あれから、一ヶ月が経った。

 肌寒い夜の街。仕事終わりの綾香は、のめり込むように行きつけの居酒屋へ足を踏み入れた。カウンターの隅の席。先週と同じように、綾香はそこでビールを口にする。

 心の傷は癒えなかった。同僚に誘われて合コンに参加したり、マッチングアプリで知り合った男性と実際に会いもした。それでも、綾香は惹かれなかった。誰かと付き合いたい、そういう想いはなかった。ただ、寂しかった。一度だけ、寂しさを紛らわすために、酔った勢いでナンパしてきた男性とシたりもした。それでも、綾香は満たされなかった。

 ふと、思い出すのは彼女のこと。

 彼女の温もりを思い出すたびに、綾香の胸は酷く傷んだ。

 もっと自分に何か出来たのではないか。

 悔やんでも、もう彼女と連絡は取れない。

 一度、彼女のマンションの前へ足を運んだりもした。

 二時間ほどマンションの前で立ち尽くして、綾香は我に返った。まるでストーカーのような行為をしていることに気付き、自分に呆れた。

 彼女のことを思い出して、寂しくなるたびに、綾香は彼女に言われた言葉を思い出す。

 ――飽きちゃいました。

 ――いい歳なんですから、ちゃんとした男の人を探してください。

 綾香は自分に言い聞かせる。

 それが彼女の本心なのだと。

 言い聞かせる。それでも――、

 優しかった彼女の影を思い出すたびに、綾香はどうしようもなく、彼女に会いたくなった。

 店内が賑やかになる。カウンターでひとりアルコールを浴び、通り過ぎる男女を横目に眺める。

 ひとりにしないで。そう心の中で呟き、綾香はビールを口にした。


 夜の街を歩く。

 身体はふらつき、曇天の空からは、雨粒がぽつぽつと降り始めた。

 雨宿りも兼ねて二軒目を探していると、彼女と出会ったバーが目に入る。

 綾香は立ち止まる。もう一度彼女と出会えるような、そんな淡い期待を抱き、呼ばれる様に足を踏み入れる。

 店内に、彼女の姿は無かった。

 馬鹿だな、と心の中で呟き、カウンター席へ座る。

 あの日、彼女が呑んでいたアマレットミルクを注文する。

 おもむろにスマートフォンを開き、通知を確認する。

 今頃、彼女は元気にしているだろうか。

 新しい恋人とは上手くやっているだろうか。

 涙が零れそうになる。綾香は必死に堪えて、通知の無いスマートフォンの画面を消す。

 カウンターに置かれた、アマレットミルクを口に運ぶ。

 一気に飲み干し、再び同じものを注文する。

 どうか、元気でやってますように。綾香はそう祈りながら、アルコールを浴び続けた。

 

 土砂降りになった雨を見て、綾香の酔いは少し冷めた。

 通り過ぎるタクシーを横目に、綾香はゆっくりと歩き出す。

 冷たい雨が、心地よかった。

 このまま全部洗い流してほしかった。

 少し歩くと、声を掛けられた。

「お姉さん風邪ひくよ」

 頭上に傘が差される。

 気付けば綾香は二人の男に囲まれていた。

 恐らく大学生であろう。お洒落な恰好をして如何にも女遊びに慣れてそうな話し方だった。

「ちょっと雨宿りしてこうよ」

 綾香の腰に手をまわし、男は言う。

「お姉さん幾つ? 綺麗だね」

 綾香は答えずに、いいよ、とだけ答えた。

 どうでもよかった。ひとりは嫌だった。誰でもよかった。

 二人の男に連れられ、夜の街を歩く。

 足取りがふらつく、男の身体に寄り掛かり、なんとか態勢を立て直した。

 幾らか歩くと、目の前にホテルが見えてきた。

「すみません」

 はっきりと拒絶するような、聞き覚えのある声。

「あ、ちょっと待てよ」

 気付けば、綾香は手を引かれて走っていた。

 黒く長い髪。小さい背丈。懐かしい匂い。

 まるで夢を見ているようだった。

 彼女の名前を呼ぶ。前を走る彼女からの返事はない。

 夢なら冷めないで。そう願いながら、綾香は引かれるがままに走った。


 異臭のする路地裏。男達を撒き、二人は荒い息を整える。

 背を向ける彼女に、綾香は恐る恐る声を掛ける。

「……愛ちゃん」

 ゆっくりと彼女が振り向く。

「何してるんですか」

 苛立った彼女の声。

「こんなところで何してるんですか!」

 愛は怒鳴った。綾香は驚いたように目を見開く。

 荒い息を整えて、愛は続ける。

「私の真似事ですか」

「そんなの、愛ちゃんには関係ない」

 抗議するように、愛は綾香を睨む。

「……何しようと私の自由でしょ」

 自虐するように綾香は笑みを浮かべる。

「そうですか」

 愛は呆れたようにため息をつくと、

「勝手にしてください」

 背を向けて歩き出した。

 視界が滲む。本当に馬鹿だな、と笑みが零れる。

 その場で座り込む。泥が顔にかかり、じわりと膝が冷たくなった。

 ――いかないで。

 心の中で呟くと、涙が零れた。

 素直になれない自分に嫌気がさした。

 これでいいのだと、自分に言い聞かせる。

 足音が聞こえる。雨がやみ、綾香は顔を上げる。

 そこには、今にも泣きだしそうな愛の姿があった。


 初めて愛と入ったラブホテル。

 温かいシャワーを浴びると、まるで身体が溶けていくような、そんな感覚に包まれた。

 身体を拭き、バスローブを身に着けて彼女のもとへ向かう。

「ちゃんと温まりましたか」

 小さな声で愛が言う。

「うん、愛ちゃんは浴びないの」

 私は、と言いかけて、愛の口が止まる。

「……帰ります。ちゃんと朝までここにいてください」

 愛はゆっくりと立ち上がる。俯きながら、綾香の横を通り過ぎる。

 きゅっと、綾香は愛の袖をつかむ。

 俯く愛に、

「……ひとりにしないで」

 小さな声で綾香は言った。

 愛の目に涙が滲む。

「でも……」

「ずっと愛ちゃんのことが忘れられないの」

 ゆっくりと愛は顔を上げる。

「愛ちゃんがいないとだめみたい」

 綾香は目に涙を滲ませながら笑った。

 愛は俯く。ゆっくりと顔を上げて、綾香にキスをする。

 軽いキスをして、見つめ合う。求めあうように深いキスをする。

 唇を離すと、糸が引く。昂る身体を離して、

「シャワー……浴びてきます」

「……うん」

 二人は軽いキスをした。


 それは、まるで夢のような時だった。

 喘ぎ声が、吐息が、温もりが、二人をより昂らせた。

 愛は綾香に触れた。綾香は愛に触れた。


「……生えてない」

 下着の中に手を伸ばすと、綾香は驚いたように言った。

 愛が顔を赤らめて視線を逸らす。

「……脱毛したから。あまり見ないで」

 脱がしてもいい、と綾香は囁く。愛は無言で頷き、綾香は下着を脱がす。

「――綺麗」

 初めて見た愛のものに、綾香は感動する。

 ゆっくりと顔を近づけ、愛のものに口づけをする。

 愛の喘ぎ声に、理性が飛びそうになる。

 抵抗と快楽が愛を襲う。抵抗するように綾香の顔を手で押さえ、ねだる様に腰を押し付けた。

 じわりと快楽が押し寄せてくる。愛は果て、綾香は愛に深いキスをした。

 ――こんなにも簡単なことだったんだ。愛は求める様に綾香に触れる。

 枷を外したように、求めあうように、疲れ果てるまで二人はお互いを求めあった。


「起きてる……?」

 綾香が問いかけると、後ろから寝返りを打つ音が聞こえた。

 綾香は振り向く。振り向くとすぐに愛と目が合った。

 綾香はゆっくりと身体を起こす。釣られる様に愛も身体を起こす。

 バスローブが緩み、愛の白い肌が目に入る。

 彼氏持ちの愛に、こんなことを言ってもいいのか、と自問自答する。

 理性では駄目だと分かっていても、募る想いが強く勝った。

「……付き合ってほしい」

 驚いたように、愛は綾香を見る。そして、悲しそうな表情で

「私、身体を売るの止めれないですよ。奨学金だって返さなきゃいけない、ひとり暮らしだって、しなきゃですし」

 綾香は俯く、それでも、今まで気になっていたことを綾香は訊いた。

「どうしてそこまでして、大学に行くの?」

 愛は綾香を見る。少しの間目を閉じて、天井を見上げる。

「……普通になりたかった」

 ぽつりと呟くと、愛は続ける。

「普通に生きたかった。ちゃんと両親がいて、高校を卒業して大学に進学して、ひとり暮らしをして、普通に働いて、夏休みになったら親に顔を見せに行ったりして……」

 諦めたように、愛は笑みを浮かべる。

「普通になりたかったんです」

 健気な動機に、綾香は胸を痛める。同時に綾香は安心する。好きでやっているわけではない。そんな想いが伝わってきた。

「普通って、よくわからない」

 綾香は続ける。

「ほら、私の年齢になってくると、周りの友達はほとんど結婚してるし。子供もできて、しっかりお母さんをしている友達も沢山いるんだ。昔からね、男運が無くて、深い付き合いって出来なかったの。なんで、こんなに駄目なんだって、普通に恋をしたいってずっと思ってた。だから、愛ちゃんと一緒にしたら失礼かもしれないけど、私も普通になりたいって思ってた」

 でもね、と愛の目を見て。

「愛ちゃんと付き合った時、好きな人と一緒にいるのってこんなに温かいんだって初めて思った。どこか危なっかしくて、守ってあげたくなる。そんな愛ちゃんのことが、本当に好きだった。大好きな愛ちゃんの力になりたいって思ったの」

 愛は目に涙を浮かべる。そんな愛を見て、綾香は微笑んだ。そして、真剣な表情で続ける。

「普通になるのは難しいかもしれないけどさ、一緒にいてくれないかな。私は愛ちゃんが隣にいてくれればそれだけでいい。愛ちゃんと一緒に生きたい」

 愛の目から涙が溢れた。啜り泣きながら、愛は言う。

「……私、そんなこと言ってもらえるような人間じゃない……」

 綾香は愛を抱き締めた。

「そんなことないよ」

 胸の中で涙を流す愛を、愛おしいと思った。

「身体を売るのだって、止めれるかわかんない……」

 小さい彼女の頭を撫でる。

「一緒に考えよう。他に道がないか二人で探そうよ」

 か細い彼女の身体を抱きしめる。

 ゆっくりと、愛は顔を上げる。

「ほんとうに、わたしなんかでいいの」

 愛は頷く、彼女の目を見て、優しく微笑む。

「愛ちゃんがいい。愛ちゃんじゃないと嫌だよ」

 溢れる愛の涙を指で拭う。

「好きだよ……愛してる」

 囁くように口にし、綾香は愛にキスをした。

 


 

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