第20話

「おかえり」


 玄関に六十六歳になる母親が出てきた。


 この年老いた小さな母を見る度にTの精神は二つに引き裂かれる。


 心の底から軽蔑し憎む一方、頭の中では島津亜矢の『感謝状~母へのメッセージ~』が流れ、居たたまれない気持ちになる。


 二律背反にりつはいはん、発狂寸前の毎日。


「ただいま」


「朝御飯できてるよ」


「その前に風呂入るわ」


 二十四時間着っ放しだった制服を洗濯かごに押し込み全裸になると浴室に入った。


 頭からシャワーを浴び、熱い湯の張った浴槽にかる。


 狭いので膝を折り曲げ全身を湯に沈める。


 鼻から大きく息を吸い、口から長く吐き出した。


 あ~っ、このまま消えてしまいてぇ~……


 その気持ちに嘘はなかった。


 しばらく目をつむっていた。


 目を開くと当然自分の下半身が視界に入る──はずだった。


 なっ、なんだとぉ~っ! 


 視線の先にあるのは浴槽の壁だけだった。


「オレの両腕も胴体も何もかも見えなかった。だがオレの体が存在していることは感覚でわかった。見えない手で見えない自分の体を触れたしな。とんでもなく妙な感覚だった。風景は見えてるけど、ある意味目を瞑ってるみたいな。オレは立ち上がり浴槽から出て風呂場の壁についてる等身大の鏡を見たんだ。そしたら、やっぱり何も写ってないんだよ、オレの姿は。あせったね。パニックになったよ。どうなってんだって。なんで見えねえんだって。 やったー! 女湯覗きに行けるぜぇー! なんてそのときは思いもしなかったな」


 岐阜の山小屋だったらそこまで焦ることはなかったかもしれない。


 実際は実家で両親と暮らしている身には死活問題だった。


 彼らがこんなTを見ればショック死するのは間違いなかった。


 死に物狂いで念じた。


 元に戻れ、元に戻れと。


 すると何もない空間にだんだん肌の色が浮かんできた。


 数分後には全身が鏡に映っていた。


「助かったー、と心から思ったよ。まぁ、そのあと色々あってだな、今のオレに至っているわけだよ」


「なにそれ、端折はしょり過ぎぃ~。消える以外の技はどうやって身に付けたのぉ?」


「まず風呂場で自分が消えたことが幻覚じゃなかったかどうか確認しようと思って、おっかなびっくりまた念じてみたんだよ、消えろ、消えろって。そしたらやっぱりできたんだよ、消えることが。当然そのあと元に戻ることもな。それで自分の意思で肉体を変化させることができるって確信できた。あとは意思の力でどこまで体を変化させられるか実験を繰り返したってわけだ」


 自由に姿を消したり現したりできると知ったときから、Tの中である決意が芽生めばえた。


 もっと多くの能力が必要だった。


 そのための実験ゆえに真剣そのものだった。


 毎日、時間があれば実験を繰り返した。


 消えろと念じて体が消えたように、若返れ、若返れと強く念じると、数分かかったが確かに見た目が若くなった。


 鏡に映るその姿はどう見ても二十歳だった。


 躍り上がるほど嬉しかったが、ここで実験を終わるわけにはいかない。


 元の姿をイメージすると先程と同じくらいの時間で元に戻った。


 手足も同様に伸ばしたり戻したりできた。


 指紋や掌紋も消すことができた。


 髪も皮膚の変化したもの、ならばこれはできるかと試したら、思った通り豊髪からスキンヘッドに変化させることもできた。


 当然に体中の体毛も皮膚化でき、全身脱毛をしたようにつるつるの無毛状態になれた。


 手足の皮膚を極薄の手袋のように脱皮することもできた。


 もっと大がかりなことも試してみた。


 極薄の着ぐるみを脱ぐように、さなぎから蝶が羽化するように背中から全身の脱皮もできた。


 脱皮した皮膚はオブラートのように軽く薄かったが、普通の力では破れない強度があり、三十分はしっかりとそのままで残るのでまとめて食べることができた。


 それらの実験は全てある目的のために必要な能力だった。


 実験を人知れず繰り返す日々。


 日が経つに連れ普段の肉体も若返ってきた。


 髪の毛が高校生の頃のようにふさふさに戻った。


 皮膚が綺麗になり、顔の贅肉ぜいにくが自然に削げ落ち、別人のようにはっきりした目鼻立ちになった。


 顔のサイズも一回り小さくなった。


 手足まで伸びてきた。


 反対に胴は短くなった。


 Tは自分以外の者の前では以前と変わらぬ姿に〝擬態ぎたい〟していた。


 隕石直撃から三ヶ月経ったとき、擬態していないときのTの身長は百八十センチを超え、ミマヨに話した能力は全て身につけていた。


 変化するまでにかかる時間は気分次第、本気を出せばほとんどは一瞬で、かかっても数秒で変化できるようになっていた。


 満を持してTはある計画をを実行することにした。


 言うまでもなく向かいのキチガイ一家の殺害だ。


 間違いなく完全犯罪が約束されていた。


 決行日はいつでもよかった。


「!?」


 ミマヨの中に入っているTのシンボルが熱を帯び激しく脈打ち出し、あっという間にすりこぎの太さに膨張し怒張してきた。


「あっ、ああっ、そんなっ、いきなりぃっ!」


 キチガイ一家のゴリラ親父、クソ馬鹿息子、イカれババアを三匹まとめてぶち殺したときの情景を思い浮かべる度、全身を駆け巡る恍惚感でTは感電したようになる。


 ……あのときオレは人間と決別したんだ。あれでオレは自分が何になってしまったかを知ったんだ……


 十一月のなかばになっていた。


 午後五時、日が暮れかけた頃、造園業のゴリラ親父とクソ馬鹿息子が軽トラで帰ってきた。 


 非番で家にいたTは即座に行動に移った。


 起こすなとドアに張り紙をし、内から鍵をかけ姿を消して自室の窓から外に出た。


 キチガイ親子が家に入るときすべり込むように一緒に入った。


 気づかれないように施錠し、チェーンをかけた。


 目の前を歩いていたゴリラ親父の肩を掴むとこっちを向かせた。


「?」


 不可解そのものといった表情の顔が見えた。


 その小兵力士のような太鼓腹の鳩尾みぞおちに右拳でボディーブローを叩き込む。


「ウゴーッ!」


 ゴリラ親父は悶絶し床に崩れ落ちた。


 殺してしまわないように手加減したつもりだが、水牛が手加減して角で突いたようなものだった。


 ゴリラ親父の前にいたクソ馬鹿息子が振り向き驚愕の表情をした。


「親父っ、どうしたんだよ?」


 その横っ面を左手で張る。


「ぶべらっ!」


 クソ馬鹿息子は居間の壁に激突した。


 ひぐまが手加減して張ったようなものだった。


 悲鳴をあげそうになったイカれババアめがけて抱え込むように飛びかかり右足で膝蹴りを決める。


「グエッ!」


 イカれババアは腹を抱えるようにして顔から床に落ちた。


 ペルシュロンが手加減して蹴ったようなものだった。


 三匹の服を剥ぎ全裸にして、キッチンにあった木製の椅子に座らせ縛りつけ猿轡さるぐつわを噛ませ、Tの正面にクソ馬鹿息子、右側にゴリラ親父、左側にイカれババアと、俯瞰ふかんしたとき二等辺三角形になるように向かい合わせた。


 消していた姿を現した。


 このときのTは三匹と同じく全裸で、後々のことを考えて、指紋や掌紋を消すのはもちろん頭髪含め全身の体毛を皮膚化していたのでまるでマネキンのようであった。


 これで現場に毛髪一つ残りはしない。


「よぉ、お三方。オレが誰だかわかるか?」


「ウガーッ」


 ゴリラ親父が体を揺すりながら拘束を解こうと暴れだした。


「黙れ」


 Tの左回し蹴りがその顔面に入る。椅子ごと背後の壁まですっ飛ぶ。


「手間かけさせんじゃねえ」


 Tはひっくり返っているゴリラ親父の椅子の背もたれを片手で掴むと軽々と持ち上げ元の場所まで運ぶ。


 荒く息を吐いているゴリラ親父の顔の中央は鼻骨が折れて陥没していた。


「もう一回聞くぞ。オレが誰だかわかるか?」


 ぐったりしているゴリラ親父と違い激しく首を振るクソ馬鹿息子とイカれババア。


 やがて二人揃って誰かを思い出したらしく、しかしそんなまさか、といった顔をミーアキャットのように同時にするのだった。


「気づいたか。いややっぱ無理か。信じようが信じまいがどうでもいいが……」


 Tは名乗った。


 猿轡を噛ませているそれぞれの口から驚愕の叫び声が漏れ出すや、Tの張り手で瞬時に黙らされた。

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