下生は一人もいない。道場経営での収入は皆無な上、『働いたら負け』を地で行く父親は刀華の知る限りずっと絶賛無職中で、家計はもっぱら大学で研究者をしている母一人が支えている状態だ。決して金持ちなどではない。
壱高には安価で設備も充実した寮があり、九割を超す生徒が入寮している。にもかかわらずなぜ刀華がそんな高級マンションに住んでいるのかというと、母方の実家が資産家であり、祖父母が可愛い孫のためにと援助してくれたからである。
「ふぅ……」と、障子と窓を開けてベランダへと出た刀華は、朝の爽やかな光を一身に浴びながら大きく息を吐き出した。毎日欠かさずやっている早朝の素振り稽古で火照った身体を、冷たい風が撫でていく。
空は雲一つない快晴。空気が澄んでいて、かなり遠くまで見渡せる。一千メートル近い高さを誇る皇居ビルも良く見えた。あそこが我が国の政治の中心であり、また皇帝が御座せられる場所だ。
「ん? 隣……?」
不意に隣のベランダの窓が開く音がした。空室になっていたはずだが、もしかすると新しい入居者が入ったのかもしれない。後で挨拶に行かなければならないなと心に留めつつ、刀華はベランダを後にして、風呂場へと向かった。熱いシャワーを裸体に浴びて汗を流しながら、ここ数日のテレビや新聞等が伝えた報道内容を思い出す。
あの建物は、刀華が予測した通り、過激な反政府組織として知られている《血の救世軍》の隠れ家だったらしい。彼らのテロ計画を事前に察知した警察の特殊部隊が襲撃、制圧に成功しテロは未然に防がれた――というのが、各報道機関が伝えた概略だ。
だが、刀華が知っている事実は違う。
襲撃したのは、警察の特殊部隊などではなく、たった一人の人間。それも、軍用の機巧兵すらも所持していた武装集団を、驚くほどの短時間で制圧してみせたのだ。
刀華の頭を、あの黒装束の姿が過る。
とてもそんな人間離れした芸当をやってのけるようには思えない華奢な体躯。
そして、南国の澄んだ海水を思わせる碧い瞳。
その姿が、ある人物と重なる。
まさか、な……。刀華は自分の考えを頭を振って否定し、シャワーを止めて浴室を出た。
鏡の前で確認した胸は相変わらず小さかった。
「べ、別に気にしてなどいないからな!」
その日の一限目の授業後、刀華は転校生に声をかけた。
「転校生。この後、私と少し手合わせしないか?」
出し抜けの提案に、着替えのため席を立とうとしていた彼は「ひぇっ?」と間の抜けた返事をして目をぱちぱちと瞬かせた。
この学校では、士族、平民を問わず、必ず武芸の授業を履修することになっている。「剣術」が必修、「棒術」「柔術」「弓術」のうち一科目が選択だ。次の二限目は剣術の授業だった。
「……ぼ、ぼくと、ですか……?」
転校生はおっかなびっくり、上目遣いに確認してくる。
「そうだ」
「い、いいです、けど……でも、近藤さん、すごく強いって……」
「心配するな。ちゃんと手加減する」
「ちょっと木下クン。刀華と試合とか、マジでやめといた方が良いって。ぜったい怪我する。つい最近も、全治三か月の病院送りにされた人いるもん」
割り込んできた香苗がそんなことを言って脅したので、転校生の端正な顔が怯えたように引き攣った。刀華は慌てて弁解する。
「ち、違う。あれは、不慮の事故というか、いや、意図的ではあるが……た、単に少し加減を誤っただけだ。それに、搬送されたのは病院ではなく医務室だし、全治三か月などという大層な怪我でもなかった。勝手に症状を重くするな」
「……意図的………少し加減を誤って……医務室に搬送………」
「だ、大丈夫だ! 軽く、あくまで軽~く手合わせする程度だから」
「軽くって言っても、軽く蛇口を捻ったら、折れるくらいだからねー」
「あ、あれは……蛇口が脆かっただけで……」
さすがに、刀華も苦しい言い訳しかできなかった。
「……あの……ほ、ほんとうに、お手柔らかに……お願いします……」
転校生の声は、心なしか少し震えていた。
道場の中央で、刀華は転校生と向かい合った。
「これ、勝負になるのか?」「いや、ならないだろ。近藤、マジで化け物だし」「木下くん、頑張ってー」「近藤、ちゃんと手加減しろよ!」「つーか、怪我させんなよ!」「殺すなよ!」
まだ休み時間中で授業開始まで時間があるというのに、周囲には野次馬根性丸出しのクラスメイト達が集まっていた。
「まったく見世物ではないぞ。……すまない、どうやら香苗があちこち言いふらしたらしい」
「い、いえ……だ、大丈夫です……」
得物は稽古用の模擬刀。身を護るのは、ケブラー高分子素材繊維製の防具。軽量で動きやすく、しかも拳銃弾程度の直撃にも耐え得る強度を誇るため、たとえ真剣で斬り合っても掠り傷一つ付かないという優れものだ。近年の撃剣稽古や試合における標準装備となっていた。
「では、始めるぞ」
「は、はいっ……」
刀華と転校生は互いに立礼し、抜刀した。……いや、抜刀したのは刀華だけだった。
「あ、あれ……え、えっと……?」
転校生は抜刀に手間取っていた。腰を使わず腕だけで抜こうとしているため、剣先が鞘に引っ掛かってしまっているのだ。
「おいおい」「大丈夫か?」「抜き方も分かんねぇのかよ」「かわいいー」
周囲からの失笑に顔を赤らめながら、転校生はどうにかこうにか刀を抜ききった。
「……手が左右逆だぞ?」
「え? あっ、す、すいません……」
「……あと、右足が前だ」
「え? あっ、ご、ごめんなさい……」
刀華はその場で頭を抱えたくなった。これ以上ないというほどの、ド素人だ。
「……あの……刀を抜くの、本当に、久しぶり、なんです……」
申し訳なさそうに頭を下げてくる転校生。模擬刀の切っ先はまるで定まらず、宙を舞う蝶々のようにフラフラと揺らいでいた。
やはり違ったか……。刀華は逆に安堵しつつ、怪我をさせない程度に少し稽古を付けてやるかと、気持ちを切り替えた。
中段に構え、刀華はすり足で間合いを詰めた。転校生は下がった。刀華はさらに間合いを詰めた。転校生はさらに下がった。刀華はさらに間合いを詰めた。転校生はさらに下がった。イラッとした。
「逃げるな!」
「す、すゅいまひぇんっ……」
転校生はその場に踏みとどまったが、今度は腰が引けている。こりゃダメだな、と内心で諦めた刀華は無造作に近付いていくと、大上段に刀を振り上げ、バレバレの動作で小細工なしに面を狙った。刀華としては十分に手加減した斬撃だ。もっとも、それでもそれなりの剣速はあったが。
「っ!?」
模擬刀が宙を斬ったことに、一瞬刀華は頭の理解が追いつかなかった。転校生が右半身を後方に引き、刀華の真っ向斬り降ろしを驚くほど最小限の動作で躱していたのだ。
やられる!? 瞬時にそう思ってしまうほどの見事な形勢逆転。だが、転校生はただ回避しただけだった。それでも不覚を取ったという自覚のある刀華は、気を緩めることができなかった。ほとんど反射的に刀を返し、逆袈裟に斬り上げる。
「はぐっ……」と声を漏らし、転校生の身体が浮いた。刀華が繰り出した強烈な斬撃が脇に突き刺さり、華奢な体躯が「く」の字に折れながら飛ぶ。
「あ……」
ハッとしたときにはもう遅い。二メートル近くも吹き飛んで床に背中から落ちた転校生は、「きゅぅ」と呻いて口から泡を吹いていた。
気絶した転校生を抱えて、刀華は医務室へと向かっていた。
「私も、まだまだ修行が足りんな……」
あの瞬間、冷静さを逸してしまったことに対し、自責の声が漏れる。
『うわ、マジ大人気ねぇ』『素人相手に……』『それでも士族かよ』『ガクブル』
先ほど投げかけられた厳しい言葉は、思い出すだけで幾度も胸に突き刺さる。面目ない。
「う……ん……」
そのとき、おもむろに転校生の瞼が開いて、宝石のような碧い瞳が姿を見せた。
刀華と目が合った転校生は、びっくりしたような顔をした。
「すまんが、気絶していたから勝手に運ばせてもらっている。もうすぐ医務室だ」
「そ、そうです、か……。……あ、あの……えっと……」
何やら言いたげに、転校生はもじもじし始めた。刀華も察して、照れ気味に応じる。
「こ、この方が運びやすかったものでな……」
転校生は刀華にお姫様抱っこされていた。見た目は女子だが、中身は男子。やはり恥ずかしいのだろう――と思ったのだが、どうやら少し違ったらしい。
「い、いえ……あの……その……あ、当たって……る、というか……その……」
転校生はちらちらと、自身の左肩の辺りと接している刀華の胸元に視線を向けてきた。
どうやら胸が当たっていたらしい。
「……ちょ、ちょっと……ほんの、ちょっと、なんですけど……」
恐らく転校生としては「当たっている部分はほんのちょっとですから、そんなに気にする必要はないのかもしれないですけど、でもやっぱり――」などという意図で言ったのだろう。
分かっている。刀華にだって分かっている。分かっているのだ。分かっているのだが。
「へえ……そうか。ほんの、ちょっと、か」
頬をぴくぴくさせて、刀華は復唱する。転校生は、あっ、わっ、と、あたふたして、
「ち、違うんです! べ、別に、近藤さんの胸が小さいとか、そっちの意味じゃなくて! ていうか、近藤さんの胸は、決して、小さくなんか……ない、です……し……?」
小さくないというのなら、なぜ声がだんだんと小さくなっていったのか? しかも、語尾にクエッションマークを付けやがったし。
「胸の話題はやめろ。当たっていても別に気にしない。どうせ、私の胸はあって無いようなものだからな」
刀華の絶対零度の声音にびびった転校生は、身を竦めて完全に黙した。
やがて医務室に到着したが、折悪く担当医は不在だった。とりあえず、寝台の上に転校生を寝かせてやる。
「痛いところはないか?」
「あ、はい……たぶん、ですけど……」
「見せてみろ」刀華は転校生の道着を捲り斬撃が当たった部分を確かめた。「痛くないか?」
軽く触ってみたが、転校生は首を左右に振った。なぜか頬を朱に染めている。
「ば、馬鹿っ。何で顔を赤くする必要があるっ……」
あくまで治療のための行為だったのだが、こちらまで恥ずかしくなってしまう。刀華は慌てて道着を元に戻し、転校生の白肌を隠した。
一応、外傷は見当たらなかった。防具のお陰だろう。だが、むち打ち症になっている可能性もある。症状がすぐに表れないことも多いため、後で精密な検査を受けた方が良いだろう。
「しかし、すまなかったな。本気でやるつもりは無かったんだが……」
「……いえ……ぼくの方こそ……なんていうか……その……すいません……」
また逆に謝られてしまった。
こいつはシロだろう。刀華はそう判断を下した。
実はこの転校生が、先日の黒装束の正体ではないかと疑っていた。根拠と言えば、体格と瞳の色が一致していること。それから、勘だ。
だが、恐らく違う。軍用の機巧兵を真っ二つにしたあの剛剣。ほとんど素人同然の彼に、あんな見事な斬鉄剣が繰り出せるはずがない。刀華の斬撃を躱してみせたことだけは引っ掛かるものの、恐らくまぐれだろう。あるいは動体視力や運動神経だけはそれなりに良いのかもしれない。
「ま、ましゅたーっ! 無事でしゅか、ましゅたーっ!」
そのとき舌足らずな慌て声とともに、医務室のドアがこつんこつんと叩かれる音がした。
刀華がドアを開けてやると、可愛らしい人形が足をもつれされながら飛び込んできた。転校生の機巧人形だ。どうやらまた学校に持って(付いて?)きたらしい。
「み、みこと……だ、ダメじゃないか、また勝手に……」
「だ、だって、えむえーぶいで、
あっ、という顔をして、人形は両手で小さな口を塞いだ。
「えむえーぶい……?」と、刀華は疑問符を浮かべる。
「ななな、なんでも無いでしゅららら!」
人形は慌てて手と首をぶんぶん振った。一方の転校生は「ぼくは、何も聞いてませんよ……?」という顔をして窓の向こうを見ている。
訝しく思いつつも今はさておき、刀華は稽古着の中から電子生徒手帳を取り出した。この学校を管理している人工知能を指先一つで召喚する。
「アマテラス。怪我人がでて医務室に来たはいいが、担当医が不在だ。連絡を取りたい」
同等のものを教師も所持しているこの手帳には、GPS機能や通話機能も付いている。そのため《アマテラス》に頼めば居場所を教えてもらったり、連絡を取ったりすることができた。
『分かりました』
そう応じた後、しばしの沈黙をおいて、立体ホログラムの女神が再び口を開く。
『この時間の担当医である葛木つかさからの伝言です。 ――現在、三日ぶりのお通じを賭けて鋭意格闘中です! もう少しだと思うんだけど、そのもう少しが長いかもしれないよ! 急ぎだったら、お腹の中に引っ込めてでもすぐ向かうけど、どうしよう? ――とのことです』
間接通話とも伝言通話とも呼ばれている形で、担当医からの返答が返ってきた。
「…………どうする?」
「お、終ってからで……良いです……」
「終わってからで良いと伝えてくれ」
『分かりました。――おっけーっ! じゃあ、スッキリさせてから戻りまーす! 頑張れわたし! そしてわたしの便! あ、ちなみに、すぐ隣のトイレで籠ってるから、応援に来てくれても良いよ! ――とのことです』
「誰が行くか、阿呆」
思わずこめかみを押さえ刀華は悪態をついた。《アマテラス》のウグイス嬢も驚く美声に、変なことを言わせないでほしい。トイレ中の直接通話はぜったいに嫌、という女子は多いが、これはワザと間接通話を使ったに違いない。ちなみに余談だが、以前、《アマテラス》に卑猥なことを言わせ、興奮するという遊びをしていた男子のグループがいたらしい。本当に救いがたい馬鹿がいるものだ。
「変わった先生、なんですね……」
「そう、だな……。だが、大学病院に勤めるれっきとした医者だ。とりあえず彼女が戻ってくるまで安静にしていろ。私はそろそろ戻る」
「あ、はい……す、すいませんでした……」
「まったく……そんなに謝られたら、まるでこっちが何かされたみたいではないか……」
「す、すいません……」
「ほら、また」
「ご、ごめんなさい……」
「言い方を変えただけだからな、それ」
「く、癖みたいなものなので……不快だったら、その……えっと……申し訳ないです……」
三つ目の言い方で謝られてしまった。
こいつはやはり、ただの平和な一般市民だ。思わず苦笑しながら刀華は医務室を後にした。
その日の晩、刀華は夜の街を疾走していた。
疾走と言っても、それは常人の感覚から捉えてのことだ。五十メートル八秒を少し切るくらいの速さなど、刀華にとっては軽いジョギング程度でしかない。
持久力は武芸の基礎中の基礎。刀華は、筋力トレーニングと隔日で週に三度、二十キロを走破することにしていた。
残り二キロを切り、刀華は全身の氣を二本の足へと集中させた。
地面を蹴る力が格段に強まった。上体を驚くほど前のめりに傾斜させ、野生の獣のごとく疾駆する。ターンターンという音が夜気を切り裂き、すれ違った人が何事かと目を丸くしたときにはもう刀華の姿は遥か先を行く。
やがてゆっくりとペースを落とした刀華は、ゴール地点で停止した。
心地よい疲労感と満足感に充たされ、歩きながらクールダウン。ランニングボトルに口をつけ、イオン飲料で喉と身体を潤す。
そして、マンションのすぐ近くまで来たときだった。
「……っ!」
感じた気配は、先日とまったく同じものだった。振り返ると、あの黒装束。
刀華は疲れを忘れ、すぐさま後を追った。
桐原誠一郎は顔を強張らせ、来客が訪れるのを待っていた。
江戸創業の薬種問屋を前身とする老舗の製薬会社である大山製薬の本社地下に作られた、社員のごく一部にしか知られていない極秘研究所の応接室。研究所にはそぐわない高級な調度品に彩られたこの豪奢な部屋は、ある人物を迎え入れるためだけに作られたものだ。
二十三時。とうに通常業務が終了したこの時間。訪問予定の客は、まさにその人物だった。
「また、実験の催促でしょうか?」
隣に座った三十代半ばの男――研究主任を務める田所修二が問いかけてきた。
「恐らく、な」
この研究所の所長を任されている桐原は、苦悶の表情で短く応える。
「ですが、応じるわけにはいきません。動物実験ですら成功した例はわずかなのです。危険に過ぎます。何よりも倫理的に……いえ、このような違法研究を進めている時点ですでに道義からは外れてはいますが……それでもなお、越えてはならない一線というものがあると私は思います」
正義の光を眼鏡の奥の理知的な双眸に宿らせ、田所が主張する。
彼は優秀な研究者だと、桐原は認めていた。それに、何よりも愛社精神に溢れている。半年前にこの極秘研究のことを知らされ、ここに研究主任として移ってきても、会社のために骨身を削って尽力してくれた。
だが、彼はまだ知らない。やつらが、どれだけ危険な存在であるかを。
数年前、苦境に喘いでいた会社を助けてもらったその見返りは、あまりにも大き過ぎた。
「よお」という不躾な挨拶とともに、その客は現れた。
ブラウンのスーツ西洋紳士服に身を包む、かなり大柄な男だった。頬に縦の傷痕が走る狂相の持ち主で、金色に染めた長髪を後方に撫で上げている。
「羅漢様、よくお越しくださいました」
桐原は低く頭を下げた。それに習い、田所も低頭する。
羅漢、というのが男の名前――ではないだろう。彼らの組織内で使っているコードネームなのかもしれないが、桐原にはよく分からない。いずれにしても、仏教において悟りを開いた高僧を指すはずのその言葉と、目の前の男ではまさに正反対と言えた。
「堅苦しい挨拶なんざどうでもいい。さっさと本題に入ろうぜ」
羅漢はふてぶてしく言い放って、桐原たちの脇を抜けてソファの上に二人分の席をとって勝手に腰を下ろす。桐原と田所は慌てて対面の席に座った。後から二人の黒服が部屋に入って来て、羅漢の背後に直立した。体格は羅漢に比べると小柄だが、逆に俊敏な獣を思わせた。
三人の男たちが放つ威圧感は凄まじい。それだけで、お前らの会社などいつでも潰せるぞと脅されているかのようだった。そして実際、彼らにはそれが可能だろう。
羅漢はソファの上で踏ん反り、有無を言わさぬ声音で予想していた通りの言葉を吐いた。
「例の研究だ。すぐに次の段階に移せ。実はよ、ぜひともうちで使いてぇっつーとこが見つかったんだよ。それも、一か月先でな」
「い、一か月ですか!?」
さすがの桐原も声を荒げてしまう。
「そ、それは、あまりにも……」
当然だ。何年もかけて、まだ動物実験の段階なのだ。それを、わずか一か月で実用段階に持ちこめというのは、どう考えても不可能だ。
「てめぇらが、いつまでもチンタラやってからだろうが」
羅漢に睨みつけられ、桐原は継ぎ句を失ってしまう。チンタラなどと言われたことに憤っているのだろう、田所は隣で拳を強く握りしめていた。
「だがまぁ、そう心配するこたぁねぇよ。別に、完璧じゃなくて良いんだ。むしろ、そんな必要性なんざまったくねぇ。ただ、ちゃんと変異しさえすれば十分だ。たとえ元に戻らなかろうが、別に構やしねぇんだ」
羅漢の言葉に、桐原と田所は同時に絶句した。
「簡単だろ? てか、それならもう現状でほとんど完成してるじゃねぇか。後はちゃんと人間で試してちゃちゃっと調整するだけだろ」
「そんなことできるわけがないだろう!?」
いきなり立ち上がったのは田所だった。怒りに燃える瞳で羅漢を睨み付ける。
「効果が切れれば元に戻る。それを前提とした薬の開発だったはずだ! だからこそ、我々は辛うじて道徳心を保ってこられたんだ! それをっ――」
桐原が彼を制そうとする前だった。物凄い速さで羅漢の腕が伸びてきて、分厚い手で田所の頭部を掴んだ。細身だが決して小柄というわけでもない彼の身体が、軽々と宙に浮かぶ。
「てめぇ、誰に向かって、んなエラそうな口利いてんだ? 殺すぞ?」
「そ、そんな脅しになど、わ、私は屈しないぞっ!」
「ハァッ、脅しだと?」
羅漢は唇を吊り上げ、嗜虐的な笑みを作った。
「や、やめてくれっ!」
桐原の叫びは届かなかった。次の瞬間、田所の頭がトマトでも潰れたかのように弾けた。
血と脳漿が辺りにぶちまけられ、桐原も返り血を浴びた。夥しい量の血で応接室は見る間に惨状と化した。咽るような血臭が鼻を突く。田所の首から下の胴体が、床に倒れて転がった。
「二度と言わねぇぞ。とっとと人間で試せ」
桐原は眩暈でその場に倒れそうになったが、辛うじて踏みとどまった。
「……わかり、ました」
「
羅漢はそれだけ告げて、すぐに応接室を出て行こうとする。二人の黒服も後に続く。
警報音が響いたのは、まさにそのときだった。
夜闇にそびえ立つそのビルは、ある製薬会社の本社だった。
時刻は二十三時。就業時間はとうに終わっており、窓から伺える室内は、ちらほらと明かりが灯っている程度。
秀美はビルを見上げていた。服装は、闇に溶け込む黒装束。しかも隠形術を使用しているため、通りかかる人がその姿を認めることはできない。
「ましゅたー、身体の方は大丈夫でしゅか?」と、背中から人工知能の――みことの声。
「……うん」
「無理をしてはダメでしゅよ?」
「大丈夫、ありがとう……」
短く応じ、秀美は通用口へと向かう。みことの身体から一本の特殊なケーブルを伸ばし、電子錠の操作器に接触させる。一秒とかからずにコードを解読、強制開錠した。ビル内部への潜入に成功した秀美は最低限の電気しか点いていない薄暗い廊下を進み、やがてある壁の前で立ち止まった。
「ここのようでしゅ」
それは何の変哲もない壁に擬態させることで、巧妙に隠されたエレベーターだった。堂々とそれに乗り込み、秀美は地下へと降りていく。
微かな振動とともにエレベーターが止まった。ドアが開いた先、正面には頑強そうな扉があり、そこも電子錠で施錠されているようだった。
「開錠しましゅか?
「ううん、大丈夫……」
と小さく告げて、秀美は装束の懐に手を入れた。
「……白虎!」
宙へと放り投げたのは、『
それは金属の腕。さらに、その腕と一続きになって頭部が、続いて二本目の腕が、太い胴体が、そして脚が、次々とその姿を現す。
やがて完全に顕現したのは身の丈二メートルにも達する機巧の兵士。強固で強靭なフォルムは白が基色。その上に黒線がまるで紋様や刺青のごとく縦横に走り、装甲全体を覆っている。
『
その動力源は電気でも化石燃料でもない。『魔力』だ。
機巧の人形を陰陽術の式神のごとく扱う機巧式神は、科学と魔術による独自のハイブリッド技術によって生み出した兵器だった。
「白虎、扉を斬り裂いて」
主人の命令にゥォンという静かな駆動音で応じ、白虎は滑らかな所作で前に出る。強襲破壊型である白虎の主要武器は、刃長二メートル、全長二メートル半、そして身幅五十センチの斬馬刀。視認できない速度でそれを斜め十字に振り回すと、分厚い扉が嘘のように易々と四つに寸断された。
白虎が扉を向こう側に蹴り倒し、隠された地下研究所へと躍り入る。秀美も後に続く。
すぐに警報が鳴り始める。扉の向こうには、警備員と思しき二人の男たちがいた。戦闘服に身を包み、
「な、何だこいつは……?」「う、撃てっ!」
白虎は硬い装甲で銃弾を弾きながら間合いを詰め、斬馬刀の腹で警備員たちを薙ぎ払った。壁に強かに叩きつけられ、二人とも悶絶して気絶する。
警備員たちを片付けた秀美は、白虎を先頭にして先へ進む。
「ましゅたー、前方から機巧兵が
みことの言葉通り、すぐに五体の武装したロボット自律機巧が現れた。警備用ではない。機動力に優れた軍用の軽装甲機巧兵だ。すぐさま突撃銃による一斉射撃が開始される。
銃弾の雨の中、白虎が真正面から突撃、斬馬刀を豪快に振り回す。一体を両断、半ばで刃が止まった別の一体は強引に薙いで吹き飛ばした。
そのとき、機巧兵の一体が白虎を迂回し、秀美の方へと襲い掛かってきた。
秀美はすぐさま別の
現れたのは、二体目の機巧式神。渋い枯葉色装甲の六合は、身の丈一メートル五十。二本の腕の他に有する計六本の
「天空!」
さらに秀美は、三体目の機巧式神を呼び出した。身の丈一メートル四十の、蒼穹色の美しい流線形フォルム。顕現とほぼ同時、遊撃高機動型としての性能を遺憾なく発揮した。背中のジェット噴射で敵機の懐に瞬時に跳び込むと、口部から伸ばした銃口を比較的装甲の薄い関節部へ向け、容赦ない射撃を見舞う。精巧にできた体内を銃弾に蹂躙され、敵兵は立ったまま沈黙した。
その間に白虎が残りを片付けていた。五体の機巧兵を僅か数十秒で沈黙させた秀美は、さらに研究所の奥へ。
「っ……!」
扉を白虎に破壊させ、とある巨大な部屋へと足を踏み入れた秀美は、思わず鼻と口を両手で塞いだ。口元を忍び頭巾で隠しているにも関わらず、涙が滲むほどの強烈な異臭が鼻を突いたのだ。
その原因はすぐに分かった。学校の道場ほどもあるだろう広い空間。そこに、猿、犬、豚、あるいは、牛や馬や熊。ざっと見渡しただけでそれだけの種類の動物が、鉄の檻の中に詰め込まれているのである。あちこちから鳴き声や檻を揺する音が響き、喧しい。
だが、そこにいたのは普通の動物だけではなかった。
異様な生物だ。大きく裂けた口。そこから覗く獰猛な牙。胸板は分厚く、肌は赤褐色。そして、頭部に鋭い角。危険度が違うということか、特殊強化ガラスの向こうに押し込められている。それでも暴れて体当たりすると、ガラスが割れるのではないかという激しい震動が起こっていた。
それも一匹だけではない。見える範囲だけでも十四、五匹はいる。大きさは一メートルから三メートルとまちまちだ。どの個体も大よその特徴は一致しているが、奇妙なことに、顔の形が猿に近いもの、犬に近いもの、馬に近いものなどと区別することができた。
「まるで鬼でしゅ……」
と、みことが呟く。
鬼――。それは、神話の時代から我が国に棲息したとされている人外の魔物だ。
この地下研究室で違法な実験が行われていると聞いてはいた。だが、まさかそんなものを作っていたなどとは思ってもいなかった。もっとも本物の鬼ではなく、あくまでそれを模して作られた生物だろうが。
「鬼………」
「……ましゅたー? どうしゃれましたか? 大丈夫でしゅか?」
険しい表情で奥歯を噛みしめていた秀美に、みことが呼びかける。
「あ、う、うん……大丈夫……」
秀美は我に返ったように背筋を伸ばし、首を振った。
秀美たちがいる場所は、二階ほどの高さに設けられた回廊部分だった。その回廊を真っ直ぐ進み、突き当りにあった扉を開けると、右側に複数のドアが並ぶ廊下へと出た。
部屋の多くは実験室だった。無数の器材や薬品、大がかりな装置。しかし、よく整理されているためか雑多な印象は無い。
秀美は研究データが収められているであろうコンソールを発見し、外部機器との接続口に、みことの身体から伸びるケーブル端子を差し込んだ。
「ししゅてむへの侵入を開始しましゅ。……せきゅりてぃの解除に
「白虎!」
白虎が斬馬刀を構えて廊下へと飛び出す。「うおっ、何だコイツっ!?」と、驚く男の声。
天空、六合、そして秀美自身も続く。
廊下で鉢合わせたのは、頬に深い傷痕がある大柄な男と二人の黒服だった。
「でーたべーすと照合……」
みことが小声で伝えてくる。
「……照合完了。《明治天誅党》の構成員・羅漢でしゅ」
《明治天誅党》は、言わずと知れた反政府組織だ。その名称は、王政復古とともに樹立されるも、戊辰戦争の敗北で解体された明治政府に由来している。
彼らの旗印はかつての古き良き天皇親政を復活させることだ。だが、元からそのためには手段を選ばない過激な組織ではあったが、近年では上層部の腐敗が進み、違法な手法で莫大な資金を調達して私腹を肥やしているという。
ここでの違法実験も、彼らが企業を脅して行っているものだった。恐らくその脅迫担当が、目の前の羅漢という男だろう。
羅漢のふてぶてしい瞳が、すでに隠形術を解いていた秀美を捉えた。
「なるほど、てめぇが操ってんだな? もしかして、くノ一かよ。ヒヒッ、だとしたらぜひ生きたまま捕まえねぇとなァ」
下卑た笑いを漏らし、羅漢が後ろ手で取り出したのは、いずれも刃渡り一メートル近い二本の大鉈だった。その様子を忍び頭巾の奥に覗く双眸で見据え、秀美は静かに命じる。
「……
ゥォンと応え、白虎が一気に突進、最大出力で斬馬刀を振るう。
だが、「ふんっ!」と気勢を発した羅漢が、白虎の斬撃を両の鉈を交差して受け止めた。いや、そればかりか強引に弾き返した。化け物じみた膂力に、秀美は我が目を疑う。
さらに羅漢は、敏捷な動きで白虎に躍り掛かった。二本の鉈がまるで腕そのもののように自在に動き、白虎を苛烈に責め立てる。白虎はその武器の性質上、一対一の戦いには向いておらず、また接近戦に持ち込まれると弱い。
だが、対処する術はある。白虎は急加速すると、羅漢に超重量級の突進を喰らわせた。よろめいた羅漢との間に生じた間合いは白虎の領分。斬馬刀が唸った。
羅漢が咄嗟に後ろに跳んだため、両断とまではいかないまでも、腹部を深々と斬り裂く――はずだった。
「ヒャッハッ! 痛くも痒くもねぇぜ!」
羅漢は平然と高笑いした。斬られたはずの腹部からは、血の一滴も出ていない。
「防具……!?」
という秀美の驚愕を、みことが否定する。
「ち、違いましゅ! こ、これは……じぇ、全身が
「おい、てめぇらは後ろの黒装束を狙え。ただし殺しはするな」
羅漢の命を受け、二人の黒服も動いた。小刀を構えた前傾姿勢で羅漢と白虎の横を素早く駆け抜け、左右から同時に秀美の方へと迫りくる。
天空の射撃で牽制しつつ、秀美は四つ目のひとかた人形を取り出し、放った。
「青竜!」
身の丈一メートル八十の、群青色のスマートな装甲。二本の日本刀で黒服たちを迎え撃つ。インプットした何百もの剣の達人の動きや技を、人間を越す身体能力で繰り出すことが可能なこの機体は、近接戦闘型の式神だ。黒服二人を相手に、一歩も譲らず丁々発止と斬り結ぶ。
「
さらに呼び出した五体目は身の丈わずか七十センチ。自動式拳銃や粘着撒菱の他、閃光手榴弾、催涙ガス手榴弾、発煙手榴弾などを常備。靴裏の機巧ローラーが実現する高速移動と静音性、そして周囲に溶け込む迷彩装甲で、敵の虚を突くことを得意とする隠密攪乱型の式神だ。
大陰は素早く床を駆け抜け、黒服の足を狙って発砲。よろめいた黒服の右肩を、青竜の斬撃が斬り裂く。だが、黒服も全身を機巧改造しているらしく、一切血が流れなかった。
「オイオイ、そいつら今、どっから出てきやがったよ!?」
新たな式神の出現に、羅漢が驚きの声を上げる。無論、秀美に応える義理などない。
白虎と天空は連携して羅漢を圧倒していた。いくらサイボーグ化機巧改造されていると言っても、銃弾の雨と斬馬刀の剛剣を浴び続ければただでは済まない。羅漢は堪らず大きく後退する。
「ハッ! この羅漢様を舐めんなよっ!」
羅漢は不敵に笑い、ぼろぼろとなった二本の鉈を捨てた。それが合図だったかのように、青竜と剣戟を繰り広げていた黒服二人が同時に跳ぶと、ヤモリのように天井にぴたりと張り付いた。直後、羅漢の両手首が、折れる。
折れた手首の奥に覗いたのは、多数の銃口――多銃身の
「っ! 玄武!」
「イヤッハハハハハハハハハハハハハハハハァ――――――っ!!」
羅漢の哄笑。直後、それすら掻き消す射撃音が爆発し、凄まじい量の弾丸が嵐となって一斉に降り注いだ。
しかし、そのときすでに秀美は新たな人形を放り投げていた。秀美たちを護るように現れた六体目の機巧式神は、身の丈一メートル九十と白虎よりやや小さいが、重量は遥かに重い。なぜなら、その全身を覆う赤銅色の特殊強化装甲は「壁」と表現しても過言ではないほど広く、分厚いからだ。
装甲特化型である玄武の装甲は、回転式機関砲の射撃すら物ともしなかった。
「オイオイ……マジかよ……?」
羅漢は唖然として射撃を停止させた。
「一体どんだけ、いやどこに隠し持ってんだよ!? おい、てめぇら、いったん後退するぞ!」
背を向けて駈け出す羅漢。黒服二人は地面に飛び降り、命令に忠実に後を追った。
そのとき羅漢が逃げていく廊下の先に何者かが立ち塞がる。白衣を着た初老の男性だった。
「おい、てめぇ、なに勝手に出て来てやがんだ! 邪魔だから引っ込んでやがれ!」
羅漢が怒鳴りつけるも、男性は退かなかった。低い声で、はっきりと告げた。
「羅漢様、もう終わりにさせてください」
「ハァ? おい、なに言ってんだよ、てめぇ?」
「私たちはこれ以上、この研究を続けるつもりも、あなた方とお付き合いするつもりもないということです。我が社は倒産することになるかもしれません。ですが、それはもはや仕方のないこと。むしろ、今まで存続できたことが奇跡だったのです」
男性の瞳には、すでに覆すことのできないだろう強い意志の光があった。
「てめぇ、言ってること分かってんのか!? ブッ殺すぞ!?」
羅漢が額に青筋を立て、猛然と詰め寄る。しかし、男性は首を横に振った。
「好きにしてください。すでにその覚悟はできています」
「チィ……ッ! だったら、望み通り……」
怒気で顔を紅潮させた羅漢だったが、すぐにそれは狂気に彩られた笑みへと変じた。
「ヒャハハハッ! 気が変わったぜ!」
何を思ったか、羅漢は男性の身体を太い腕で持ち上げると、そのまま逃走を再開した。
秀美は白虎を先頭に慎重に追行。奥に階段があり、降りると先ほどの巨大な部屋へと出た。
羅漢は、檻に囲まれた部屋の中央、大きな実験机の前にいた。黒服二人も一緒だ。男性は羅漢に羽交い絞めにされ、青い顔をしている。秀美は頭巾越しにくぐもった声で言った。
「……その人を、放してください……」
羅漢はその手に何かを持っていた。注射器だ。中には無色透明な液体が入っている。
「ああ、離してやるよ。だが、その前に」
羅漢が口角を吊り上げ、手に持っていた注射器を掲げた。男性の顔が恐怖に引き攣る。
「や、やめてくれっ! ま、まだ人間に試したことは一度もっ――」
「じゃあ、てめぇが栄えある第一号だなァ!」
羅漢は注射器の針を男性の首筋に突き刺した。悲鳴を上げ、男性が身を攀じるも、羅漢の強い力が離さない。あっという間に、すべての液体が男性の体内に注入された。
羅漢が手を放し、男性が床に転がった。口から声にならない悲鳴を吐き出しながら地面で身を捩り、じたばたと悶える。
突如、その身体に異変が起こった。顎が外れるのではないかと言うほど、絶叫を迸らせながら大きく口を開いた。直後、歯茎から血と一緒に白いものが溢れ出す。それは牙だった。変化はそれだけではない。骨格が巨大化し、肉が盛り上がり、着ていた白衣が破けると、中から赤褐色の肌が現れる。さらに、額から脇差のように鋭い角が突き出した。
男性は、特殊強化ガラスの奥にいる化け物たちと同じ姿へと変貌を遂げていた。
細胞や体組織を強引に改変し、鬼に似た異形の怪物へと作り変える狂気の薬。それが、この研究所で違法に開発されていたものだった。
「ヒャハハハハッ! 上手くいったじゃねぇか! 自分で作った薬の成果第一号になれたんだんだ、本望じゃねぇか!」
「グアルッ!」と、先ほどまで人間だったはずの鬼が低く喉を鳴らし、牙を剥いて羅漢に踊り掛かった。羅漢が咄嗟に回避したため、隣にいた黒服が餌食となる。鬼は黒服の義手を食い千切り、さらに逃げようとする身体を太い手で押さえ、今度は頭に喰いついた。がりがりと咀嚼し、黒服の叫び声が途切れる。
さらに鬼は羅漢へと飛び掛かっていったが、羅漢はもう一人の黒服を盾にした。黒服は鋭い爪で身体を抉られ、牙に噛み砕かれる。その間に、羅漢は鉄格子の奥へと退避。
鬼は機巧改造されていない黒服の脳髄だけを喰らい、残骸は興味を失ったように捨てた。
すでに知性を失っているのか、鬼は羅漢を追うことなく、血走った目を秀美の方へと向けてきた。
「もしかして……人間を捕食対象として見ている……?」
秀美の悪い予感は当たっていた。鬼が秀美の方へと襲い掛かってくる。白虎が迎え撃ち、斬馬刀を一閃した。鬼の腹部がぱっくりと割れ、中から赤黒い液体が噴き出す。さらに青竜が斬撃を叩き込み、血飛沫が舞う。
だが、鬼は動きを止めない。丸太のような腕を振って白虎と青竜を殴り飛ばすと、飢えた獣のごとく口から唾液を散らし、腕を前脚のように扱って凄まじい速さで秀美の方へと疾駆してきた。
玄武が鬼と激突し、突進を止めた。直後、天空が撃った弾丸が、鬼の全身に容赦なく穴を穿つ。元が人間であることを思い出し、秀美は唇を噛むが、そうする以外に道は無かった。鬼は地響きを立て、仰向けに倒れ込んだ。
そのときだった。突然、獣の咆哮が響いたかと思うと、強化ガラスの中に閉じ込められていたはずの鬼が一匹、外へと飛び出してきた。いや、一匹だけではない。二匹、三匹、次々と鬼が脱獄してくる。あろうことか、すべての強化ガラスの檻が開いていた。
「ヒャハハハハッ!」
狂った笑声に振り返ると、いつの間にか羅漢が先ほど降りてきた階段へと続く扉のところにいた。
「しまっ……」
「鬼退治せいぜい頑張ってくれや。オレは一足先にトンズラさせてもらうぜ、ヒャハハハッ」
そう言い残し、羅漢は嗤笑とともに扉の向こうへ姿を消す。
もはや周囲は咆え哮る鬼どもが跳梁跋扈する地獄と化していた。鉄の檻を破壊し、中の動物を喰っている鬼もいれば、共食いをしようと他の鬼に噛み付く鬼もいる。まさに地獄絵図だ。
当然、鬼は秀美の方にも次々と襲いかかってきた。今いる機巧式神だけでは持ち堪えられない。そう判断した秀美は、七体目を呼び起こす。
「
現れたのは、鬼すらも凌駕する身の丈四メートル半の武骨な銀鼠色の巨体。肩に五メートル近い砲身を誇る百ミリ口径砲を乗せ、両の腰には二挺の
雷鳴のごとき轟音とともに、大砲が火を噴いた。戦車の装甲すら破る砲弾で、正面に居た鬼の右肩がごっそりと抉り取られた。
だが、その直後、予想外の事態が起こった。先ほど全身を弾丸で撃ち抜いたはずの鬼が、立ち上がったのだ。さらに、砲弾の直撃を浴びた鬼も、欠損した部分から夥しい量の血を噴き出しているにもかかわらず襲い掛かってくる。
「な、なんて生命力でしゅ!」
「
秀美は八体目と九体目、二体の機巧式神を同時に呼び出した。
萌葱色のしなやかな肢体を持つ騰蛇は、身の丈一メートル六十の集団殲滅型だ。長い腕に蛇腹剣とも言われる鞭状の剣二本を持ち、四方八方の敵を容赦なく切り刻む。
朱雀は一メートルの真紅の身体。飛行援撃型で四肢を有さず、背中の回転翼機で空を舞い、サブマシンガン短機関銃での援護射撃を得意とする。
二体を呼び出したその直後、小型の鬼が包囲網を抜け、秀美に跳び掛かってきた。
「ましゅたーっ!」
「……大丈夫っ……」
頬を掠めた鋭利な爪で忍び頭巾が切り裂かれ、端正な顔が露わになったが、秀美はどうにか攻撃を回避していた。焦ることなく、さらに十体目を呼ぶ。
「
全方位撃退型の勾陣は、ききょう桔梗色の装甲は細身であるが、身の丈は二メートル三十とかなりの長身だ。秀美の頭上で計十二挺もの散弾銃を全方位に展開し、近づく者には容赦しない。
秀美に襲い掛かった小型の鬼は、勾陣によって瞬く間に穴だらけにされた。
「
間髪入れずに呼び出すは、十一体目。黄金色の身の丈一メートル七十、強靭な脚力を持つ追撃空襲型の機巧式神だ。十メートル以上も飛翔すると、鬼の頭の上に着地。二本の刺突剣で、頭に二本目と三本目の角を生えさせた。
そして、十二体目。
「
「
すでに呼び出してはいたが、彼女こそが全十二体の式神の主神にして、最後の機巧式神だ。
身の丈は最小の四十センチ。側近愛玩型。高度な人工知能を搭載。各種センサーや小型カメラが付いたMAVで、周囲の状況をいち早く察知する哨戒役。さらには、指揮官である秀美が見えない場所で戦闘する他の式神に、戦況に応じた的確な命令を下す代理指揮官としての役割も担う。
「大陰! 戻ってきて青竜のさぽーとを!
舌足らずなのでまるで威厳が無いが、上位式神である彼女に他の式神は忠実に従う。
血が飛び、肉片が舞う。そこはもはや、凄惨な戦場と化していた。
「これは一体、何の冗談だ……?」
血臭漂うその場所を、刀華は回廊の欄干の陰に隠れて見ていた。驚きのあまり、先ほどから瞬きすらしていない。
何よりも刀華を驚かせたのは、あの黒装束の正体だった。
忍び頭巾が破れ、中から現れたのは、銀色の髪と、女にしか見えない端正な面貌。間違えようがない。やつは、転校生――木下秀美だ。その背中に負ったリュックサックには、あのおかっぱ頭の人形が顔だけ出して収まっている。
同時に、やはり、という思いもあった。刀華の直感は正しかったのだ。
しかし、昨晩、あの機巧兵の胴を両断したのは、彼の剣ではなかった。仲間(?)の機巧兵にやらせたのだろう。きっと、あの二メートル近い大きさの、巨大な剣を持ったやつだ。
そのことに刀華は少なからず落胆を覚えた。
彼は自ら戦っているわけではない。刀を振ることなく、銃を持つこともなく、ただ監督しているだけなのだ。
「……いや、違う」と、刀華は自分の考えを否定する。
あいつは、あの機巧兵をすべて自らの力で動かしている!
転校生の身体から溢れ出る魔力が、あの一体一体に常に注がれているのだ。
「氣」の力を介する刀華には分かった。その量がどれほど膨大であり、また保ち付けることがいかに大変であるかということが。
しかも、あの場所。
周りを守護されているとは言え、悍ましい化け物たちが牙を剥き、爪を振るって襲い掛かってくる場所だ。今は相手を圧倒しているが、少しでも油断すると形勢は一瞬にして逆転するだろう。いつ何時、何が起こるか分からない、死と隣り合わせの世界。刀華がいつも刀を振るっている道場稽古のような、安全に最大限配慮された甘い世界ではない。
まさしく戦場だ。
かつて多くの勇敢なる侍たちが命を賭して戦い、散っていった場所なのだ。
どくり。己の中を流れる侍の血が騒ぐのか、刀華は猛るような胸の震えを感じた。
「すごい……」と、刀華は思わず感嘆の声を漏らす。
そんな場所に立って彼は戦っている。その姿に普段の弱々しさは微塵も感じられなかった。
「あいつは一体……?」
すでに魔力と体力の限界は近かった。
秀美の役割は、単に式神たちに命令を下す司令塔というだけではない。機巧でできた式神たちはその内部に、魔力を動力エネルギーへと変換する機構を備えている。すなわち、常に秀美が魔力を注ぎ続けなければ、式神はただの金属の塊でしかないのだ。十二体同時に操れば、当然、それだけ多くの魔力が必要になるし、また身体への負担も大きい。
だが、十二体の機巧式神たちの猛攻で、三十匹は下らなかったであろう鬼は確実に数を減らしていた。対して機巧式神たちは、あちこち傷を負っているものの、機能停止している機体はいない。
天后の刺突剣が馬が変じたと思しき鬼の脳を貫き、白虎の斬馬刀が別の鬼の首を刈った。さらに天空の短機関銃が銃弾の雨を浴びせ、猿顔の鬼を仕留める。それが最後の一匹だった。
すべての鬼を戦闘不能にした直後、秀美はよろめいて片膝を付く。
「ま、ましゅたー、大丈夫でしゅかっ……?」
「……う、うん……」
頷いてみせたものの、酷い吐気と眩暈で、秀美は今にも倒れてしまいそうだった。
みことだけを残し、他の十一体を帰投させる。本当なら戦力を残しておきたかったのだが、もはやその余力すらも無かった。ふらつきながら唯一の出口である扉へと向かう。
みことがロックを解除。重々しい扉を懸命に開けて、壁に手をつきながら階段を上る。
なんとか上り切ったその直後、みことが焦燥に満ちた声で叫んだ。
「ま、ましゅたーっ! しゃき先ほどの男がっ……」
「ハッ! まさか、あれだけいた鬼どもを一匹残らず片づけちまうとは驚いたぜ!」
待ち構えていたのは羅漢だった。
「……逃げたんじゃ、なかったんだ……」
「逃げやしねぇよ。まんまと研究データを持ち逃げされたとあっちゃあ、オレのメンツにも関わるからよぉ。てか、下手すりゃ組織にブッ殺されっからな」
大鉈を構え、羅漢が近づいてくる。慎重な足取りなのは、こちらがまた式神を呼び出すのではないかと警戒しているのだろう。だが、実際にはそれは不可能だった。
「もしかして、てめぇ、燃料切れかァ?」
そのことを察したのか、羅漢が唇を歪めた。秀美は内心の動揺を隠しつつ、懐から予備のひとかた人形を取り出す。無論ハッタリだが、なんとか時間を稼げば少しは魔力が回復するかもしれないという公算もあった。
だがその効果は一秒と持たなかった。
突然、羅漢が大鉈を投げつけてきた。秀美は咄嗟に横に跳んだが、避けきれない。ガキッという嫌な音を残し、大鉈の刃が秀美の脛を抉った。その衝撃で無様にひっくり返ってしまう。
「ヒャハハハハッ! どうやらほんとに燃料切れだったようだなァ!」
「っ……」
幸い、少し脛の骨が削られた程度。だが、それでも立ち上がろうとすると激痛に襲われた。
「にしても、てめぇ、やっぱ女だったかァ。しかも、かなりの上玉だぜェこりゃ。このまま拷問に回しちまうのは惜しいよなァ……ヒャハハッ、ちょっと楽しませてもらうとするか」
舌舐めずりしながら近づいてくる羅漢。秀美は藁にもすがる思いで真実を告げた。
「……あ、あのっ……ぼ、ぼく……お、男なので、見逃してもらえませんか……?」
「ヒャァ?」羅漢はとん狂な声を出した。「男? てめぇが?」
「……は、はい……よく、間違われるんですけど……」
秀美が蚊の鳴くような声で言うと、羅漢はしばしまじまじと凝視してから、
「ヒャハハハッ! 安心しろよ! オレは可愛けりゃどっちでもいける口だからよ! てめぇは問題なく合格だ!」
羅漢は高笑う。まるで安心できる要素がないし、合格などしたくはなかった。
「ままましゅたー……かかかくなる上は……みみみことが、身代りに……」
「き、気持ちは、有り難いけど……それは、無理じゃないかな……色んな意味で……」
羅漢がベルトを外し、ズボンを脱ぎ捨てた。
「ほら見ろよ! もうこんなに、てめぇのケツ穴を突きたがってやがるぜ! ヒャハハッ!」
さすがにアレまでは機巧改造されてないらしく、彼が言う通り下着の前部が高々と迫り上がっていた。
「ひっ……」と頬を引き攣らせ、秀美は後ずさる。あんなに大きなものが入るわけない。きっとお尻が切れる。いや、そういう問題ではない。男に犯されるという嫌悪感が秀美の背筋を凍らせる。
「ヒャハ、いいねぇ、その顔ォ……」
嗜虐的な笑みを浮かべ、羅漢が秀美の前に仁王立った、そのとき。
「この変態ホモ野郎っ!!!」
突然、羅漢の背後から怒号が響いた。驚いて振り返ろうとした羅漢の肩に、暴風のような回し蹴りが直撃。あろうことか、百キロは下らないだろうサイボーグ化機巧改造された羅漢の身体が、近くの扉を破壊して実験室の奥までゆうに十メートル以上も吹っ飛んでいった。
「だ、大丈夫か、転校生っ?」
そう呼びかけてきた貞操の救世主を秀美は知っていた。
「……こ、近藤……さん……? ど、どうして、こんなところに……?」
クラスメイトの近藤刀華だった。
「そ、それはこっちが訊きたいぞ! この場所は、あの化け物どもは、一体何なんだ!?」
「あ、いや……えっと……」
問い返され、秀美は口ごもる。
先日もだった。先日も、なぜか彼女は現場に現れたのだ。あのときは頭巾を顔に巻いていたから良かったものの、今はそうはいかない。顔を見られてしまった。
しかしなぜ? 先日も今日も後を付けられていた? おんぎょうじゅつ隠形術で身を隠していたはずなのに、どうやって? まさか、見破った……? あり得る。古武術を修めている彼女なら、魔術的なものに鋭くともおかしくはない。
マズイことになった。
「そそそれよりっ、とにかく今はここから出ないとです……っ!」
とりあえず問題を先送りしようと、秀美は必死に提案する。
「……分かった。だが、後でちゃんと教えてもらうぞ」
そう言って、なぜか彼女は背中を向けてしゃがみ込んだ。
「足を怪我しているんだろ? 早く乗れ」
有無を言わさぬ口調で言われて、秀美は大人しく彼女の背中に身体を重ね合せた。
少し汗臭い。とは言え、自分だって随分と汗をかいているし、きっと血臭がするだろう。申し訳ない。だが、今はそれよりも、どうやって誤魔化すかを考えなければならない。
どうしよう……どうしよう……どうしよう……。疲労困憊のせいで頭が回らない。だが、ふとある方法が脳裏に浮かんだ。
……逃げる?
結論から言うと、秀美は無事にクラスメイトから逃げおおすことができた。
ビルから出た後、彼女に運んでもらったお陰で回復した雀の涙ほどの魔力を振り絞り、呼び出した飛行援撃型の朱雀を使って夜空へ逃げたのである。
『こら待て降りてこい! 逃げる気か! 降りろ! 降りてこいと言っているだろう!?』などと叫んで追いかけてくる彼女は、信じられないほど足が速く、撒くのに一苦労した。次に会うのが怖ろしい。
やがて朱雀が、秀美の住むマンションのベランダへと到着する。麻酔効果のある呪符を貼ったお陰で、地面に足を付けてもほとんど痛みは感じなかった。
ベランダで、しばし躊躇。
「怒ってる、よね……?」と、みことに訊く。
「そうでしゅね……今日は、かなり傷ちゅけられましたかりゃ……」
だが、いつまでもここに突っ立っているわけにはいかない。意を決し秀美は室内に入った。
みことがリビングの電気を点けてくれた直後だった。
「くそにぃっ!」と、廊下から怒号。バタンとドアが開き、水玉模様の着流し姿の小柄な女の子が、どたどた足を鳴らして駆けてきた。目の下まで伸ばした色素の薄い金髪と病的なまでに白い肌は普段なら儚げな印象を与えるものだが、今は全身から憤怒のオーラを漂わせていた。
「ま、待つでしゅら、瑠璃しゃま! ましゅたーは、足を怪我してぎゃうんっ」
制そうとしたみことが蹴り飛ばされ、ごろごろ床に転がった。女の子はふーっと犬歯を剥き出しにし、秀美の腕に思いきり噛み付いてきた。
「いたたたっ、痛いっ、痛いよ瑠璃! ごめんっ、ほんっとうにごめんっ!」
「あほにぃはほにっ! 修理するのしゅうひふふほ、どれだけ大変だとほへはへはいへんはほ、思っているのおほっへふほ!」
要するに、今日の戦闘で機巧式神たちをボロボロにしてしまったことを怒っているのだ。
彼女の名前は木下瑠璃。天才機巧技師で、みことを初めとする機巧式神たちの生みの親で、重度の引き籠りで、とにかく気難しい、秀美の妹だった。
「死ねしへっ! 死んじゃえしんはへっ!」「るる瑠璃しゃま! おやめくだしゃぎゃふんっ」「うっさいうっはひ!」
「こ、今度っ、くまにゃんのグッズ、なんでも好きなやつを買ってきてあげるからっ……!」
秀美の決死の叫びで、腕に喰い込む歯の力が弱まった。
「……ほんとほんほ?」
「ほんとほんと!」
くまにゃんとは、猫の身体と熊の頭というキメラ合成獣をモデルにしたゆるキャラのことだ。そのシュールな容姿と社会に喧嘩を売るようなアンニュイな表情が、今巷で大人気。瑠璃はそれが大好きなのだった。
「許す」と呟いて、瑠璃はようやく離れてくれた。噛まれた箇所を見ると、唾液とともに歯形がくっきり付いていた。
「……ごめんね」
「別に、良い」
前髪で顔が隠れているため、小さく俯く彼女の表情は伺えない。
「……ちゃんと、無事だったし」
瑠璃は踵を返して自室へと戻って行った。
その後ろ姿を見送り秀美は思わず微笑んだ。機巧式神が激しく損傷しているということは、それだけ秀美の身も危険だったということだ。それを怒るのは、口で言っている通り修理が大変だからというのではなく、本当はこちらの身を心配してくれているからなのである。
素直ではないだけで、決して悪い子ではない。なにより、たった一人の兄妹だ。だから秀美は、あれくらいのことは我慢する。我慢してあげたい。痛かったけれど。
ウィィィィィンッ! バリバリバリバリッ! ドドドドドドドッ!
「ちょっと待って!? こんな時間に修理始めちゃうの!? だ、ダメだよ瑠璃っ……もう十二時近いんだし……まだ防音工事も施してないしっ……」
「ばかにぃ、うっさい! 我慢しろ! 死んでろ!」
「がっ、我慢って、そういう問題じゃないからっ……」
「うっさい! 黙らないと撃ち殺す! 手榴弾投げる! 火炎放射器で燃やす!」
「ちょっ、る、瑠璃……お、お願いだから……」
絶対に苦情がくる。疲れた身体に、さらにどっと疲労が押し寄せてきた。
「まったく、まさか逃げるとは思わなかったぞ」
お風呂からあがってきた刀華は、濡れた髪にドライヤーを当てながら、先ほどのことを思い出して憤慨した。
逃げられたのである。転校生に。ビルから出た後、『あ、あの……いったん、降ろしていただけませんか……ちょっと、トイレに……』と言う彼を近くの公園のトイレに連れて行ってあげたのだが、それは虚言だった。なかなか出てこないのでおかしいと思ったときには、もう彼は空を飛んでいた。必死に後を追ったが、最後は高層ビルの陰に隠れられ見失ってしまった。
「助けてやったというのに、あの仕打ちはないだろう!」
次に会ったらとっちめてやる。そう決意しながら刀華はドライヤーを止めて立ち上がった。
もう十二時を回ろうとしている。いつもなら、すでに寝ている時間だ。色々あって、かなり疲れている。とろんと落ちてきそうになる瞼を擦りながら、ベッドへと向かおうとしたそのときだった。
ウィィィィィンッ! バリバリバリバリッ! ドドドドドドドッ!
道路工事でもしているかのような、物凄い音だった。
「な、何の音だっ? ……と、隣っ?」
刀華のこめかみに青筋が立った。怒気を孕んだ笑いを漏らす。
「ふ、ふふふふ……上等だ。誰だか知らんが、新入居者め。近所付き合いの第一歩として、しっかり常識を教えてやろう」
着流しの上に半纏を羽織った刀華は、玄関を出て隣の部屋のチャイムを押す。
「は、はい……」と、すぐに返事があった。
「隣の部屋のものだ。少し話がある」と、厳とした口調で告げる。
「……い、いま、行きます……」と、消え入りそうな声。
ん、どこかで聞いたことあるような……?
ふと刀華がそう思ったとき、恐々とドアが開いた。暴音はまだ続いている。
「何時だと思っている! 近所めいわ――」
刀華は言いかけた言葉を呑み込み、「え?」と目を丸くする。
「ご、ごめんなさ――え?」
相手の目も丸くなった。
ドアの向こう。そこにいたのは、目を白黒させる転校生だった。
「ごごご、ごめんなさいっ、ま、間に合ってますから……っ!」
「閉めるな新聞勧誘ではない!」
閉じられようとしたドアを強引にこじ開けた刀華は、世にも怖ろしい凄味のある笑みを顔に浮かべ、言った。
「ふふふ、見つけたぞ、転校生」
男は、裏社会における特別な情報網を有していた。
たった今、その網に引っ掛かったばかりのある情報に、彼は不愉快そうに鼻を鳴らす。
「ふん、模造の鬼ねぇ。《明治天誅党》の連中は、相変わらず愚盲なことをやっているよ。バカバカしい。……もっとも、人のことを言えたものでもないけれどね」
鬼。すでに絶滅したとも言われている、人外の魔物だ。その力は強大無比で、彼らが起こしたとされる巨大な霊的災害の痕は今も全国各地に残っている。
その存在は、人々にとって畏れの対象であるとともに憧憬の対象でもある。それゆえ、鬼を人工的に作り出そうという試みは、これまでに様々な組織・個人が、様々な手法で取り組んできたことであった。
「それにしても特高の連中もなかなかやるじゃないか。先日の《血の救世軍》の一件と言い、新しく優秀な戦闘員でも採用したのかもしれないねぇ」
特高――特別高位警察。
それは警察と銘打ってはいるものの、実際には警察とは独立した内務省直轄の特務機関だ。軍も真っ青なほどの高度な戦闘訓練を受けたその構成員たちには、過激な反政府組織や凶悪な思想犯罪者などを、武力を行使して取り締まることが認められている。また、魔術やそれに類する異能などの、特別な力を有するエージェントを抱えているという噂もあった。
そこで何かを思い付いたのか、男の顔が可笑しそうに緩んだ。
「そうだ。例の選考会。せっかくだから、彼らをそこに招待して差し上げようじゃないか。……くくく、これは思いのほか、楽しい余興になりそうだ」
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