第16話

 翌日の四月二十一日、玉革(たまがわ)元Z務事務次官(六十二歳)が殺された。


 他の生き残りOB同様、玉革は極度に追い詰められていた。


 玉革は一度は日本を捨てて海外に逃げようとまで考えたが、そこまでは警護できないと政府に言われて即座に諦めていた。


 前日の星堕の死に様で出国すら覚束おぼつかないことを知った。


 字幕なしでは洋画を理解できない玉革には、海外で何不自由なく生活するのは難しい。


 今さら国際的な活躍を夢見る高校生のように必死で英語を勉強する気にもなれなかった。


 国民から搾取した莫大な蓄えがあるから、物質面では良い生活はできる。


 だが全てのレベルで日本と同じ生活をするのは不可能だ。


 日本の天上人も海外に出ればたたの異邦人でしかない。


 日本でしか通用しない人脈。


 海外に出れば極端に人間関係は狭くなる。


 たとえ知り合いがいても相手が外人では日本語でするレベルの会話はできない。


 翻訳機を使った会話など馬鹿にされるだけだ。


 家族は日本が良いと誰一人ついて来ない。


 日本にいるときのように玉革のためにあれこれ世話を焼いてくれる者もいなければ周りからちやほやされることもない。


 そんな人間がいたら逆に怪しい。


 外国で金を持っている日本人は目立つ。


 騙そうとする者も多いだろう。


 それどころか手っ取り早く命を狙う者もいるに違いない。


 メイドや運転手を雇っても信用できない。


 その者らは犯罪組織と繋がっているかも知れない。


 何かあっても日本と違い警察も玉革に便宜べんぎを図りも敬意を払いしもないだろう。


 考えれば考えるほど快適な生活は無理だとわかる。


 命と引き換えでもそんな生活は真っ平だった。


 日本にいるしかなかった。


 有袋類最強のフクロオオカミ、日本の上級国民とはそのようなものだった。


 周囲を海に囲まれた隔絶された世界で、羊のような国民ばかりだからこそ、天上人としてふんぞり返ってこれたのだ。


 今、明治維新より始まったフクロオオカミを頂点とするヒエラルキーに最大の危機が訪れていた。


 無慈悲にフクロオオカミを狩るハンターが現れたのだ。


「ダーッハッハッハッハ! おちんちんびろーん!」


 二十四時間気を抜けない状況が何日も続き、このままでは発狂すると思った玉革は、正気を保つためにあえて馬鹿になることにしたのだった。


 これが、Z務事務次官にまで登り詰めた男が選んだ、心の処方箋だった。


「わっしょいわっしょい! スターリングラード!」


 素っ裸で両腕を左右水平に広げ掌を上に反らし、警護する隊員たちの目の前を走り回る。


「ぷぁーいおつぷぁーいおつぅ、みぃーもぉーみぃーもぉー、うーんこーぶーりぶーりぃ、くっさーまーんじーぃるぅ」


 隊員たちの頭がおかしくなりそうだった。


「いんぐりっしゅ! もんぐりっしゅ! ぱつきんまんげぼーぼー! コマンチ!」


 玉革が殺されるか、犯人が捕まるまではこれが続くと思うと地獄だった。


 隊員たちはUFOコンタクティのように心の中で歴代Z務事務次官殺しに呼びかけた。


 おーい! ここだ! 早く来てくれー! と。


「エロマンガ! スケベニンゲン! メガチンポ! ヌルマンチョ!」


 叫びながら玉革はトイレに入った。


「鎮まれ、鎮まれぇーい! 我が赤兎馬せきとばよ……! 放水開始! ゴー! ゴー! ゴー! 若林豪! ンッゴウ!」


 意味不明な叫び声が止んだ。


 ……おかしい。数分経っても玉革は沈黙したままだ。大きいほうなら大きいほうで盛大に息む声が聞こえるはずだ。


 静かにドアが開き、首のない玉革の体がスローモーションで倒れてきた。


 首はねじ切られていて、ぐちゃぐちゃになった切断面がこっちを向いていた。


 死亡推定時刻は午後三時十二分。


 トイレの中にもう一人いた。


 男だった。


 恐ろしいほどの美形だった。


 身長は百八十センチくらい、こんの作業服の上下を着て、メデューサを退治したペルセウスのように右手に玉革の生首を掴んで立っていた。


 言うまでもなく血まみれだった。


「いや~、あいつらひでえんだよ。出てこいって言うからトイレから出たら、全員でオレをボコボコにしやがってよ~。こっちはとっくに倒れて動かないのにいつまでもしつこくぶっ叩いたり蹴り入れたりしやがってよ~。殺す気かって」


 Tはおちゃらけてそう言ったが、村西と島田はその状況で躊躇ちゅうちょなくTに襲いかかった隊員たちをさすがだと思った。


 寄ってたかってTを滅多打ちにしたことも、隊員たちの心情を思えばやむを得ないことだと思った。


 しかし寄ってたかって滅多打ちにされたはずのTは、ここに移送されてきたときには血糊こそ付いているものの、青痣あおあざ一つない綺麗な顔だった。


 血まみれの服を着替えさせ、身体検査もしたが、男が見ても惚れ惚れするような美しい体にも痣一つなかった。


 本当にそんなことがあったのか? と二人が疑うのも無理はなかった。


 Tを確保した隊員たちの証言からも、Tが彼らにリンチにかけられたのは間違いない。


 信じられないような回復力だった。


 整形に骨延長、または天然に美形、の他に考えられる第三の理由──ひょっとしてこの男は何らかの原因で恐るべき生命力を手に入れ、その結果二十歳に見えるほどまで若返り、加えて常人離れした美しさまで手に入れてしまったというのか。


「そろそろ話してもらおうか」


 やおら村西が言った。


「おまえが各邸に侵入した方法をな。おまえが十人の被害者を殺害したときの状況については一通り話し終わっただろ」


「そう、だったな。いいぜ話してやる」


 やっとだ。


 やっと重要な点について話が聞ける。


 本人が喋りたがっていたからとにかく喋らせてやったが、正直あまり意味のある話ではなかった。


 少なくとも裁判でTに有利になるような話は一つもなかったのは確かだ。


 警察側として一番知りたかったのは最初から侵入と逃走の方法だ。


 どうやって誰にも見つからず被害者に近づけたのか。


 なぜ最後の犯行の他は影も形も見せずに現場から立ち去ることができたのか。


 一体どんなトリックを使ったのか。


「オレは瞬間移動できるんだよ」


「何だって」


「全部瞬間移動して殺したんだよ。じゃあなんで十人目で捕まったか。最初から十人殺ったら捕まってやろうと思ってたんだよ。あんまり迷惑かけちゃおまえら警察が可哀想だと思ったんでな。まぁ、そういうことだ。わかったかこのタコ」


 一瞬空気が凍りついた。


 島田は後ろを振り向かず黙っていた。


 マジックミラーから見ている四人の刑事たちは呆れ顔になってお互いを見やり、肩をすくめて苦笑した。


 彼らはいずれも柔道の高段者だ。


 村西は椅子を引いて立ち上がった。


 上着を脱ぎ、自分の椅子の背もたれに掛けると、机と一緒に島田とは反対側の壁にどかした。


 ネクタイを緩め、準備体操するように 首、肩、手首、指の付け根を音を鳴らしほぐした。


 椅子に座っているTの正面に立った。


「あ~ん? なんだって? よく聞こえなかった、もう一度言ってくんねえかなぁ」


 村西は身長百八十五センチ、体重九十五キロ、柔道五段にしてプロボクサーのライセンスも持っていた。


 もしボクシングを職業に選んでいたら、簡単にヘビー級チャンピオンになれただろうとは誰しも一致する意見だった。


 Tは村西を見上げて馬鹿にするように笑った。


「その歳でもう耳が遠いんかよ、おまえ」


 最後まで言わせなかった。


 ノーモーションで繰り出された村西の右拳がTの左顔面をとらえ粉砕──


 したはずだった。


 超高速で回転する串焼きのように村西は宙を舞い、床に落ちた。


 誰にも見えなかったが、Tのカウンターの右張り手が村西の左顔面をとらえたのだった。


 マジックミラー越しに刑事たちがどよめく。


 異変に気づき振り向いた島田は信じられないといった顔で立ち上がりながらTと村西を交互に見た。


 身長百八十三センチ、体重八十五キロ、柔道三段、テコンドー五段。


 島田は涙もろいが村西以上にキレたらヤバいと署内の誰もが噂し認識する男だった。


「なんてことだ……村西さん、村西さん!」


「死んじゃいねえよ。オレもあんたらまで殺す気はねえし」


 島田はTの言葉など耳に入らないように両拳を握り締め震えていた。


「綺麗にカウンターが決まったから、後遺症も残らねえよ。早く病院に連れてってやりな。オレもそろそろここからおいとまするわ。じゃ」


 部屋を出ていこうとするTの頭上を鋭い風圧が襲った。


 強烈な左かかと落としをTに降り下ろした島田──の左ももが「く」の字に曲がり、折れた大腿骨だいたいこつが肉を突き破った。


 Tのカウンターの右拳が島田の左腿裏に決まったのだ。


 絶叫。


 後ろへひっくり返った。


「ぐがっ、ぅおおおお……」


 顔面は蒼白で額に脂汗が滲んでいた。


 Tは島田の前にしゃがみこんだ。


「悪ぃ。力の加減間違えた。でもすぐ治るよ」


 そう言うと口を閉じたままモゴモゴ動かし、骨が飛び出た傷口に唾を吐きかけた。


「じゃあな」


 立ち上がり再びドアへと向かう。


 マジックミラー越しに覗いていた刑事たちがなだれ込んできた。


 Tは歩みを止めない。ならばどうなる? ぶつかる──否。


 ハエを追い払うような軽い仕草でTは全員順番に壁に叩きつけ気絶させた。


 三秒もかからなかった。


 村西、島田のとき以上に物理を無視したような力と速さだった。


 にもかかわらずその動きは軽さしか感じさせなかった。


「おい兄ちゃん、こっち見れるか?」


 Tが島田に呼びかけた。


 激痛に顔を歪めながら島田はTに顔を向けた。


「よく見とけよ。今から瞬間移動するからよ。いくぜ。いいか。あらよっ」


 水に溶ける紙のようにTの姿はぼやけ、やがて消えていった。


 一時間後、テレビ東京含め全ての地上波で「歴代Z務事務次官連続殺害犯、ついに逮捕!」の特番が放送される中、「歴代Z務事務次官連続殺害犯、脱走!」の速報が入った。


 ちょうど夕食時、食い入るように特番を観ていた生き残りOB六人のうち三人が、探偵物語の松田優作のように口に含んでいた物を盛大に噴き出しながらいっぺんに銀河鉄道に乗ってしまった。


 彼らにしてみればアナフィラキシーショックのようなものだった。


 まさしく前代未聞の出来事だった。


 特番を観続ける者たちもいれば、食事を中断してわけもわからず外へ飛び出す者たちもいた。


 日本全国津々浦々で横浜中華街の旧正月のように爆竹が鳴らされ、渋谷センター街には若者を中心とした群衆が集まり人目もはばからず乱交した。


 思いを寄せる経理の女性に愛を告白するも拒絶され、そのまま強姦に及ぶ者、恨みを持つ相手の家に火炎瓶を投げ込む者、中学校の窓ガラスを壊してまわる者、盗んだバイクで走り出す者、ギリギリまで社会と折り合いをつけていた者たちの心のかせが一斉に外されてしまったようだった。


 数年前フランスで起きた黄色いベスト運動が形を変えて日本で起きたようだった。


 あたかも革命前夜のようだった。


 逮捕の速報のときも逃走の速報のときも、似顔絵は公開されたが、犯人が「T」と名乗っていることは公開されなかった。


 どう考えても単なるイニシャルでしかなかったし、便乗犯が出現したときTと名乗るかどうかで、本物かどうか判別するための意味もあった。


 逮捕前はともかくなぜ脱走後も犯人の顔写真を公開しないのか? という当然のごとくき上がった世論に対しての説明は、こういう場合よくある・・・・警察の信じがたい失態として、取り調べを最優先したことによる写真の取り忘れ・・・・・・・ということだったが、実際は違った。


 全ては官邸からの指示だった。


 Tにとって脱走など造作ぞうさもない──それが官邸中枢の認識だった。


 いつでも脱走できるはずのTの恨みを買うことを亜婆首相以下全員が死ぬほど怖れた──情けないがそれが本当の理由だった。


 つまり一国、それも世界にかんたる日本の首相以下全員が、犯人たるTにびたのだ、おもねったのだ、全力で。


 そのびとおもねりは、脱走後に公開されたより詳細なTの似顔絵に如実にょじつに表れ、結実けつじつしていた。


 それはよくある法廷画家が描くような悪意に満ちたそれではなく、まるで台湾の美人画イラストレーター、平凡ピンファン陳淑芬チェン・シュウフェンが描くようなそれであった。


 これ本当に犯人の似顔絵か? 


 見たもの誰もがそう思い、そう囁き合い、そんな似顔絵を公開した政府の意図をいぶかしんだ。

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