NINE・悲しみに暮れ果てる
Cease the 人間破壊
中学を卒業保留中であり実質は中退した
戦い、なのだ、ホンモノの学究とは。
カナエは紫華が本を買ったり美術館へ行ったりクラシックのコンサートを聴くためのお金を必要経費として支給しようとしたが紫華は断った。
「給料だけでいい」
「どうして」
「だって、わたしたちの曲を聴いたりライブに来てくれる人は全員、『自腹』だから」
紫華のそれはほとんど修験者のごときだった。
「
紫華から誘われて池袋西口の美しいコンサートホールに「運命かよ」とこの世で一番有名な、ベタなものにでも触れるようにベートーベンを渋った馬頭はけれども演奏と、特にヴァイオリニストたちが弓の激しいストロークと弦を掻き切らん勢いの摩擦でキラキラとステージライトに反射させる松ヤニの飛散に引きずり込まれてコンサート会場を出た後に何気なく紫華の目を見ると。
「紫華・・・大丈夫なのか?」
「うん。平気」
本当に血が流れたぐらいの目の充血なのだ。
眼前に繰り広げられる音楽という名の『戦い』から目を逸らさずにはいられない紫華もまた、自分が現世のベートーベンであるかのように客席のシートで戦っていたのだ。
「ウコク、絵が観たい」
まるで父親にするようにウコクにねだった紫華は不忍の池を彼と並んで散歩してたどり着いた美術館でいくつもの絵を観てまわった。
小さな額縁の油絵の前に並び立つふたり。
「決して著名な画家の作でもないが、ネットで見つけてね。ここで常設されていることが分かってから何度も観に来たよ」
ウコクが紫華にそう言ってきかせるその日本人が描いた西洋画は、赤子を抱いた母親がそっと乳房を含ませるシーンだった。おそらくモデルは彼の妻子なのか、背景は濃いグリーンの壁で母子が見つめ合うようなアングルで赤子は目を閉じて生きんがために必死で唇をすぼめている。
ウコクと紫華は誰もが通り過ぎていくその小作品の前で何時間も過ごした。
「小説、教えて」
紫華は工場で働いていた時の
「俺の嗜好は偏ってるぞ」
「いい。素敵」
素敵、と紫華から言われて大人である自分がときめいたこと自体を蓮花はとても文学的に感じ、東京駅の八重洲口にある本屋に紫華を連れてきた。
「俺が好きなのは太宰治、内田百閒、大江健三郎、三島由紀夫。小学生の時からの愛読書は灰谷健次郎の『太陽の子』だ」
「ふうん。これは?」
紫華は文庫コーナーの『む』の棚から文庫にしてはコンパクトな辞書のように厚い本を引き抜いた。
「村上龍。『コインロッカー・ベイビーズ』か。文章でロックの爆音を書いたような小説だ」
「そうなんだ」
ふたりが文芸のフロアを見て紫華も蓮花も幾冊かの小説を買った後、経営書のコーナーへ行った。
「俺は工場の中のいちラインの管理者でしかなかったけど、でも、マネジメントを学ぶために経営者たちの本も読んだぞ」
「すごい」
ほんの少女でしかない紫華に『すごい』とおだてられて蓮花は気分良く自分のサラリーマン時代に触れた経営書を紫華に紹介する。蓮花は強調した。
「経営者は全員、中二病さ」
「中二病?」
「『現実的』っていうのは現実世界で自分の描いた絵を実現するってことだ。先回りしてできそうにないことを排除するのが現実的だなんて言う奴がいるがそれは違う。だって、俺は自分が担当するラインで実際にお客さんたちに売るための製品を形として作らなきゃならなかった。顧客が示した仕様書に対して『できる』ように資材もマシンの設定も、それから一緒に働く仲間たちのココロも、作り上げていくのさ。無理なくな。俺が指を失ったのは大橋のミスじゃない。俺のプロセスがどこか間違ってたのさ」
「蓮花。カッコいい」
「・・・おだてて俺をどうしたいんだ」
「わたしも蓮花の『仕事』みたいな音楽を作り上げたい」
「そっか・・・じゃあ、もうひとつ行くか」
蓮花はフロアを移動した。
紫華を連れてエスカレーターで降り立ったのは歴史のフロアだった。
「紫華。戦争を知ってるか」
「知らない」
「俺は知ってる」
まだ二十代の蓮花が言う戦争とは、9.11アメリカの同時多発テロだった。
「航空機がミサイルのようにビルを崩落させた」
賢い紫華は、崩れ落ちるそのビルの中と、航空機の中に居るのが、生きた人間であることを瞬時に悟った。
蓮花はつぶやく。
「人が人を殺す理由はなんだ」
更につぶやく。
「ウコクが奥さんと娘さんを殺されなきゃならなかった理由はなんだ。ウコクが通り魔を殺さなきゃならなかった理由はなんだ」
沈黙する紫華に蓮花はまだ続けた。
「天災と名付けられたそれで馬頭が両親やバンド仲間を失わなきゃならなかった理由はなんだ。紫華」
「・・・・・」
「紫華がどうしていじめに遭わなきゃいけなかったんだ・・・カナエも・・・理由はなんだ」
「蓮花が小指を失くした理由ときっと同じ」
大勢の人がいたが、蓮花は紫華を抱き締めた。
振り返るひとたちの前で、声を上げて泣いた。
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