第18話
約四年前──当時四十三歳だったTは静岡県西部のH市にある、自動車の精密部品を製造している工場専属の警備員として働いていた。
もう一人の警備員と一日おきに交代する一勤一休で年末年始も関係なかった。
まだTの両親が生きていて一緒に実家で暮らしていた。
二十二年前に両親が購入した家だった。
越して来てすぐにわかったことだが、向かいにキチガイ一家が住んでいた。
そこの馬鹿息子(当初十歳)が最悪だった。
とにかく騒音を立てる。
通りを挟んだそいつの家の壁に向かって野球のボールをぶつける。
その音が耳に
だけならまだしも、そのボールがTの家の敷地に飛び込んでくる。
父親の車に当たる。
その馬鹿ガキの父親は造園業者で背は高くないが筋骨隆々で近所でもコワモテで通っているようだったから、十八歳だったTはガキを
Tの両親は小心で人並みの勇気など持ち合わせていなかったから、見て見ぬふりをしてガキを放置していた。
いつもそんなだったから、気が休まるときがなかった。
一度言葉で言うのでなく、ただ喚くという感じではあったがTはガキを怒鳴りつけた。
ガキはそのときはすぐ家に引っ込んだが、また次の日になると何食わぬ顔をして壁当てを再開するのだった。
ガキの母親もキンキン声でやたら家の外で声を出す頭のおかしい女で、はた迷惑だった。
そしてとにかくガキに甘く、全く叱ることがないようだった。
まさしくキチガイ一家だった。
Tたちは
運が悪いとしか言いようがなかった。
呪われているとしか思えなかった。
そんな家はさっさと出て一人暮らしすれば済む話だったかもしれない、だがTには弱っちい両親を見捨てるような気がしてできなかった。
そうやってずるずる住んでいるうちにTの頭髪は徐々に薄くなっていった。
十年近く経ったとき、ガキは車に乗るようになり、そうすると今度は馬鹿でかい音でカーステレオをかけるようになった。
それも深夜にやるようになった。
普通の家なら寝静まっている頃にどこからか帰ってきてやるのだ。
毎晩だった。
眠っていてもその音で目が覚める。
その度に怒りで頭に血が上る。
本気で殺してやりたいと何度も何度も思った。
だが両親が揉め事を極端に怖れるタイプだったので必死で我慢した。
自分が殺人を犯したら両親が悲しむと思い歯を食いしばって耐えた。
そんな精神状態だったので職も転々として落ち着かなかった。
Tが二十七歳のときついにキレて、ガキ──もう大人になっていたが──の家に怒鳴り込んだ。
夕方だったのでまだ馬鹿息子の父親は帰っていなかった。
そのときはでかい音を出すのはやめるようなことをヘラヘラした口調で言っていたが、次の日わざとらしく数秒カーステの音を立てたのだった。
窓から覗くと馬鹿息子の母親が笑いながらたしなめているのが見えた。
こいつらは殺すしかないと思った。
それから何年か毎にTはキチガイ一家と揉めた。
その度に馬鹿息子の父親と掴み合いになった。
年齢的には大人でも馬鹿息子はいつもゴリラ親父に助けてもらうのだった。
二人がかりで来ることもあった。
卑怯とか男らしさとか考えることもないようだった。
ガキのときに矯正しないとこうなるという見本のような奴だった。
その頃はもうゴツいからといって馬鹿息子の父親にビビることはなかった。
むしろ見た目と違い小心だと二度目の衝突あたりからわかっていた。
腕力だけはさすがにかなりのものだったが。
だからTも
一度は警察
そのときはTも馬鹿息子の父親も血まみれになった。
警察はTたちに同情気味で、かなりキチガイ一家をたしなめてくれたらしく、それ以来かなり状況は改善した。
馬鹿息子は生意気にも一度結婚していたが、数年で離婚したようだった。
Tがキチガイ一家と揉めるのを両親は極端に嫌がった。
Tに向かって怒りさえするのだった。
平和主義者という名の敗北主義者。
Tが逮捕されたとき村西たちに告白した話の通り、Tの両親は確かにどこか狂っていた。
我が親ながらTは情けなかった。
だからTは決めた。
向かいのキチガイ一家は必ず殺す。
ただしTの両親が死んでからだ。
ただ一人いた妹はそんな家に嫌気がさしたのか、十年前にインドへ一人旅に行ったきり行方不明になっていた。
警備の仕事は平日は夜八時から次の日の朝の八時までの十二時間、土日祝日は朝八時から次の日の朝八時までの二十四時間勤務で、巡回時間は午前八時半、午後一時、午後四時、午後八時、午前零時、午前五時と決まっていた。
この時点でのTは今の美の化身、匂い立つような男振りのTとは、顔つき以外は似ても似つかなかった。
身長は百六十八センチ、自重での筋トレは欠かさずやっていたので体つきは締まっていたが、顔デカ胴長短足の典型的な日本人体型だった。
頭も薄かったので坊主にして誤魔化していた。
二週間もすると不精ったくなるのでその都度自分でバリカンで刈っていた。
先に述べたような理由で二十代前半から既に髪が薄くなりかけていた。
髪さえ人並みにあったら、これでもそこそこモテたのに……二十代前半からいつもそう思っていた。
そう思っていじけていたからなのか、事実薄い頭のせいなのか、帽子を被っているときのTは女たちに好印象を与えているのがT自身実感できたが、帽子を脱いだTを見ると皆一様に距離をおくようになるのだった。
そんな暗く救いようのない女っ気ゼロの青年時代を過ごしてきたTが、溺れる者が
三年目だった。
それなりに工場社員たちと友好的な関係を築けていたが、それ以上でも以下でもなく、それだけのことだった。
死なない程度に生かされている、死ぬまでの間とりあえず生きている、そんな感じだった。
空しい毎日だった。
何度も自殺しようと考えたが、その度に、死ぬならその前に向かいのキチガイ一家を皆殺しにしてからだ、それはTの両親が死んでからだ、だが両親にはできるだけ長生きしてほしい、という無限ループに陥ってしまうのだった。
八月になっていた。
土曜日だった。
Tが警備していた工場は実家から車で七分くらいのところにあった。
西側に一つだけある正門を入ると右手に本社の建物があり、その一階にTが詰める守衛室があった。
深夜零時になったのでTは蛍光ベストを着け、懐中電灯を携帯して定時巡回を開始した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます