これでいいのだと、自分に言い聞かせた。

 なんてことはないはずだ。いつもの日常に戻るだけなのだから。

 足を進める。喧騒な夜の街をひとり歩く。

 それでも、身体が後ろに引き寄せられるのは何故なのだろう。

 長い鎖が足に絡まるように。心とは裏腹に身体は戻りたがっている。

 きゅっと目を閉じて。足を進める。

 足を進める。浮かぶのは貴女の泣き顔。

 足を進める。浮かぶのは貴女の笑った顔。

 足を進める。浮かぶのは貴女の唇の感触。

 足を進める。浮かぶのは貴女の匂い。

 足を進める。浮かぶのは貴女の温もり。

 足を進める。浮かぶのは、ひとりにしないでと涙を浮かべる貴女。

 ――足が止まる。

 咄嗟に後ろを振り向く。身体が動き出す。

 気付けば、愛は夜の街を走っていた。

 今更、戻ってどうなるというのだろう。

 身体を売るのを止めることが出来ない、そんな私に幸せを望む権利があるというのだろうか。

 心を閉ざして生きてきた。そうしないと壊れてしまいそうだった。

 自身の欲望を満たすために、好きでもない人とシたりもした。

 普通に働くことなんて、今更できるわけがない。

 そんな私に、貴女の隣に立つ資格があるというのだろうか。

 愛は自身に問いかける。答えは分かっていた。それでも身体は止まらなかった。

 ホテルの前で、荒い息を整える。愛はその場で、立ち尽くした。

 足が進まなかった。一歩も動けず、その場で呆然とフロントを眺めた。

「――愛じゃん」

 咄嗟に振り向く。片手をあげて、

「久しぶり。こんなところで何してんの」

 おどける様に彼は言った。

「杉山くん」

 愛は固まる。

 金髪のツーブロック。拡張された耳のピアス。生やした髭に、変わらない瞳。

「苗字かよ。よそよそしいな」

 愛はあの日のことを思い出す。友人に私とのハメ撮りを送った彼。動画はすぐにクラス中に広まり、クラスの男女から虐められるようになったこと。

「……高校の時は、悪かった」

 思わぬ言葉に、愛は目を見開く。

 それでも、気まずそうに視線を下げながら言う彼を見ても、愛は何も感じなかった。目に入ったのは、彼の左手の薬指で輝いている指輪。

 愛は微笑んで、

「ううん、気にしてないよ。それより、結婚してるんだ」

 彼の薬指を見る。釣られて彼の視線も薬指へ向く。

「そうそう。同じクラスの奈美。覚えてる?」

 私を虐めた張本人。

「うん。まだ付き合ってたんだね」

「長いよなーもう五年くらい経つもんな」

「羨ましいな。彰はこんなところで何してるの」

 愛は彼に身体を寄せた。上目遣いで彼を見つめる。

「ツレと呑んで、帰るとこ」

 ちらりと、視線が愛の胸元へ向く。彼は視線を逸らし、愛は何してるの、と問いかける。

「寂しくて、相手をしてくれる人を探してたとこ」

 愛は、彼の左手を握った。しよ、と彼を誘う。

 彼は、でも、と戸惑いながらも、愛が手を握り続けると頷いた。


 安いホテル。行為を終え、いびきをかく彼。

 復讐のつもりだった。私を虐めたあの女の泣く姿が見たかった。

 そのはずなのに、愛は満たされなかった。

 眠る彼に背を向けて、愛はスマートフォンの画面を点ける。

 履歴から綾香とのトーク画面を開く。

 目を閉じる。

 好きだった。初めて私に愛情をくれた人だった。

 愛していた。貴女とずっと一緒にいたかった。

 でも、それには、あまりにも私は汚れきっていた。

 愛は目を開ける。小さく息を吐き、指を動かす。

 もう手遅れだった。今更、普通になんてなれなかった。

 ――愛しい人。どうか、貴女は幸せになってください。

 愛は綾香の連絡先を削除し、スマートフォンを閉じた。

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