第27話

 一晩経っても表の機動隊には一向に去る気配がなかった。


 午前九時になったとき、その前に一台の黒塗りの車が停まった。


 後部ドアが開き、匂い立つような麗人れいじんが降り立った。


 真っ黒い綿飴のような髪型をした、百八十センチを超える長身の女だった。


 厚いシルバーのコートの上からでもはっきりと、くっきりと巨大な乳と尻の張り具合がわかる。


 女は魔獄の事務所の前に居並ぶ機動隊に向かって近づいてくる。


 女の歩みに合わせてその体からみしみしと肉のきしむ音が聞こえてきそうだった。


 植物の成長の早回しのように機動隊員たちの股間が盛り上がり始めた。


 金的カップに押さえ込まれたシンボルが急膨張した全隊員の顔が苦痛に歪む。


 女は機動隊員たちの目の前まで来た。


 女の正面に立つ幸運な隊員の厚い胸板に、中身がぎっしり詰まった張りのある彼女の胸が押し付けられた。


 ほのかに漂うミルク臭。


 かあぁぁぁぁあっ! た、堪らん……! うひっ、うひっ、うひひひゃほーっほほーっ! 


 幸運な隊員は迷わず射精した。


 こっ、この野郎~っ! 


 絶頂隊員を除く隊員は全員、歯軋はぎしりをして悔しがった。


 全員から明確な殺意の炎が沸き立っていた。


 幸運な隊員はこのあと地獄を見ることになる。


 嫉妬に狂った隊員たちにいじめの対象にされ、早期退職を余儀なくされることになる。


「道を空けてくださらない?」


 小隊長が猛牛のように駆け寄ってきた。


 勢いで女に飛びかかりそうになるのをその寸前で辛うじて堪えた。


「あなたは……?」


「魔獄の知り合いよ」


 数センチの距離で正面の隊員を見つめたままで答える。


 この時点では最高に幸運な隊員は腰をカクカクさせながら鼻息を荒くし明らかに挙動がおかしくなっていた。


「馬鹿者っ! 下がれっ!」


 小隊長は列を組む機動隊の後ろに回り込むや、カクつく隊員の襟首えりくびを背後から掴み引き倒した。


「失礼しました。どうぞお通りください」


「ありがと」


 にっこりと微笑むと、金的カップを押し上げている全隊員をあとに、ブリン! ブリン! と音が聞こえるように豊かな尻を振りながら事務所に向かって行く。


「トヨッ! 待ってたぜ!」


 ドアが開くや魔獄が顔を出して叫んだ。


「悟空ちゃん、おはよう。待ったぁ?」


「待った待った、おめえがなかなか来ねえからやきもきしてたぜ。外は寒いだろう、さ、早く入れ」


 トヨの肩に手を回し、ドアに向かう。


「あいつらおまえに変なことしなかったか?」


「あたしの正面に立ってた隊員がね、あたしのおっぱいが当たってるのにどかないのよ~。失礼しちゃうわ。まだ倒れてる? あいつよ」


「なにぃ~っ!」


 それを聞くや魔獄は弾丸のように機動隊に突進して行った。


「会長っ!」


 組員たちも事務所から次々と飛び出して行く。


 トヨの魅力に酔っ払ったようになっていた機動隊員たちは、突っ込んで来る魔獄への反応が遅れた。


 ヘラつきながら起き上がった幸運な隊員の幸運はここまでだった。


 未練がましくトヨの姿を求めて振り返ったところへ怒り狂った魔獄の体当たりをもろに食らった。


「ほげぇっ!」


「俺の女に触りやがって! ぶっ殺すぞこの野郎!」


 岩のような拳でヘルメットの上からぶん殴る、ぶん殴る、ぶん殴る。


 組員たちが追いついたとき、ついさっきまで幸運の絶頂にいて射精までした隊員は、魔獄の嵐のような連続殴打による衝撃で脳を揺らされとっくにその意識は飛んでいた。


 他の隊員たちは見ているだけだった。むしろ心の中では魔獄を応援していた。


「もういい、止めさせろ」


 五分ほど経ち、殴られている隊員の手足が痙攣し出したのを見届けてから、小隊長は他の隊員に命令した。


「会長に何をするっ!」


 組員たちと隊員たちが揉み合いになった。


 さすが機動隊員だけあって、数では劣るも難なく組員たちを制圧したが、魔獄を取り押さえるのは一苦労だった。


 数人がかりで両腕、両脚、腰にすがりつき押さえつけ、なんとか収拾したのだった。


 魔獄にボコボコにされた隊員は救急車で運ばれて行った。


 殴られた原因が原因だったので、魔獄は不問に付された。


「愛じ……彼女さんに失礼な真似をしたのはこっちが悪かったから。それは認めるから。あなたもあいつをあれだけボコボコにして気は済んだでしょ。問題にはしないから。もう勘弁してよ」


 小隊長に諄諄じゅんじゅんさとされ、ようやく魔獄はほこを収めたのだった。


 機動隊に向かって大声で散々毒づきながら事務所に戻って行った。


 ドアを閉める瞬間まで大声で毒づいていた。


 うんざりした顔で聞いていた隊員全員が思った、早く家に帰りたいと。ヤクザなんざ一人残らずくだんの犯人にぶち殺されてしまえと。


 そんな騒ぎがあった一時間後、今度は奇妙な風体ふうていの男が機動隊の前に現れた。


 側・後頭部を短く刈り上げたオールバック。


 イタリアンマスチフのようなたるんだ顔をしていて年の頃は五十代から六十代前半くらいか。


 この寒空にもかかわらず白のランニングシャツに黄土色の半ズボン、素足に下駄を履いていて、身長は約百七十センチ、体重は優に百二十キロを超えるような肥満体だった。


 晴天にもかかわらず黒い雨傘をさしている点も不審だった。


 カランコロンと下駄を鳴らしながら近づいてくる。


 野太のぶとい声でうなるように何かの歌を口ずさんでいる。


 大相撲解説の北の富士に似た声だが、それよりやや低音、独特の節回ふしまわしで、詩吟しぎんのような、民謡のような……小隊長だけ、それが何の歌かわかった。


 それは『海行うみゆかば』だった。


 太平洋戦争時、デタラメの見本のような大本営のラジオ放送で、激戦中の日本軍の玉砕ぎょくさいを伝える際に必ず冒頭で流されたことで有名な曲である。


 信時潔のぶとききよしが作曲した、現代においても軍歌なのか鎮魂歌なのかで評価の割れる、人を選ぶこの曲をこの男が歌うと、まるで未開の部族の呪いの歌のようであった。


 なんだこのデブは? 


「ああ、ちょっと、あなたあなた。ちょっと止まりなさい」


 どう見ても頭のおかしいデブだったが、警戒している場所が場所なだけに、小隊長は自分たちと男との距離が五メートルまで縮まったとき、声をかけた。


「なんでありますか?」


 ありますかって……なんだこの口調は? 


「あなた名前は?」


「名前でありますか。サト坊だじょーであります」


 サト坊? だじょー? 舐めてんのかこいつ……


「あなたねぇ……あなたここに何か用事でもあるの? ここヤクザの事務所だよ? わかってる? こんないい天気なのに傘なんかさして大丈夫?」


 隊員たちの顔には侮蔑ぶべつの色が浮かんでいた。


 凍死しそうな冷たい視線に晒されながらも、平気の平左へいざでサト坊は続ける。


「わたくしのお母さんは昔わたくしにこう言いました。サト坊や、おまえはお金がなくて食うものがなくて困ったら、映画を作ると言って親切な人から寄付金をもらいなさい。またお金が足りなくなったら政党を作ると言って寄付金をもらいなさい。そうやって親切な人から寄付金をもらって、そのお金でおにぎりを買って食いなさいと言いました。終わり」


「勝手に終わってはいかん!」


 小隊長の語気が鋭くなった。


「映画? 政党? 寄付金? なにを言っとるんだあなたは」


「我々は、オナホの国のシフォン主義を希求するのであります。TPP断固反対、亜婆政権断固支持! であります。種子法廃止断固反対、亜婆政権断固支持! であります。水道民営化断固反対、亜婆政権断固支持! であります。移民推進断固反対、亜婆政権断固支持! であります。法人税減税断固反対、亜婆政権断固支持! であります。消費税増税断固反対、亜婆政権断固支持! であります。道州制断固反対、亜婆政権断固支持! であります。グローバリズム断固反対、亜婆政権断固支持! であります。反対の支持なのであります。全てはディープステートの陰謀なのであります。妄想勃起!」


 小隊長以下、完全に呆れ顔になっている。


「もういいから。我々は仕事してるの。あなたの相手してる暇ないから。さっさとここから立ち去りなさい。ほらあっち行って。しっしっ」


 サト坊の顔に向けて追い払うように手を振った。


「無礼者っ!」


 その場にいた全員が腰を抜かすような大音声だいおんじょうだった。

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