第30話

 南アフリカから始めて、アフリカ大陸を北上しながら、飛び込みでゲリラ戦から本格的な戦争まで、死線をくぐりながら数々の戦闘を経験できた。


 ヨーロッパに渡ってからは、マフィアとのつながりもできた。


 マフィアから暗殺の依頼を受けつつ、南欧、中欧、北欧、東欧と旅を続けた。


 ウクライナでロシアの秘密機関と関わりを持った。


 その頃にはTの噂は裏社会ではかなり広まっていた──武器を一切使わない殺し屋として。


 不死身──という噂も一部であった。


 俺は確かに奴の頭にダムダム弾を撃ち込んでバラバラに吹っ飛ばした、なのに何で死んでねえんだぁーっ! と発狂した東洋系のスナイパーがいた。


 いくつかの国の、自分の名前の書かれた本物のパスポートも手に入れていた。


 日本のパスポートはとっくに捨てていた。 


 ウクライナまで進んだところで、反転してイギリスへ飛んだ。


 裏社会のルートからイギリスの複数の民間軍事会社に渡りをつけることができた。


 その中のある企業のチームとともに、今度は中東へ飛んだ。


 単独で仕事を請け負いながら周辺国を回り、イスラエルを最後に旧ロシア圏にUターンした。


 ロシアへと進み、一気にアメリカ本土へ飛んだ。


 アメリカでもマフィアや民間軍事会社とコネを持った。


 さらに中米、南米と回りながら暗殺稼業に精を出した。


 気づいたときには一財産築いていた。


 やはり世界は広かった。


 三年の間にTは二回殺された。


「悦子よぉ……アメリカ行くぞ」


 悦子にのしかかられたままでTは言った。


「えっ、はい」


 唐突にTにそう言われた悦子に反論する権利など元よりなかった。


「パスポート持ってるか?」


「あるわ……まだ期限は切れてないはずよ」


「そうか。じゃあなるべく早く予約しとけ。オレの分はいいのはわかってるな」


「ええ……」


 わかっていなかったが、そう答えざるを得なかった。


「あ、待て。いいや。今回はオレも普通に飛行機乗るわ。ぼくもママと一緒に行くぅ」


「はい。一緒に行こうね」


 にっこりと慈母のような笑顔を見せる。


「何しに行くかわかる?」


「…………」


「ママの子どもを取り返しに行くんだよ」


「……!」


「アメリカの知り合いに頼んでおいたんだ。もう居場所はわかってて、養親ようしん、赤ん坊を引き取った夫婦とも円満に話はついてるから」


「……! ……!」


「あれ? どったのママ? 口が聞けなくなったの?」


「ああ! 坊や! あなた! 愛してるわッ!」


 悦子とTの間に挟まれた二つの巨乳、その二つの球体がより強く圧迫され、その両乳首から垂れ流されている母乳の勢いがせきを切ったように激しくなった。


 悦子の自分に対する愛情が変わらなければ、子どもを引き取ることなど何でもない。子どもに注ぐ愛と男に注ぐ愛は別だろう。もし子どもへの愛情のほうが多くなったら、そのときは母子おやこともども捨てればいい。悦子と言えども、かぐや姫でもなければ天女でもないのだ。探せば代わりはいくらでもいる。


 ますます乳臭くなる部屋の中で、Tは、ぼんやりとそんなことを考えていた。


「代わりはいくらでもいる」


「えっ」


「赤ん坊を引き取った向こうの夫婦のこと。養子の代わりはいくらでもいるってことさ。悦子が気にすることは何もない」


「そんなこと──なんにも気にしてないわよ? あの子を取り戻せる、それ以外のことなんて考えたくもないの。母親ってそういうものよ。それに坊やが、あなたが私のためにしてくれることに不安なんて感じるはずがないわ。そうでしょ? あたしのおっぱい王子様っ!」


 おっぱい王子様。


 おっぱい大好き人間の心の琴線きんせんに触れるその新たな呼称に、Tのシンボルは著しい反応を見せた。


「はうん!」


 悦子の中のTのシンボルが鋼鉄のように硬くなり、マグマのようにたぎり出した。

 

 この女の代わりは──


 Tはそれ以上考えるのをやめた。


「ファンの皆さん、ごめんなさい。でもあたしは自分の夢を追いかけたいんです!」


 記者会見場がざわめいている。


 急速にその場に拡がる雰囲気とは逆にミマヨの顔は晴れ晴れとしていた。


 ミマヨは変わった。


 誰の目にもそれは明らかだった。


 黒い霧が晴れるように、ミマヨから、どす黒く禍々まがまがしいオーラだけが消え去り、大輪たいりんの花のような華やかさだけが残った。


 会見はネットで世界中に中継されていた。


 ミマヨに関心のある全ての人間が即席の名探偵となって思い思いに推理を働かせた、ミマヨに何が起こったのかと──


 超人気モデルのミマヨには、名声と合わせ鏡のようによからぬ噂が多々あった。


 それらはやっかみ者たちの心ない中傷ではなく全て本当だった。


 どれだけ容姿に優れていようが、コネがなかったらしょせんは女一匹、芸能界でのし上がるには、泥水ならぬ有力オヤジどもの精液をすする他に選択肢などなかった。


 その中で最大の有力オヤジが、国素元Z務事務次官だった。


 国素が連続殺害犯──Tにほふられたあと、K団連のメンバーだった盛肚(さかりばら)という有力オヤジがミマヨの最大の庇護者ひごしゃになった。


 国素が存命の間は遠慮していた分、狂ったように偏執的へんしつてきにミマヨを求めてきた。


 毎晩のように盛肚に部屋に押しかけられ抱かれながら、ミマヨはTが約束通り自分に会いに来てくれる日を信じて心待ちにしていた。


 開けっ放しのシャワールームから、ぶんけかなの『おっぱいがいっぱい』を大声で歌っている盛肚の声が聞こえてくる。


 時刻は午後十一時だった。


 ミマヨはうつろな目で天井を眺めていた。


 チラリと横に視線を移すと壁にかかったカレンダーが見えた。


 一日経つごとにチェックを入れていたので今日が五月十九日だとわかる。


 ちょうど、国素が死んでからまる一月が経っていた。


 つい先程まで、盛肚のしつこい割りにはちっとも気持ちよくない愛撫を散々受けていた。


 口の中にはまだ盛肚の体液の残滓ざんしがあった。


 吐き出す気力もなかった。


 盛肚の歌声が止んだ。


 あの人は来てくれないのかもしれない。


「次は本番をやってやる」


 国素邸でミマヨに数分間にわたって素敵な悪戯をした声の主は、去り際、確かにそう耳元で囁いた。


 セクシーな声だった。


 姿は見えずとも、その声と後ろから抱きすくめられた感触で、涼やかな顔をした、凛々しく雄々しい若者だと想像できた。


 あのときあのまま連れ去ってもらいたかった。


 やっと国素から自由になれたと思ったら、今度は盛肚だ。


 やっぱり自分はどこまでも醜いオヤジどもの玩具でいるしかないのか。


 目尻から涙がこぼれ落ち、頬を伝って枕にしみた。


 再び『おっぱいがいっぱい』が聞こえてきた。


 盛肚の声ではなかった。


 子宮に響き、母性本能を呼び覚ますような声だった。


 まさか、あの声は……! 


 がばっと跳ね起きたミマヨの眼前に、何か重いものを引きずるような音とともに歌声の主が現れた。


「オッス。約束通り会いに来たぜ、ミマヨ」


 そこには素っ裸のTがいた。


 その全てがミマヨの想像を上回っていた。


 真冬から一気に春になったように、ミマヨの顔に生気が蘇った。


「アッハーン」


 語尾にハートマークがいつまでも続くような、今まで生きてきて一度も出したことのない、ありったけのびを含んだ嬌声でミマヨは答えた。


 なぜアッハーンなのか。


 目の前の若者にはそれが一番正しい返答だと本能で思ったからだ。


 その通りだった。


 ミマヨのアッハーンに即座に反応したTのシンボルがマイク・タイソンのアッパーカットのように鋭く真上に反り返った。


「エロエロエロエロ、エロエロエロエロ……」


 高音かつ早口で、剣道の達人が竹刀しないで間合いをはかるように己がシンボルを動かしながらTはミマヨに近付いた。


 思い出したように口中に残る盛肚のけがれた体液を吐き出すや、興奮した犬のように短い間隔で息を吐き、涎を垂らし、舌を高速でレロレロさせながらベッドの上で待ち構えるミマヨ。


 蛸が獲物を一瞬で覆い尽くすように、バンカーバスターが地下の要塞に一気に突っ込むように、ミマヨの口とTのシンボルは結合した。

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