第22話

「これはこれはTの兄貴っ。ようこそおいでくださいました。ささ、どうぞこちらへ」


「いよぉ~っ、ヤスぅ。調子はどうだ?」


「へへっ、相変わらずで」


 何が相変わらずなのか全くわからなかったが、それ以上訊ねることなく奥の部屋へと進む。


 Tが魔獄(まごく)会を訪ねる度に、必ずこのヤスが最初に応対するのだった。


 Tにしてみれば盆栽に声をかけているのと同じ感覚だった。


 本気でヤスとかいう組員の調子を聞く気などなく、このヤスとかいう組員が普段何をしているかなど一ミクロンも知りたくなかった。


 周りが勝手にヤスがTに気に入られていると判断しているのだった。


 魔獄会──練馬区にある組員五十人足らずの弱小暴力団だ。


 応接室のドアを開ける。


「いよぉ~っ、おやっさん」


「おおっ、Tじゃねえか。久しぶりだな。よく来た、まぁ座れ」


 成金趣味丸出しの悪趣味な部屋だった。


 わけのわからん壺、わけのわからん絵、わけのわからん額縁に入ったわけのわからん文、わけのわかるものは一つもなかった。


 魔獄悟空──それが、おやっさんの名前だ。


 Tと魔獄が知り合ったのは全くの偶然だった。


 一月に帰国したTは、ある小雪の散らつく晩に屋台で一杯やっていた。


 そこに小型戦車のような体型をした、デッキブラシのような角刈り頭の、刷毛はけのような口髭くちひげをたくわえた偉丈夫いじょうぶが入ってきた。


 外にはお供の者が一人、周囲を厳しい視線で見張っていた。


 口髭の顔を見た屋台の親父が姿勢を正すのがわかった。


「オヤジ、今夜は冷えるな」


 白い息を吐きながら口髭が言う。


「今日は何にいたしやしょう」


「適当に見繕みつくろってくれや」


「へい」


 口髭はちらと隣に座るTに目をくれた。その目が大きく開く。


「おおっ、兄ちゃん、えらいイケメンだな。こんな寒い夜にこんなとこで彼女と待ち合わせか?」


「いんや。彼女はいないよ」


 口髭は全く気にしていないようだったが、お供の男はキッとTを睨んだ。


「彼女いないの? そんなにイケメンなのに? ひょっとしてゲイかなんかか?」


 無邪気にかなり無礼なことを聞いてきたが、Tも気にしなかった。


「いやオレ、つい数日前に日本に帰ってきたばかりなんで」


「あっ、そうなの?」


 口髭は軽口を叩きながらも、Tの一見優男風やさおとこふうでいながらよく見ればがっしりした体躯たいく、何かただならぬ雰囲気を漂わすその風貌に強く興味を持ったようだった。


「俺ここいらじゃちょいとした顔なんだけどさ、きみよかったら今度うちの事務所に遊びに来いよ」


「いいよ。気が向いたらね」


 じゃあ、と口髭が懐から名刺を取り出そうとしたとき、屋台の前に黒塗りの車が停まり、四人の男たちが飛び出してきた。


「なんだてめえらっ! 会長っ!」


 男たちの一人はお供に向かって、残り三人はTがいるのも構わず暖簾のれんの向こうの口髭に銃口を向けた。


「死ねやあぁぁぁあ!」


 屋台の暖簾がフワッと動いた次の瞬間、そいつらは雪の上に倒れていた。


 そのそばに後ろ姿のTが立っていた。


 Tの席にはガラスコップの下に挟まれた五千円札があった。


「つりは要らねえよ」


 呆気にとられている口髭とお供をあとにTは立ち去る。


「まっ、待ってくれ! おいちょっと待ってくれ!」


 無言で振り向くT。


「め、名刺! 名刺!」


 サリバン先生に「水」を連呼するヘレン・ケラーのように「名刺」と叫ぶ口髭。


 お供の男も先程とは打って変わって世紀末救世主を見るような眼差しをTに向けている。


 それが魔獄とヤスだった。言うまでもなくそこは魔獄の縄張りだった。


 次の日の午後四時過ぎにTが魔獄会を訪れると、事情を知らない組員が応対した。


「こんちは。魔獄さんに会いに来たんだけど」


「なんだぁ、てめえは?」


「おいら怪しいもんじゃないよ。おいらTってんだ」


 そう言えば空気がやわらぐと思った。


「ああ? Tだぁ? ふざけてんのかてめえ」


 この組員には通じなかった。


「魔獄さんいねえのか? いねえなら帰るよ。邪魔したな」


 優雅に身をひるがえした。


「ちょっと待てコラ。てめどこのもんだ?」


 答えず颯爽さっそうと歩いて行く。


「おい待てコラァ! どこのもんだって聞いてるんだよ!」


 喚いた男に加えて五人が事務所から飛び出し追いかけてきた。


 待てコラ野郎はTの左肩を掴んだと思うや十メートルは離れた背後の壁に叩きつけられていた。


 Tの後ろ蹴りだった。


 全く見えなかった。


 後から来た五人も順番に事務所の壁まで吹っ飛ばされた。


「なんだぁ!」


「かち込みかぁ!」


 さらに三人飛び出してきた。


「どうしたぁ! なんの……あっ、兄貴っ!」


 Tの片耳がピクッと動き、振り向いた。


 三人のうちの一人がヤスだった。


「てめえらっ! 兄貴になんて真似してくれたんだ! この馬鹿野郎どもがっ!」


「は? 兄貴?」


「馬鹿野郎っ!」


「ぶべらっ!」


 頭を振りながらようやく起き上がった、待てコラ野郎がヤスに殴り倒された。


「このお方だよっ! 昨夜ゆうべ俺と会長を救ってくださったのはぁ!」


「ええぇぇ~っ!」


 ヤス以下全員がTの前にスライディングのように土下座する。


「し、知らぬこととは言え、とんだご無礼を……! どうかっ、どうか勘弁してくださいぃぃいっ!」


 待てコラ野郎が雪でぬかるんだ地面に額をこすり付けて謝罪する。


 抑留よくりゅうした不審者が警察庁の実力者の弟だと知った木っ端刑事のように鮮やかな手のひら返しだった。


 本当にこういうのやるんだな……


 そう思いながらTは冷ややかに眺めていた。


「馬鹿野郎っ! てめえらさっさと指詰めてこいっ! 兄貴、どうかそれでご勘弁を……」


「いや、そんなんしなくていいから」


「いや、兄貴がそうおっしゃってもそういうわけには……これもケジメですんで…」


「ほんとそういうのいいから。それほんとにやるんだったらオレ帰るよ」


「そこまで仰るのなら……わかりました。おいっ! おまえらっ、兄貴に感謝申し上げろっ!」


「あっ、兄貴ぃ~っ! ありがとうございますっ! 本当にありがとうございますっ!」


 聞いたような言い回しのオンパレード。


 どこぞの軍事委員長の誕生日を泣きながら祝うどこぞの市民たちを見るような鬱陶うっとうしさ。


 これ以上こんな茶番に一秒も付き合う気はなかった。


「で、魔獄さんいるの?」


 ヤスの顔が何かを思い出したようにハッとする。


「それが、会長は今……」


 ヤスがそう言いかけたとき、一同の前で黒塗りの車が止まり、後部座席のドアから魔獄が降りてきた。


 女連れだった。


 並外れて大柄な女だった。


「おっ、おめえは……お兄さん、来てくれたのかい!」


「こんちは」


「そうかいそうかい来てくれたのかい! 嬉しいぜぇ~っ! ……ん? なんだおまえら。揃ってなにやってんだ?」


 苦々しい顔でヤスが答える。


「実はちょいとした行き違いがありまして……」


「なにぃ~っ!」


 たちまち魔獄のこめかみに太い青筋が浮かぶ。


「あ、あっしが悪いんでさぁ! あっしがこのお方を怪しい野郎と勘違いして……はべらっ!」


 待てコラ野郎が魔獄に殴り倒された。


「てっ、てめえらっ! 俺の命の恩人になんてことしてくれやがったんだぁ!」


 まるでフィルムを巻き戻したような既視感。


 いや、気のせいではない。


 確実にさっき見た光景が繰り返されようとしていた。


 ……オレは精神的な拷問を受けているのか? 


 冗談抜きで劇団・魔獄会の三文芝居さんもんしばいにうんざりしていた。


「魔獄さん、オレ、今日んとこは帰るわ。じゃ」


「ちょちょちょちょっと待ってくれ! おい、おまえらお引き留めしねえかっ!」


「へいっ!」


 組員たちが四つん這いのままでTの行く手をさえぎる。


「兄貴いっ! 会長が、ああして仰ってらっしゃいますんで、ここはどうかっ! どうかよしなにっ!」


「…………」


 面倒臭めんどくさいんでTは魔獄の歓待に応じることにした。


 それにしても昨夜どこかの組織の襲撃を受けたばかりだというのに、たった今、ボディガードは運転手だけで女とどこかから帰ってきたところを見ると、魔獄も相当な玉というか、それとも危機感ゼロの馬鹿なのか、Tには判別に苦しむところだった。


 いや、考えるまでもなく後者だろう。


「昨日の今日で来てくれるとは思わなかったからよ、ほんとに嬉しいよ」


「悟空ちゃん、こちら、どなたぁ?」


 魔獄の連れの女だ。


 魔獄より十五センチは背が高い。


 ヒールは履いていない。


 百八十五センチはある。


 真っ黒な綿飴わたあめのような髪型。


 男装が似合いそうな美しい顔立ち。


 白磁はくじのようになめらかな肌の悩殺的な肉体。


 ぴったりと張り付くラメ入りの真っ赤なミニスカドレスから半分はみ出たバレーボールのような二つの胸。


 Tの嗅覚きゅうかくは車のドアが開いたときから強烈な母乳臭をぎとっていた。


「こいつは俺のレコでトヨだ」


 トヨの乳房に突き刺すような視線を向けているTに紹介する。


 Tは視線をトヨの顔に向ける。


 トヨの顔がポッと赤くなる。

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