第29話

「なに笑ってるの?」


 Tの体の上で悦子がいてくる。


 天幕てんまくつきのキングサイズのベッドで全裸で抱き合う悦子とTの間に挟まれた二つの巨大な乳房、その両乳首からは絶えず母乳が垂れ流されている。


 シーツは母乳でグショグショだ。


 空気中に漂う母乳の粒子りゅうし多過おおすぎるため、寝室にはむせ返るような乳のにおいが満ちている。


「ん~、ちょっとな」


 昨日のトヨ、魔獄との3Pを思い出しただけだ。


 蚊藤殺害後、悦子は病院に運ばれ、精密検査を受けた。


 数日間の療養を経て、警察の事情聴取も終わった悦子には行くあてがなかった。


 蚊藤の母乳奴隷だった悦子は、スズメの涙ほどの手当てしかもらっていなかった。


 とりあえず、その日の宿を探そうと力ない足どりで歩いていると、見知らぬ青年に立ち塞がれた。


「オレだよ、ママ」


 その声には聞き覚えがあった。


 まぎれもなくそれはTの声だった。


「あ、あなた……坊や、なの……? でも、その顔は……?」


「カムフラージュだよ。ほら」


 青年は右手で顔を上から下へ一撫ひとなでした。


「……!」


 そこには美しく邪気じゃきのないTの顔があった。

 

 一体……? 


「おっと、そう驚かないで。悪いけどさっきの顔に戻すよ」


 もう一度、顔を一撫でした。


 声だけTの、さっきの知らない顔に戻った。


「警察でいろいろ大変だったろ。ママには行くとこがないってわかってたから、迎えに来たよ」


 その言葉を聞いて不覚にも涙が出た。


「ふぐっ、ううっ」


「泣かないで、ママ。いや、泣いていいよ。好きなだけ泣きなよ。でもオレが泣かしてるように見えたら注目浴びてマズいかも」


 悦子はTの胸に顔を押しつけて泣いた。


「ほんとは胸にぐりぐり顔を埋めて泣くのはオレの役目なんだぜ?」


 耳元でそうささやかれて、今度は体の内側が急速に熱を帯びてくるのがわかった。


「悦子! おまえはオレのものだ! どこにも逃がさないぜ? おまえをママと呼ぶか悦子と呼ぶかはそのときの気分でオレの自由だ。わかったな?」


 しびれるような歓喜に、悦子は全身を包まれた。


「マァマァ~、ぼく早くママのおっぱい飲みたいでちゅう」


 急速に乳が張ってきた。


「オラッ、さっさと歩け乳ブタッ!」


 ゾクゾクするような恍惚感に襲われた。


 人格の豹変を繰り返すTに言葉でなぶられながらも、ぴったりとしがみつくようにTに寄り添って少し行った先に、パーキングメーターで停まっているレクサスがあった。


「オラッ、さっさと乗れっ!」


 運転中もTは悦子を言葉で翻弄ほんろうし続けた。


「メチャクチャにしてやるからな、覚悟しとけよこの乳ブタッ」


 あああ……


「マァマァ~、ぼくのこと、いっぱいいっぱい可愛がってね?」


 あうう……


 三十分後、着いたのは杉並区にある高級マンションだった。


 リモコンでシャッターゲートを上げ、地下駐車場に入って行く。


 車から降りたとき、悦子の座っていたシートを見たTが言った。


「こりゃあ、紙オムツしとくべきだったかぁ?」


 地下からはエレベーターで一階エントランスまで行く。


 エントランスに入ると、澄ました顔のコンシェルジュのいるフロントを素通りしてエレベーターまで行き、エレベーターが来るのを待って乗り込む。


 全てテンキー入力が必要だった。


「坊や、あなた、こんなとこに住んでいるなんて凄いのね。お金持ちなのね」


 二人っきりのエレベーター内で悦子がTにしなだれかかったまま、あえぐように言う。


「まぁ、ね。オレ、今年の一月に日本に帰ってきたんだけど、その前の三年間、海外で荒稼ぎしたのよ」


「荒稼ぎ、したのね」


「どんな仕事か大体想像つくだろ?」


「なんでもいいわ。あたし、あなたの仕事なんか気にしないわ」


「悦子~っ! おまえのそういうとこが好きだぜ。ほらぁ。オレの息子がビンビンになってるぜぇ」


「凄い……! ああ、早く欲しいわぁ……! でもあたしのおっぱいもちゃんと飲んでくれなきゃイヤよぉ!」


「当たり前だよぉ、マァマァ~。おっぱいが先だからね? ママのおっぱい飲みながら、ママのおてて・・・でシュッシュしてもらって、白いおしっこピュッピュするんだからね? ママを死ぬほど泣かせて、死ぬほどヒィヒィ言わせるのはその後あとだからね?」


「おお、おおお!」


 来る途中、車の中で何度もそうなったように、またもやTの言葉だけで悦子は軽く達してしまった。


「悦子! この乳ブタが。スケベだなぁ~っ、ほんとおまえは」


 聞いていられないような馬鹿馬鹿しくも恥ずかしいイチャラブトークを交わしながら、ようやく辿たどり着いたTの部屋というヴァーラスキャールヴで、悦子はアグニ神の火矢の直撃を受けて火達磨になるように煩悩の炎で身を焼き尽くされたあと、ニルヴァーナを味わったのだった。


 シャワールームで何度もTにイかされた、あの日以来のニルヴァーナだった。


 死んだようにぐったりとしながらも満足気な表情を浮かべる悦子に向かって、おまえは一生オレの母乳奴隷兼ママとして生きていくのだ、とTはおごそかに言い放った。

 

 そう言ったほうが、次から悦子がより燃え上がると思ったからだ。


 悦子はTと暮らすことになった。


 初恋を知ったばかりの少女のように悦子は狂喜していた。


 まさにTの思惑通りだった。


 Tが歴代Z務事務次官を絶賛殺害中にもかかわらずわざわざ時間をいて悦子をマンションに連れ帰ったのは、気まぐれとしか説明がつかなかった。


 Tが助けずとも、悦子ほどの上玉なら、寮付きの母乳風俗店で働けば簡単に売れっ子になれるのだ。


 悦子以外の女たちについては、悦子と違って生活に困窮こんきゅうしているはずもなかったので放置していた。


 悦子がTに選ばれたのは、ただただ運だった。


 しょせん世の中そんなものだ。


 三年前、Tは海外に旅立ったが、その最初の行き先は南アフリカだった──とは以前書いた。


 なぜ南アフリカか。


 単純に力試しがしたかっただけだ。


 Tの思考レベルは少年ジャンプで止まっていた。


 それも三十数年前の一冊百七十円だった頃のジャンプだ。


 強くなった自分を確かめたかったのだ。


 スーパーサイヤ人のように本能が強敵との邂逅かいこうを求めていた。


 マス大山の『世界ケンカ旅行』を読んだ少年の日のときめきを思い出してもいた。


 それには世界中の危険地帯や紛争地域を巡るのが一番だと思った。


 そんな旅だ、ケンカどころか確実に何人も殺すことになるのはわかっていたが、向かいのキチガイ一家を皆殺しにして、とっくに人間とは決別していたTに躊躇はなかった。


 南アフリカの首都ヨハネスブルグは治安の悪さで有名だった。


 バスに乗ったら常客が全員強盗だったとか、信じられないような都市伝説がいくつもあった。


 そこから始めるのがウォーミングアップにはちょうどいいと考えたのだ。


 飛行機の貨物室に透明になって入り込むという手も考えたが、はっきり日本を出国した形を残しておいたほうが両親にも迷惑がかからないと思ったので、普通に出国することにした。


 セントレア──中部国際空港のトイレに入り、出たときは本当の体格に戻していた。


 パスポートを使う都合上、顔だけは写真に合わせて擬態していた。


 英語──言語については、体を変化させる訓練とともに勉強し直していた。


 やはり、と言うべきか、記憶力、理解力も人間離れしたレベルになっていた。


 一度覚えたことは二度と忘れることはなかった。


 急いではいなかったが、二十日ほどで読み、書き、会話を完璧に習得した。


 日本を出るまでには、ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、ロシア語まで習得していた。


 入国を済ませた後は、本当の顔に戻し、パスポートを提示するような場面でのみ、パスポートの写真の顔に擬態することにした。


 南アの恐怖の都市伝説は、Tには通用しなかった。


 バスに乗ったら常客が全員強盗だったので全員ぶちのめした。


 郊外に出ると野宿をしながら北へ向かった。


 国境を超えるまでの間に一万人以上の者がTに半死半生はんしはんしょうにされた。


 政府高官が後を追って来て、頼むからこの国にとどまってくれと懇願こんがんされたが固辞した。

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