第11話

 その兎の赤い目、その右目が非常ボタンであった。


 胡座あぐらをかいたまま腕を伸ばしても手が届く高さ、蚊藤が立ったときのへその位置に設置してあった。


 何かのはずみで押してしまわないように、また自分以外に気付かれないように、壁から飛び出ていず、一見すると平面に描かれた赤い丸そのもので、しかも強い力で三センチ押し込まないと作動しないようになっていた。


 兎はすぐに見つかった。


 それは蚊藤が壁に向かって今立っている場所から一メートルほど左前方に、壁全体で言うと中央からやや右手に描かれてあった。


 よしっ! 待っとれよこの野郎! 


 蚊藤はひとまたぎで壁に達すると右手人指し指でボタンを押さえた。

 悦子たちのほうに向き直ると再び怒鳴った。


「おいおまえらっ! こっちを向けっ! こっちを向かんかっ!」


 悦子が蚊藤を見ないで傍らの枕を取ろうとするのに被せて叫んだ。


「わしは今この部屋にある緊急ボタンに指を当てているっ!」


 悦子が蚊藤を見た。

 

 え? 緊急ボタン? 何それ? という顔であった。


 と見る間に不安がそのおもてに表れた。


 蚊藤はボタンに右手人差し指を当てたまま、さきほど心の中で悦子とTに対して必ず実行すると決めた処刑方法を声高らかに宣言した 。


 悦子の顔が蒼白に変わり、おこりにかかったように震えだした。


「わっはっは! 何だそのざまは! 悦子! 今さらどう後悔しても遅いぞ! わしをこけにしおってこの腐れ母乳ブタがっ!」


 蚊藤は気分が良かった。だがまだ半分の気持ち良さだ。


 Tはまだ飲乳を続けている。


「おいおまえっ! いつまで乳吸っとるんじゃこのガキャ! こっちを向けと! 言っとるだろがぁっ!」


 怒鳴りながらも指はまだボタンを押し込んではいなかった。


 二人の生殺与奪を握っているこの状況をしばらく楽しみたい気分だった──


 とそこまでの展開を頭に思い描いたところで蚊藤は妄想をやめた。


 妄想の通りにした場合、自分の配下が部屋になだれ込んでくる前に他ならぬ自分が人質に取られる可能性がある。しかもこの男の怪力なら最悪、自分の首をへし折るだろう。やはり、このまま黙ってボタンを押し込むのがベストだ。まず配下にこの部屋を急襲させ男を制圧してから、さっきの妄想の続きをやればいい。いやこの母乳横取り野郎だけは必ずこの場で八つ裂きにして、その様を悦子に見せつけてやり、悦子については日を改めてなぶり尽くす。ひょっとしたら悦子は心を入れ換えるかもしれない。元より意思の弱い、そして愚かな女だ。雌の本能で躊躇いもなく主である自分を捨て若い男に乗り換えた過ちを血涙を流して猛省し、今度こそ誠心誠意、自分に仕える母乳奴隷になるだろう──そう考え直した。


 蚊藤にしても人生で最高の母乳奴隷である悦子をこのまま廃棄処分にするのは忍びなかった。


 芸は身を助ける、か。悦子の場合は母乳だから水芸じゃな! フフフ……


 蚊藤は好色そのものといった笑みを浮かべた。


 よし、押すぞ!


 そう思った瞬間、大太鼓を思いきり一発叩いたときに生じる空気の振動のようなものを感じた。


 あれ?


 非常ボタンが作動しない。


 指はボタンを押しきってはいなかった。


 半ばで止まっていた。


 誰かが自分の右手首をがっちり掴んでいた。


 なにぃ~っ!


 自分の意思とは無関係にそのままゆっくりと引き抜かれた。


「な~にしてんだい爺さん。オレのお楽しみタイムが終わるまで待ってられねえか? あん?」


 色気のある男の声だった。


 乳臭い息だった。


 信じ難いことだった。


 どっと脂汗が全身から吹き出した。

 

 脈拍がドラムロールになった。


 いつの間にわしの背後に? なぜ飲乳を中断した? まさか、わしの意図に気付いたのか? そんなはずはない! 


 背後から地鳴りのような空気を振動させる音が聞こえてくる気がした。


 母乳横取り野郎・Tがそこにいた。


 口から心臓が飛び出るほどの驚愕。


 だがボタンは目の前だ。


 左手で! 


 思った瞬間左手も掴まれた。


 なっ、なぜぇ~っ! 


 そのまま捕まった宇宙人のように吊り上げられた。


「残念だったな。もう少しだったのにな」


 心を読まれたと確信した。


 こ、こいつは人間じゃねえ~っ! 


 壁がどんどん遠ざかっていく。


 沖に流されていく漂流者の気分だった。


「おまえ臭えなぁ~っ、ゲロ以下どころじゃねえ、ドブの匂いがするぜ。庶民の血税でまるまる太った南京虫なんきんむし野郎が」


 え? 庶民の血税? 南京虫?


 何を言っているのかわからなかった。


「言い忘れてたがオレはおまえを殺しに来たんだよ」


 ええええーっ!


 脳内が絶叫するマスオさんで埋め尽くされた。


 今度は完璧にわかった。


 ほ、本当かい?


 と聞き返す勇気はなかった。


 破裂しそうな蚊藤の心臓にさらなる負荷がかかる。


「おまえ聞いてねえか。おとついZ務事務次官殺されたろ」


 キッズルームに籠もって悦子と母乳三昧の生活を送る蚊藤の耳にも、つい二日前に起きたその事件の情報は入っていた。


 Z務事務次官というか屠塚個人を逆恨みしたキチガイの犯行で、すぐ犯人は捕まるだろうと思っていた。


 ましてや自分に関係があるとは思ってもいなかった。


「あ、ああ、あれは……」


「そうだ。オレがやった。オレは国の資産を外国資本に叩き売り、返す刀で国民には増税ラッシュ、重税に次ぐ重税を課し塗炭の苦しみを味わわせ続けている真性の売国奴にして真性の国賊の巣窟そうくつ、Z務省の歴代トップを見せしめに十人ぶち殺すことに決めた。パンパカパーン! おめでとうございます。おまえは二人目だ」


 蚊藤はドラゴンボールのキャラが気を高めるときのように心の中で叫んだ。


 ただし疑問形で。


 寝耳に水どころではない、寝耳に銃弾だった。


 この男は奇跡的な確率で偶然ここに来たのではなかった。


 キチガイはキチガイに違いないが明確に自分の命を狙って来たのだ。


 キチガイを説得できるのか。


「そ、それは違う! 違いますっ!」


「何が違う」


「わ、わたしたちZ務官僚は常に公正公平な税体系作りを心がけているっ、あなたがた国民の皆さんが安穏あんのんに暮らせるのは、わたしたち優秀なZ務官僚のお蔭なんですよっ! か、感謝されこそすれ、殺される謂われなんかないっ!」


「それな。おまえらそう言うけどよ、じゃあなんで日本の財政は慢性的な大赤字なんだよ! おまえらのどこが日本一優秀だっ! 不況だろうが何だろうが大赤字埋める口実で増税に次ぐ増税しまくってんだろうが! しかも増税する度におまえら官僚の給料ばかり上がってんだろうがっ! ……確かに日本国民も悪い。何も抗議しないからな。殺される順番を黙って待ってる家畜同然の腑抜ふぬけばかりだ。おまえらZ務省がやりたい放題なのは国民の自業自得とも言える。だがこのままでは何も変わらん。だからオレが決起した。そして悦子を見てオレの魔羅は勃起した。そんなことはどうでもいい。蚊藤、てめえは殺す」


 蚊藤は最悪の事態になったことを悟った。


「おまえの前に殺った屠塚って野郎のときも、奴の嫁と娘がいて、どちらも美味しく頂いたぜ。嫁のほうは悦子と同じで母乳が出たっけ。だが悦子の母乳のほうが断然うめえ。甘くて……あったかくって……サウジの油田のように尽きることなくどんどん出てくる。最高だ」


 蚊藤は嘔吐おうとした。


「母乳全部吐き出しちまったか。そうやっておまえは今まで得たものを全部失って死ぬんだよ」


 蚊藤は失禁した。


「おまえはこれから腐れZ務官僚を代表して、国民に与えている痛み苦しみをたっぷり味わいながら死ぬんだよ」


 蚊藤は脱糞した。


「さっきも言ったがオレは既におまえらの仲間の屠塚って野郎を始末した。素手で! ゆっくりと! 少しずつ! 肉を千切って! バラバラにしてやったよ。おまえもそうなる」


「ま、待って! 待って待って! 待ってくださいっ! ご、後生ですっ! い、命だけはぁっ! 命だけは助けてくださいっ! わ、わたしの全財産をあげますからぁっ!」


「あげるじゃねえだろ! 元々おまえの金じゃねえだろが! 国民が汗水流して稼いだ金をおまえががめたんだろうが!」


「そっ、その通りですっ! 申し訳ありませんっ! 全部お返ししますっ!」


「誰にだよ!」


「あなた様にですっ」


「オレにだけ返してどうする!」


「こっ、国民の皆さんにぃぃっ! 国民の皆さんお一人お一人にお返しまぁすっ!」


「ありがとう。その言葉が聞きたかった」


 うってかわって優しい声だった。


「…………」


 極限の緊張状態の上にほとんど無呼吸で絶叫し続け息も絶え絶えの蚊藤はもはや命脈尽きようとしていた。


「なわけねえだろ! 蚊藤! おまえは死ぬんだよ! おまえは死ぬんだよ!」


 大事なことなので二回言った。


 蚊藤は白目を剝いた。


「じゃあ始めるか。痛えぞ。泣くなよって無理か。カカカ……あん?」


 蚊藤は死んでいた。


 蚊藤が最後に思ったことは、Z務事務次官になんかなるんじゃなかった、だった。


「肝っ玉の小せえ野郎だ……ショック死しやがった」


 Tは蚊藤の骸を吐瀉物と糞尿で汚れて湿った絨毯の上に降ろした。


 壁の時計の針は十二時五十分を指していた。


 ひとまず蚊藤の解体は後回しにして、呆然としている悦子を浴室に連れ込み母乳プレイの続きをした。


 悦子の母乳を腹がパンパンになるまで飲んだ後、大人の男に戻り悦子を何度も絶頂に導きついには失神させた。


 午後五時にキッズルームのドアが開かれたとき、部屋の中には吐瀉物、尿、糞、そして血が混じった凄まじい悪臭が満ち、蚊藤だった肉片が散らばっていて、女は浴室で気絶していた。


「ハアッハッハッハ! ハアッハッハッハ! 蚊藤の野郎、ほんとは生きたままバラバラにしてやろうと思ってたんだがな! どうせなら奴が死ぬ前に耳のひとつも引き千切ってやるんだったぜ。なぁ刑事さん、あんたもそう思うだろ」


「思うわけねえだろ!」


 村西と島田は同時に叫んでいた。

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