第一章 侍少女はかく生きる

『一号館前の中庭にて、事前申請のない多数の違反抜刀、および交戦が確認されました。一年七組、風紀取締委員・近藤刀華とうかは、現場に急行し、直ちに制圧してください』


 昼休みの教室。放送スピーカーが、とても人工のものとは思えない流麗な声を響かせた。


「……単独司令?」


 小首を傾げて呟きつつ、刀華は制服の懐から携帯端末を取り出す。

 校内ローカルネットに常時接続されているそれは、全生徒に支給されている各種機能を備えた電子生徒手帳だ。その液晶ディスプレイを指先でタップすると、指紋認証がなされて起動。立体ホログラムが手のひら大の美しい女神を降臨させた。

 それは先ほどの声の主。東京皇国大学とその附属の第壱高等学校の全システムを制御・管理する、超高性能A・I人工知能――《アマテラス》のアバターだ。


「アマテラス。どうして私だけなんだ? 他にも出動可能な委員はいるだろう?」

『現場まで直線距離にして約十八メートル。抜刀数は十四。身体能力および過去の稽古・実践データから、近藤刀華ならば単独で最大二分以内に沈静化できると計測いたしました。他の風紀取締委員の出動は無意味であると思われます』

「直線距離と言うが……」


 刀華は周囲を見渡し、問う。


「……ここ、四階だぞ?」

『近藤刀華であれば、可能であると判断いたしました』


 アバターが柔和に、しかしどこかおどけたように微笑み、人工音声にも笑い声が混じった。この人間じみた反応は、《アマテラス》が超高性能人工知能であるがゆえになせる芸当だ。


「確かに可能ではあるが……」


 どこか腑に落ちない。しかし反論している暇はない。刀華は男女共通の制服である羽織を脱ぎ捨て、袴の股立ちを取った。それから手早く袂をたすき掛けつつ、窓枠に足をかける。木々が紅く色づき始めた中庭を覗き込むと、確かに抜刀した男子生徒たち十数名が東西に分かれ、砂煙と怒声を撒き散らしながら剣戟を繰り広げていた。


「それにしてもだ。本能のままに刀を抜いて喧嘩沙汰を引き起こすような、士族の風上にも置けない輩が多くて困る」


 そんなぼやきを漏らし、刀華は窓枠を跳び越え空中へと躍り出た。ふわりとした浮遊感の直後、重力加速度を得て一気に落下。藍染の織物で縛った長い黒髪が風に踊る。地面に激突する間際、しなやかで引き締まった足で華麗に衝撃をいなすと、軽々と着地を決めてみせた。

 腰の長曽禰虎徹贋作ながそねこてつがんさくを抜刀。贋作と言えど、無名の名匠が鍛えた大業物に数え得る紛れもない名刀だ。晩秋の陽を反射し冴え冴え光る切っ先を前方に掲げ、刀華は大声を張り上げた。


「風紀取締委員、近藤刀華だ! 直ちに刀を納めろ! さもなければ――」


 言い終わる前だった。剣戟を繰り広げていた生徒たちが、ざざざざっと波が引くがごとく一斉に左右へと割れた。見覚えのある男が姿を現す。

 身の丈一メートル九十に迫る、筋骨隆々の逞しい巨漢だ。太い眉を筆頭に、顔の各パーツが大ぶりで、見る者を圧倒する雰囲気を有している。

 そういうことか……。刀華は彼らの意図を悟った。

 目の前の男は、これまでに何度も刀華に戦いを挑んできて、その度に返り討ちにしてきた第六撃剣部の主将、三年生の山本何某だった。あまりにしつこいので最近はもう相手にしないことにしていたのだが、まさかこんな方法で誘き出してまで再戦しようとしてくるとは思わなかった。つまり、喧嘩はただの囮だったというわけだ。


「……仕方がない」


 諦念混じりの溜息とともに気持ちを切り替え、刀華は高々と宣言した。


「ならば、私の天燃理心流の極意、とくと見るがいい!」


 天燃理心流。幻と化した古流剣術の一流派。刀華はその技を、唯一現代へと受け継ぐ天燃理心流宗家の娘にして、免許皆伝の使い手だった。

 構えは天燃理心流独自の平晴眼。右前屈立ちで、刀身をやや傾斜させる。

「はぁッ!」と気迫の一声。刀華の全身から不可視の何かが迸った。

 それこそが天燃理心流の極意――『氣』。

 この生命のエネルギーを刀身へと移し刀氣となせば、巨岩を一刀で寸断し得る凄まじい斬撃を生み出す。元より、それで彼を斬るつもりはない。刀華の狙いは、その威力を眼前で見せつけることで、もう二度と挑もうと思えないよう、その精神を叩き斬ってやることだった。

 だが、刀華のその思惑が実行に移されることはなかった。

 山本何某は、すぅぅぅぅ、と大きく息を吸い込んだかと思うと、学校中に響き渡るかという大音声で告げたのだった。


「近藤刀華ぁぁぁぁぁぁぁぁっ!! お主のことが好きだぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!! 結婚を前提に拙者と付き合ってくれぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」


 山本主将ぉぉぉっと他の男子たちが喝采を浴びせ、声に驚いた鳥の群れが一斉に鱗雲棚引く秋空へと羽ばたいていく。


「……は?」


 刀華は危うく愛刀を手から落してしまうところだった。




 約二六〇年続いた幕藩体制が終わりを告げ、徳川慶喜の下で新たな一歩を踏み出した我が国は、かつてない激動の時代を潜り抜けてきた。

 同時にそれは躍進の時代でもあった。

 鎖国を廃し、西欧文明を積極的に取り入れることで急速に国力を充実させ、近代国家の仲間入りを果たすと、日中、日露、そして二度の世界大戦で勝利。戦後は高度経済成長を経て、軍事力だけでなく、経済力においても世界屈指の大国へと成長を遂げた。

 しかし、それらは決して、まぐれや偶然などによってもたらされたものではない。

国家興隆の中心には、かつての武士階級――現在の『士族』たちがいた。

 支配階級としての地位や特権を失うも、彼らは侍としての矜持を失わなかった。そして高い教養と知性を持ち、政界、軍界のみならず、財界、学界、武芸界、文芸界など、あらゆる分野で活躍し、近代日本を支えてきたのである。

 第壱高等学校は近代国家の建設を目指し、他のナンバースクールに先駆けて創設された皇国一のエリート校だが、その卒業生の六割以上を人口の一割にも満たない士族の子弟が占めていることを鑑みても、士族の有能さは際立っていると言えるだろう。

 とは言え――。先の大戦も今や昔。太平の世を謳歌する日本の若武者たちが、武芸や学問より娯楽や恋愛に現を抜かすというのも無理なからぬことだった。


【求愛してくる撃剣部主将を、正当防衛と称してお得意の天燃理心流で病院送りにしちゃったんだって? 風取フートリのお仕事、どうもお疲れ様ー】


 昼休み後の五限目の授業中。卓上の透明液晶ディスプレイの一隅に、メールの受信を知らせるアイコンが出たのでクリックすると、そんな腹立たしい文面が現れた。

 差出人は見ないでも分かる。すぐ隣の席からだ。実際、派手な容姿の少女がニヤニヤとした顔つきでこちらの様子を窺っていたので、刀華はぎろりと睨んでやった。

欧米人みたいに首をすくめてみせたのは、隣の席の島津香苗かなえ。髪を明るく染め、顔にばっちりメイクを施した、いかにも今時の女子高生といった雰囲気のクラスメイトだ。


【あれのどこが風紀委員の仕事だ! アマテラスの奴、分かった上で私に単独で指令を出したに決まっている。道理でおかしいと思ったぞ!】


 刀華は手元のレーザー投影型キーボードを叩いて、怒りの籠った文面を返した。


【むしろ、「彼氏いない歴=年齢」の刀華のことを考えてくれたんでしょ? 勿体なーい】

【余計なお世話だ!】


 とさらに打ち返してから、刀華はむすっと頬杖を突く。

 目下、教室では『儒学』の授業が進行中だが、ほとんど頭に入ってこない。


【せっかく綺麗な顔してんのに、彼氏つくらないとかマジあり得ないって。一回で良いから試しに付き合ってみたら? 案外、それで本気の恋❤に発展しちゃったりするかも】


 などという返信がきたので、今度は完全に無視してやった。

 何が恋だ。馬鹿馬鹿しい。

 刀華は頬杖を突いたままディスプレイに映る己の顔を見た。細くきりっとした流麗な眉に、すっと通った鼻筋。凛々しさの中に残る、年相応のあどけなさ。夜の闇より濃い黒髪は、大した手入れもしていないのにいつも艶やかだ。

 容姿の上では決して不細工ではない。いや、それなりに優れているとは自分でも思う。実際、今日のように告白されたことも、今までに何度かあった。

 だがその度に丁重にお断りしてきた。

 正直、そういうことに興味が無い。恋愛ごとにかまけている暇などあったら、学問や武芸に励み、己を鍛錬する方がよほど有意義である。

 侍らしく生きる。それが、近藤刀華という人間なのだ。

 士族と言っても、佩刀が許されていることを除けば、今や戸籍上に記載されるだけの名目ばかりの身分でしかない。すでに昔のように侍の生き方にこだわる必要などない世の中だ。そのため刀華が自身の考えを表明すると、大抵は、堅物とか、時代錯誤とか言われてしまう。

 だが、それでも刀華は自らの信念を曲げるつもりはなかった。

 一方、硬派な刀華とは対照的に香苗は尻が軽い女だ。入学した当初はそうでもなかった気もするが、いつしか派手な身なりをするようになり、色んな男子と噂されるようになった。その風聞によれば、二股三股も当たり前。何人も取っかえ引っかえしているという。

 そんな軟派な相手が、なぜかよく刀華に絡んでくるのだ。他の学校に比べると女子生徒が少ないとは言え、あるいは隣の席とは言え、もっと他に話の合う相手がいるだろうに。


【そう言えば、このクラスに転校生が来るんだって。男子らしいよ。イケメン希望!】


 続けて送られてきたそんな文面に、刀華はげんなりして深い溜息を吐き出した。





「まったく、どいつもこいつも。仮にも天下の壱高、入学前はもう少しまともな奴がいると思っていたんだがな……」


 放課後の水飲み場。この日の稽古を終えた刀華は、洗った顔を手拭いで拭きながら嘆くように呟いた。とりわけ今日の昼休みの一件など、思い出しただけで頭痛がしてくる。


『愛しているぞ近藤刀華!』『恥ずかしいことをほざくな!』『ああ! 照れるお主も可愛いぞ!』『照れてなどいない!』『知っているぞ! そういうのを近頃はツンデレと言うのだ!』『これのどこがツンデレだ!(正拳突き)』『………あぁぁっ、近藤刀華のナマテテ生手てが拙者の頬に!』『ひ、人の拳で興奮するな!(峰打ち)』『はぐっ…………』『……あ。おい、大丈夫か……? つい力を入れ過ぎて……』『………はぁはぁ……も、もっと! もっと拙者にご褒美を!』『死ねい!(蹴り)』


「あの変態め! 気持ちが悪いにもほどがある!」


 刀華は怒りに任せ水道の蛇口を力いっぱい握り締めた。ボキッ。「……あ」蛇口が折れた。

 ブシューーーーーーーーッ、と噴出した水が飛瀑のごとく襲いくる。しかし刀華はそれを驚異的な反射神経で躱してみせた。

「ひゃっ」と、背後から可愛らしい声。しまった、と思ったときにはもう遅かった。

 タイミングの悪いことに、後ろを通りかかった人に水が掛かってしまったらしい。


「す、すまん! 握力はせいぜいたったの八十くらいしかないんだが、その、てこの原理で折れてしまって……」


 つい物理法則に責任転嫁しつつ振り返ると、全身濡れ鼠になった生徒が突然の事態にポカンと口を開けて佇んでいた。

 一方の刀華は、別の理由で思わず口を開けてしまった。

 そこにいた少女が、思わず目を瞠ってしまうほどに美しかったからだ。

 どこか儚げな光を宿す碧い瞳。少し肩にかかるほどの長さの輝く銀色の髪。華奢な体つきと新雪のように白い肌。目鼻立ちこそは日本人のそれである。しかし、西洋の幻想世界からこちらの世界へと迷い込んだのではないか、そんな錯覚を抱いてしまうほど日本人離れした雰囲気を醸し出していた。身に着けた純和風の服装が酷く違和感を覚えさせる。


「……だ、大丈夫か? 見慣れない顔だが……」


 刀華が問うと、彼女はこくんと小さく頷いて、可憐な薄い唇を開いた。か細い声で言う。


「て、転校生、だから……。あ、明日から、ですけど……その、今日は、手続きで……」

「そうか、お前が……。いや、それはすまなかったな、いきなり酷い目に遭わせてしまって」

「い、いえ……」

「しかし、びしょ濡れだな……」


 美しい銀髪からは、ぽたぽたと絶え間なく雫が滴り落ちている。無論、物理法則のせいではなく刀華のせいだ。刀華は先ほどの己の言動を恥じた。ちなみに《アマテラス》が異変を察知し、すでに水は止まっている。


「部室棟の中にシャワールームがある。そこに衣類乾燥機があるから、それで服を乾せ。この季節だ。そのまま帰る訳にはいかないだろう」

「あ、はい……」


 壱高は大学と敷地を共有しているため、初めて来た者は迷子になりやすい。自身の過失で被害を被った彼女へのせめてもの誠意として目的地まで案内しようと、刀華は「ついて来い」と告げて歩き出した。

 転校生は少し戸惑いながらも素直に後を付いてくる。その様子に、ふと刀華は二つ年下の妹のことを思い出した。昔は人見知りで、よく後ろにくっ付いてきて、ちゃんと護ってやらなければならない可愛い子だった。……あくまでも昔は。


「ここだ」


 やがて部室棟に入り、少し行ったところで刀華は立ち止まった。

 中に入るとそこは脱衣所になっていて、鍵のかかるロッカーが並んでいる。まだ部活動中の部が多いためか、他に人はいない。乾燥機は洗濯機の横に置かれていた。


「乾くまでシャワーでも浴びていたらいい。風邪を引いてはいけないからな」

「……あ、ありがとう、ございます……ご親切に」

「いや、いいんだ。そもそも、私が悪いのだからな」


 律儀に礼を言われると、返ってバツが悪かった。


「それでは、またな」と言い置いて、刀華は脱衣所を後にする。が、部室棟の廊下をしばらく進んだところで、ふと思い直した。

 明日から学校に通うと言っていた。面識のない人間ばかりの中にいきなり入っていくというのは、やはり色々と不安もあるだろう。気弱そうな子でもあったし、少し心配だ。


「そう言えば、名前も訊いていなかったな」


 引き返して再び脱衣所に入ると、すでに転校生の姿は無かった。乾燥機は起動している。どうやらすでにシャワールームの方にいるらしい。

 少し迷ったが、刀華は道着を脱ぎ始めた。どうせ激しい稽古でたっぷり汗をかいている。たまにはシャワーを浴びてから帰るのも良いだろう。

 ロッカーの中に脱いだ道着と下着を放り込む。シャワールームに向かおうとして、ふと鏡の前で立ち止まった。鏡越しに横から自分の身体を見つつ、刀華は胸に手を添えてみる。

 やはり……小さい、よな……。

 手で覆えば、すっぽりと隠れてしまう。別に手が大きいわけではない。胸が小さいのだ。

 ところで中学三年の頃、後輩と交わしたやり取りは、今も刀華の心に暗い影を残している。


『先輩、胸にさらしを巻く方法、教えていただけませんか?』『さらし? 別に構わんが……しかし、私はさらしなど、ほとんど巻いたことないぞ?』『ほんとですか? でも……』『でも?』『え? だって先輩、いつも、巻いて……はっ』『………』『……ごごごめんなさいっ!』


「む、胸の大きさが何だ! そもそも、小さい方が武術には向いている! って、誰に反論しているんだ、私は……」


 虚しくなって嘆息しつつ、シャワールームへと入った。

 半個室状のシャワースペースが左右に別れる形で並んでいる。右側、真ん中付近のスペースから湯気が立ち上り、水が流れる音が聞こえてきた。他は空いているようなので、どうやら転校生はそこにいるらしい。


「どうだ? なかなか設備がしっかりしているだろう?」


 刀華は近づいて声をかけた。シャワーを浴びていた転校生が驚いてこちらを振り返る。


「あっ……は、はい……」


 女の刀華でもつい見惚れてしまうほど、彼女の火照った白肌は滑らかで美しかった。

 だが、彼女の胸元に視線を向けた刀華は、「……ん?」と眉をひそめた。

 小さい。かなり小さい。

 いや、小さいというか、これはむしろ………無い? いくら小さいと言っても高校生だ。少しくらいは膨らんでいてもおかしくないはずだが……。


「……っ!?」


 さらに視線を下へと向けた刀華は、一瞬、見間違えかと思った。

 なぜって。転校生の股の間に、あり得ないものがぶら下がっていたからだ。

 それは男にしか付いていないはずの、アレで。

 だが、刀華が前に見た父親のアレは、もじゃもじゃとしたおどろおどろしいものだったが、今目の前にあるアレは、そこまで禍々しいものではない。つるりとしていて、ちょこんとしていて、なんというか可愛らしいという印象さえも受ける。例えるなら、父親のアレは腐葉土の上に生えたマツタケであり、目の前にあるアレは人工栽培されたブナシメジと言ったところだろうか。って、待て待て待て! なぜ私はアレについて詳しく考察しているんだ!?


「……お前っ……お、お、男、だったのか……っ?」


 視線をアレから逸らし、自分の身体を手拭いで隠しながら、刀華はおそるおそる訊ねた。

 転校生は一瞬、碧い瞳をキョトンとさせたが、やがて見る見るうちに綺麗な顔を曇らせて、


「……お、お、女の方、だったんですか……?」


 と、逆に問い返してきた。


「だったんですか……?」


 どうやら彼女――いや、彼の方も勘違いしていたらしい。

 確かに刀華は女にしては少し声が低いし、しゃべり方や態度も男っぽい。また身長も高く、凛々しい顔は美形の男子に見えなくもないかもしれない。が、なんとも失礼千万な話だ。


「……ご、ごめんなさいっ……ぼ、ぼく、てっきり……だって、その……」


 そのとき、彼の視線がこちらの胸元へと注がれたのを刀華は見逃さなかった。


「ふ、ふふふふふ……。そうか、それは間違えてしまうのも仕方がないだろうな」


 刀華は満面の笑みを浮かべて大仰に頷く。しかし、その瞳は露ほども笑ってはいなかった。


「どうせ私は貧乳だぁぁぁっ!!!」


 怒号とともにビンタを一閃。バチーンと威勢の良い音がシャワールーム内に反響

した。




 翌日。朝のホームルーム。

中年の男性教師に促されて転校生が入って来た途端、教室内の空気が一変した。

 ざわつきが突如として止み、無数の息を呑む音が静寂の中にはっきりと聞こえた。誰しもがその姿に目を奪われて、しばし言葉を失っていた。


「……は、初め、まして……。き、木下秀美ひでみ、です……。よ、よろしくお願い、します……」


 転校生は電子黒板の前で恥ずかしそうに頭を下げ、小鳥が鳴くような声で自己紹介した。

直後、堰を切ったように教室中が沸き立った。


「うおおおおおおおおっ! 美少女キターーーーっ!」「マジ可愛いっ! マジ天使!」「おいおい、これ、今年のミス壱高、決まりじゃね?」「アイドルとかじゃねぇの!?」

「あ、あの……えっと……」


 男子生徒たちの雄叫びに、転校生はおろおろと狼狽える。そのどこか小動物めいた素振りも彼らの心をくすぐったらしく、さらに嬌声が飛び交った。


「静かに! おい、静かにしろ!」


 教師が威圧を込めて声を張り上げ、うるさい生徒たちを黙らせる。

 やがて十分に静けさを取り戻したとき、男子たちの歓喜と希望は、本人が申し訳なさそうに告げた一言によって打ち砕かれた。


「す、すいません……ぼくは、男、です……」





「つーか、何だよこのオチ。実は男って。マジぬか喜びじゃねぇか」「てか、俺、まだ信じられないんだけど……? いや、嘘だよな? な? 嘘でも良いから、嘘って言ってくれよ……」「てか、むしろあれは男でもOKじゃね?」「は? なに言ってんだお前、キメェよ」「いやいや、昔の武士たちの間にはな、衆道っていう、れっきとした男色文化があったんだぜ?」「……マジ?」「マジ」「……じゃあ、OKってこと?」「……OK、じゃね?」「……OK、か」


 ホームルーム後の休憩時間。落胆した男子たちの会話が次第におかしな方向へと向かいつつある中、刀華は最後尾の席で恐縮したように身を縮ませていた転校生に声をかけた。


「頬の方は大丈夫か?」


 びくっと肩を震わせ反応した転校生は、刀華を見てちょっと驚いたような顔をした。


「あ……き、昨日の……え、えっと……」

「近藤刀華だ。好きなように呼べばいい」

「……は、はい……こ、近藤、さん。……あ、あの、ほ、頬は、だ、大丈夫、です……」


 刀華が引っ叩いたせいで昨日は真っ赤な紅葉もみじができていたが、すでにその痕跡はなかった。


「……その……すまなかったな」


 謝罪の言葉を述べた刀華は、昨日の一件を反省していた。

 水道の邪口を破壊して彼に水を引っ掛けてしまったのも自分だし、シャワールームに連れて行ったのも自分だ。彼がこちらを男だと勘違いしたことは腹立たしいが、それはお互い様だ。自分だって、彼を女だと勘違いしていたのだから。一方的に頬を張ったのは、彼としては看過できない酷い仕打ちだっただろう。

 ところが、転校生はそれを咎めるどころか、逆に謝ってきた。


「い、いえ……近藤さんは、別に、何も……。ぼ、ぼくが、勘違いしちゃって、しかも、自分が勘違いされやすいことを言わなくて………それで、ああなっちゃったので……。む、むしろぼくの方こそ、本当に、すいませんでした……」

「いや、落ち度があったのは私の方だ」

「そ、そんなことは……」

「そんなことは、ある」

「は、はい……」


 刀華がやや強い口調で断じると、転校生は恐々と頷いた。

 少しイラッとした。随分となよなよとした男だ。身体つきも軟弱だし、本当に男なのかと疑ってしまいたくなる。……いや、確かに男だ。図らずも昨日、自分の目でアレを確かめてしまったではないか。……く……せっかく忘れていたのに、また思い出して……。


「なに刀華、木下クンと知り合いなのー?」


 刀華が頭の中から昨日の光景を必死に追い出していると、後ろから香苗が声をかけてきた。

「知り合いというか……まぁ、ちょっと、な」と、刀華は曖昧に返す。


「にしても、ほんと、女の子にしか見えないねー。きゃわいー」


 などと言いながら、香苗は転校生の身体を無遠慮にペタペタと触り始めた。胸の辺りを弄られた転校生が、あんっ、と艶めかしさを含んだ頓狂な声を出す。なんだその声は。


「アタシ、島津香苗。よろしくー」

「……よ、よろしく、お願いします……」


 刀華と香苗が先陣を切ったせいか、クラスの他の女子たちもわらわらと群がってきた。


「きゃー、髪の毛さらさらぁー」「銀髪とか、すっごぉ」「やぁーん、お人形さんみたーい」

「肌もすっごいきれーい」「あーん、弟にしたーい!」「むしろ妹にしたいわーっ!」「本当に男の子なのー?」「……確かめてみないと」


 髪を触られたり、頬を撫でられたり、はたまた抱き寄せられたり。黄色い声を上げる女子たちに、転校生は揉みくちゃにされている。


「あ、あの……ちょ、ちょっと……」

「こら、お前たち。困っているだろう」


 仕方なく、刀華が場の収拾役を買って出ようとしたそのときだった。


「離れてくらしゃい! ましゅたーに働く無礼ぶりぇいは、みことが許しましぇん!」


 どこからか舌足らずな声が響いてきた。

 え、なに今の声? 子供? どこから? と、方々から疑問の声があがる。


「ちょっ……だ、だめだって、みこと!」


 転校生が慌てて制そうとしたが、その前に何かが机の上へ、よいしょっと攀じ登ってきた。

 それは四十センチほどのサイズの、撫子色なでしこの可愛らしい振袖を着た小人(?)だった。

 小人(?)は机の上で立ち上がると周囲を威嚇するように睨み付けて名乗りを上げた。


「われこしょは、みことと申しゅでしゅ! ましゅたーを護る近侍としゅて、げしぇん下賤の輩には、ましゅたーに指一本触れしゃしぇやしましぇ――」

「うわー、可愛いーっ」「なにこの子、日本人形? でも、しゃべってるぅ~」「舌足らずなのが萌えるー」「うちに欲しいー」「……着せ替えしたい」


 終いまで言い終わる前に、小人(?)は無数の腕の波に呑み込まれてしまった。


「ちょっ、にゃにするでしゅら! みことは玩具ではありましぇん! ……あ、ひゃ……ま、ましゅたっ……たしゅけてっ……」


 勇んで出てきたにもかかわらず、今度は自分が女子たちにもてあそ弄ばれている。


「もしかして、人工知能を搭載インストールした機巧人形マシンドールか?」


 刀華は小人(?)を熱心に観察しながら呟いた。


「そ、そうでしゅら」なんとか腕の海から逃れ、転校生の肩の上へと避難した彼女は、はぁはぁと人間っぽく呼吸を整えながら宣言した。


「みことは、ましゅたー専用のましんどーるでしゅ! 特別とくべちゅ製なのでしゅ!」


「特別製、と言っても……」と、俄かには信じがたい思いで刀華は呟く。

 おかっぱにした黒い髪も、はりのある白い肌も、人間のそれとまるで見分けがつかない。動きも滑らかで表情は驚くほど多彩である。その上、あらかじめ記録された肉声や人工音声を再生しているのではなく、ちゃんと自分で判断して言葉を発し(舌足らずだが)ているようだ。

 機巧学メカニクス機巧技術マシンテクノロジー、あるいは自律機巧学ロボティクスといった分野は、昔からものづくりを得意としてきた我が国の十八番だ。そのため、人工知能を搭載した機巧人形や自律機巧はすでに商品化されて市場にも出回っているが、現状、計算能力など一部を除けば、その知能は人間に遠く及ばない。《アマテラス》は人間に勝るとも劣らない総合的な知能を有しているが、それこそ特別製で、一般人が所有できるような代物ではないはずだった。


「こんな高性能なマシンドール機巧人形を、なんでいち高校生が持っているんだ?」

「……その、し、知り合いの人に、作って、もらって……。その人……メカニクス機巧学の、天才、で……。だ、だめじゃないか、みこと。勝手に出てきちゃ……」

「だって、ましゅたーの危機でしゅた!」

「でも、風紀委員の人に見つかったら、没収されちゃうかもしれないんだよ……?」

「……そそ、それは困りましゅ」


 機巧人形の顔が恐怖で青くなった。


「私は風紀委員だが?」

「ひゃわわわっ」


 刀華が明かすと、人形は泡を食って今さらながら転校生の陰に身を隠した。


「みみみことは、ぼ、没収、されてしまうのでしょうか……? しょして、無残むじゃんにも解体しゃれてすくりゃっぷにしゃれてしまうのでしょうか……?」


 小動物のような目で見上げられては、さすがの刀華も胸が痛む。というか、頬が緩む。


「安心しろ。ちゃんと大人しくしてさえいればスクラップは勿論、没収もしない。確かに学校への不要物の持ち込みは禁止されているが、人工知能なら『物』とは言えないしな」

「よ、よかったでしゅ……」

「あら、どうしたの? みんなそんなところに集まって」


 機巧人形がほっと息を吐いたとき、ハスキーな声が響いた。教室に入ってきたのは藤原千夏ちなつ。後期に入り、病気で休職することになった前任の代理として着任してきた講師の女性で、大学では機巧学の、壱高では理科の授業で教鞭を取っている。歳はまだ二十代、との噂。目の覚めるような美貌の持ち主で、しかも独身のため、男子からの人気はすこぶる高い。

「転校生が、お人形さん連れてきたんですー」と、女子の一人が応じた。

 長身の刀華よりもさらに背の高い藤原は、集まった女子たちの頭越しに覗き込み、転校生へにっこりと微笑みかけた。


「あらあら、可愛くて大きなお人形さん」

「あの……ぼくは、人形じゃないです……」

「あらら?」


 転校生が否定すると、藤原は目を丸くして、


「あら、ごめんなさい。あんまり可愛いから、てっきりこの女の子がお人形さんかと思ったわ」

「お、女の子でも、ないです……」


 おずおずと告げる転校生に、藤原はますます目を丸くした。


「え? 女の子じゃないの? じゃあ、男の子? むしろ男のこ娘? むすめ娘の方の」

「は、はい……。……え? むすめ娘の方?」


 意味が分かっていないようで、小首を傾げる転校生。そこへ、本当の人形が割り込む。


「ましゅたーは、お人形しゃんでもなければ、男の娘でもありませぇん!」

「じゃあ、あなたがお人形さんで男の娘?」

「そうでしゅ! って、男の娘じゃないでしゅ! みことはれっきとした女性型でしゅ!」

「幼女型じゃないのか?」

「女性型でしゅら!」


 刀華が口を挟むと、機巧人形はすごい剣幕で否定してきた。子供と言われると怒るおませな小学生のようだった。

「それにしても、すごい性能だわ」と、藤原は急に目つきを理知的に変えた。


「京テク社の最新型人工知能でも、これほど人間らしい受け答えや動きはできないわよ。この皮膚も……樹脂ではなさそうね。ちゃんと水とタンパク質と脂質でできてるのかしら? 感触も人間そっくり。頭髪も。いえ、そんなことよりも……」


 と、そこでチャイムが鳴った。


「あら、残念」機巧人形を具に観察していた藤原が手を止めた。「はーい、それじゃあ、授業始めますよ~」


 机の合間を縫い、教壇の方へ歩いていく藤原。服装は洋装で、丈の短いタイトスカートから覗くストッキングをはいた美脚が、相変わらず男子生徒たちのイヤらしい視線を集めていた。


「どうした、香苗? 早く席に着け」


 じっと藤原の後ろ姿を見送っていた香苗に、刀華は着席を促す。すると香苗は一瞬だけハッとしたような顔をしたが、すぐにいつものニヤけた表情になって、


「あ~、何でもない何でもない。ちょっと脳内イケメン彼氏と公園でキャッキャウフフしてただけ」

「あっそう」





 誰かに付けられている。

 刀華がそう確信したのは、下宿先マンションの最寄り駅を降りた直後だった。

 実はいつも通学に利用しているモノレールに乗車したあたりから、嫌な視線を感じ取っていた。最初は単なる思い過ごしかと思ったが、どうやらそうではなさそうだ。

 刀華はそのまま何気ないふうを装って歩き続ける。下宿先とは逆の方向。しかも、あえて人気の少ない路地へと誘導していく。もう十一月。すでに陽は暮れかけ、辺りは薄暗い。家屋の軒先では、ぽつぽつと電気とうろう灯篭が灯り始めている。

 しばらくして塀の角を曲がった刀華は、直後に愛刀の柄に手をかけつつ踵を返す。予想していなかったのだろう、刀華を駆け足で追いかけようとしていた人影が驚いて立ち往生した。


「何者だ? ずっと私の後を付けて――」


 刀華は継ぎ句を呑み込んだ。何者かと問う必要などなかった。目の前にいたその人影が見知った人物だったからだ。刀華は無視することに決めた。というか、全力で走って逃げた。


「どうして逃げるのだ、近藤刀華っ!」


 そう喚きながら変態が追ってくる。変態――第六撃剣部の主将・山本何某だった。


「逃げるに決まっている! なんで貴様は私を付けてきているんだ!?」

「拙者は、ただお主がどこに住んでいるか知りたかっただけだ!」

「ストーカーか!?」

「ストーカーではない! 愛の尾行だ!」

「それを世間の常識ではストーカーと呼ぶんだ!」


 刀華は地面を蹴り叩き、疾風のごとく走った。山本も巨体ながら決して足が遅い方ではないが、刀華の相手ではない。ぐんぐん引き離していく。


「本当に何なんだ、あの変態は……っ!」


 やがて十分に撒いた後、刀華は電柱の陰に身を潜めて苛立ちを吐き出した。


「愛している! 愛しているぞ近藤刀華ぁぁぁっ!」


 遠くから叫び声が聞こえてきた。


「…………勘弁してくれ」





 下宿先のマンションが見えてきた頃、刀華はふとした違和感に後ろを振り返った。一瞬、あの変態ストーカーかと身構えたが、そうではなかった。


「あれは、何だ……?」


 それは黒い影だった。ゆらゆらと、まるで陽炎のようにその輪郭を揺らめかせながら、刀華が歩いてきた駅の方に向かって進んでいく。

 人か? そのシルエットは確かに、人の形のように思えた。さらに目を凝らし、意識を集中させると、手足らしきものが動いているのを見て取ることができた。

 だが、一体いつすれ違ったのか。それすら判然としないほど、その存在感は希薄で、周囲の闇に見事に溶け込んでいた。

 和魔術か? と、刀華は驚く。

 それは、開国以降に流入してきた西洋魔術に対し、神道や陰陽道などにおける日本古来の呪術・妖術の総称を指す言葉だ。恐らく目の前で使用されているのは、隠形術おんぎょうじゅつだろう。すなわち人や化生けしょうなどの目から己が姿を隠し、身を護る術である。道士や陰陽士、あるいは修験者などが扱う「九字護身法くじごしんぼう」などが有名で、かつて忍者も隠密活動の際に利用したという。

 だが、和洋を問わず、生まれつきの天稟に大きく左右される魔術の使い手は今も昔も怖ろしく希少だ。天燃理心流の『氣』も道教の煉丹術に通じる一種の魔術であり、誰にでも扱えるというわけではなかった。

 好奇心に駆られ、刀華は気付くとその人影の後を追っていた。隠形術とまではいかなくとも刀華だって気配を殺す術には長けている。もう陽は完全に沈んでおり、物陰に隠れつつ追跡すれば、相手もこちらに気付くのは容易ではないだろう。

 人影はどうやら黒い装束に身を包み、頭には頭巾を被っているようだった。背中に何かを背負っているようにも見える。身体つきは華奢で、身長は刀華より少し低いくらいだろう。

 少年、あるいは、女か。

 待てよ? 最近、どこかで……。いや、気のせいか。ふと頭に浮かんだある既視感を否定して、刀華は追跡を続けた。

 しばし住宅街を進んだ後、ある建物の前で黒装束が立ち止まった。三階建ての、比較的年季の入った何かの事務所といった風情の建物。が、どこか異様な空気を察知した刀華は、さっと路地裏に身を隠した。

 黒装束は躊躇なくその建物の中へと入っていく。関係者だろうかと思ったが、すぐにそれは間違いだと分かった。怒号に罵声、衝突音、物が倒れる音。どう考えても交戦しているとしか思えない音が、次々と建物内から漏れ聞こえてきたのだ。発砲音に、ガラスが割れる音。さらなる怒声に喚声に悲鳴。


「暴力団同士の抗争か……?」


 路地裏から出て建物前までやってきた刀華は細い眉をひそめ呟く。そして、愛刀の鯉口を音静かに切りながら建物内へと侵入した。

 玄関ホールには数人の男たちが倒れていた。見たところ目立った外傷はなく、どうやら気を失っているだけのようだ。

 刀華はすぐに二階へと駆け上がった。襲撃者に応戦したらしく、気絶した人間が廊下のあちこちに転がり、西洋剣や銃、排出された薬莢等が散乱していた。


「街中でこんな武器を所持しているとは、随分と物騒な集団だな……」


 刀華が小さく驚きを口にしたそのときだった。


「悪魔の手先、徳川に神の裁きをッ!!」


 そう声を張り上げ、背後から襲い掛かってきたのは、円錐形のランスを手にした鈍色の西洋甲冑プレートアーマーだった。相当な重量があるだろうにもかかわらず、信じがたい速さでこちらに迫りくる。


「その甲冑……強化服パワードスーツ仕様かっ……?」

「うおおおおおおっ!!」


 服のアシストを受けた突進の勢いそのままに、西洋甲冑が裂帛の気合いで強烈な刺突を繰り出してきた。強弓から放たれた矢のごとく向かいくる、超速度の一撃。その圧倒的迫力を前にすれば、熟練の剣士ですら身を硬直させて立ち竦むことだろう。

 だが次の瞬間、甲冑の中の人間の息を呑む気配がした。驚愕するのも当然。あろうことか、刀華は避けようとするどころか、襲来する槍の穂先目がけ、頭から跳び込んでいったのだ。

 刀華は、身を寸分ほど反らすだけで刺突を回避。鼻先を暴風のごとき圧力が貫いたが、瞬き一つしない。西洋甲冑とのすれ違いざま、疾風のごとく刀身を鞘内で滑らせ、抜刀。洗練され抜いた動作で放つは、天燃理心流初伝――龍尾剣。パッと鋭い剣光が煌めいたかと思った時にはもう、刀氣を纏う斬撃が兜に覆われた後頭部に叩き込まれていた。

 西洋甲冑はもんどり打って地面にひっくり返り、拍子に脱げた兜が床の上を転がっていく。


「パワードスーツ強化服の力に頼り過ぎだ。いくら速かろうが、そんな大ぶりな動作では簡単に躱せるぞ」


 と、教示してやるも、すでに中の男は泡を吹いて悶絶していた。ふと視線を移すと、その首に提げられた十字架の首飾りが見えた。血を塗り込めたような紅色だった。


「ここは反政府系吉利支丹キリシタンの隠れ家だったのか」


 これで先ほど男が叫んだ不可解な言葉や、西洋風の武装にも得心がいった。

 かつて江戸幕府は、海を渡って到来したやそ耶蘇教が次々と信者を獲得し勢力を広げつつあることを危険視し、徹底した禁教主義によって多くの吉利支丹を処刑した。

 鎖国を解いた後も耶蘇教に対する統制は厳しく、特に戦中は徳川体制を冒涜する不穏分子として弾圧の対象となった。戦後はその活動が公に認められはしたものの、徳川家康公東照大権現を祀る東照宮の教えに反するような教義を信徒に伝えると、内務省からの指導が入るという。

 その迫害の歴史ゆえに、吉利支丹たちが反政府団体を興すことは珍しくない。中には騎士団を編成して武力を有しているところも多いと聞く。恐らくここはその一つで、紅色の十字架は彼らの信条を表すエンブレムなのだろう。

 戦場はすでに三階に移っているようだった。天井越しに激しい交戦音が聞こえてくる。

 突然、建物全体を震わすような重い倒伏音が響いた。それが終幕の合図であったかのように建物内は水を打ったような静寂に包みこまれた。

 刀華は愛刀を抜身に構えたまま、三階へ上がる。壁や床に無数の弾痕や斬り傷。武器や西洋甲冑もごろごろ転がっている。三階の廊下は下とは比較にならないほど、凄まじい戦闘が繰り広げられた痕が残っていた。だが、まるで血臭がしない。違法武装の騎士たちは、それだけ一方的に鎮圧されたらしい。

 やがて廊下の先にあった部屋へと足を踏み入れた刀華は、あるものを発見して目を瞠った。


「こんなものまで所持していたのか」


 機関銃マシンガンの銃弾にすら耐え得る分厚い全身装甲に、大重量ながら人間のそれを遥かに凌駕する高い機動性、そして、近・中・遠どの距離においても恐るべき殺傷力を有した特殊銃剣。

 たった一体で一個中隊すら撃破できると謳われるそれは、米軍が採用している最新鋭の軍用重装甲機巧きこう兵だった。


「まさか、テロでも起こすつもりだったのか……?」


 自らの推測に驚く刀華だったが、今はそれ以上に驚愕を禁じ得ない事実を目の当たりにしていた。

 その機巧兵が胴体を真っ二つに切断され、無残な姿で床に転がっていたのだ。

 怖ろしく滑らかな断面。たった一撃で両断したに違いない。だが、一体どうやって? まさか、刀? 果たしてそんなことが可能だろうか?

 部屋の隅で、白髪の男が壁に背をもたれさせたまま気を失っていた。服装は金銀をあしらった高級感漂う純白のローブ。西洋僧服だ。この男が組織の主導者かもしれない。

 そのとき、ふと頬を撫でた冷たい風に、刀華は顔を上げた。

 黒装束が背後に朧な三日月を背負い、開いた窓枠の上に足をかけていた。


「……お前は、何者だ?」


 刀華が声をかけると、黒装束が肩越しに振り返った。問いに対する返事はない。だが、頭巾の隙間から覗く碧い瞳に、驚きの色が混じった気がした。碧い目……?

 黒装束が窓から飛び降りた。刀華は常人離れした俊足でその窓に駆け寄ると、すぐさま身を乗り出して下を覗き込む。建物前の道路に野次馬が集まりつつあるのが見えた。

 だが、まるで闇に溶けてしまったかのように、すでに黒装束の姿は見当たらなかった。







「もう少しだよ。もう少しで、あれが手に入る」


 男は口の端を満足そうに歪め、そう呟いた。

 予期せぬ誤算のお陰で、彼の計画は当初の予定よりずっと早く、順調に進行している。


「それにしても愚かだねぇ。愛は盲目とはよく言ったものだ。もっとも、僕にはまるで理解できない感情だけれど」


 あのときは口封じのため、その場ですぐに始末しようと考えた。だが結果的に、生かしておいて正解だった。自分の先見性を褒めてやりたい気分だと、男は得意げに喉奥を鳴らし笑う。

 そのとき、トントン、と遠慮がちに部屋のドアがノックされた。ドア越しに聞こえてきたのは、少女の声。


「あの……先生、いらっしゃいますか?」

「どうぞ」と応じた男は狡猾な笑みを消し、すぐさま笑顔の仮面を張り付けた。見た者をとろけさすような、柔和で甘い笑みを浮かべた仮面を。

 はにかみながら入ってきたのは、女子生徒だった。

 向かいの椅子に腰かけた彼女に、男は偽りの仮面を付けたまま偽りの言葉を述べる。


「いつもありがとう。君には本当に感謝しているよ」

「いえ、先生のためなら……」


 女子生徒は頭を振る。その瞳に宿るのは恋慕の感情だった。男は内心でほくそ笑む。


「だけど、申し訳なくも思っている。いくら不正を暴くためとはいえ、危ない橋を渡っていることは事実。そんなことに、生徒である君の手を借りなければならないなんて……」


 黒い思考などおくびにも出さず、男は嘆くように首を振って唇を噛んだ。


「だ、大丈夫ですっ……それくらい、何とも……何ともないですからっ……」


 生徒は可笑しいくらいに必死だった。無論、嘲笑するわけにはいかない。

代わりに男は、彼女の頭の上に優しく手を置いて、極上の微笑みとともに告げた。


「……ありがとう」


 生徒の頬が紅潮する。初々しく恥じらぐ彼女へ、男はさらなる一言を投げかけた。


「もし今回の件が成功したら、僕は教師をやめるつもりだよ」


 生徒が顔を上げた。不安と驚きの入り混じった目で、こちらを見てくる。その瞳を見つめ返し、男はあらかじめ考えておいたセリフを口にした。


「そうしたら、もう僕と君は、教師と生徒という関係ではなくなる。そのときは……」

「……あ……」


 その先は言わなかったが、彼女は察してくれたようだった。色づく紅葉のように、さらに頬を赤々と染めて、目尻に涙すら浮かべていた。あまりにも狙い通りの反応だったため、さすがに男も笑いを堪えるのに苦労した。

 あはははっ、実に傑作だねぇ。そのときは? そんなもの、決まっているだろう。

 お別れだよ。

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