RUN 4 U
走るなら早朝。
早朝かつ山。
山かつ悪路。
悪路かつ獣道。
行け。
「今日はお忙しいところありがとうございます」
「いえ。こちらこそ。楽しみにしていました」
カナエの軽四ワゴンで現地集合の東京近郊の山に着くと『ランナー』は既にアップを終えて待っていた。カナエがバンドメンバーにその女性ランナーを紹介する。
「わたしが紹介するまでもないわよね。マラソンランナーの小里千鶴さんよ」
「よろしくお願いします」
全員、彼女を知っていた。
4年前のオリンピックで女子マラソン銅メダルとなった実業団ランナーだった。
「メダリストか」
「馬頭さん。わたしはメダルのために走ったんじゃありません」
「じゃあなんのためですか」
「あなたのためです」
「え?」
馬頭は瞬時にああまたか、と思った。
『わたしの走る姿を見て勇気を与えられたら』
そういうハンコのようなコメントを聞く度に、勇気を与えられるのはまだ救いようのある相手に対してであり、自分のかつてのバンドの盟友たちが震災ですべて死に絶えたような絶望をスポーツごときで救えるのかと反発する馬頭ではあった。だが小里は信じがたいことを言った。
「わたしが走らないと世界が滅びる。世界が滅びたらあなたも死ぬ。だからあなたを救うために走ったんです」
カナエは黙ったままでいる。
馬頭が胡散臭い目で見つめる中、けれども他のメンバーはカナエと同じように合点しているようだった。小里の言葉を静かに待つ。
小里は続けた。
「皆さん。『ただ走るのが好きだ』。そういう人は自らの楽しみの範囲で走っていていい人たちです。わたしは『走らざるを得ない、走らずにはいられない』その一心でした。わたしはこの両脚を得て生まれてきました。ならば、走るのがわたしの使命だと。それだけでした」
小里は銅メダルを獲った後に長い競技人生で脚だけでなくあらゆる臓器を自らのトレーニングと節制によって破壊し尽くしていたために競技者としてのランナーは引退した。今はランニングの指導に当たるフリーのトレーナーをやっている。
その彼女がこう言った。
「あなたたちの四肢は音楽を演奏するために与えられたんです。ならば、それが使命です。つまり、あなたたちがこの世界を崩壊させないための重要なピースなんです。そういえばバンドの単位を示すのにもピースというんですね。だからあなたたち4人はこの世界のぽっかり空いた穴を埋め尽くすその絶対無二の4ピースバンドなんです。わたしはたまたまそれが走るというピースだった。わたしが走らないと世界は崩れた。今はこうしてランニングを指導することが世界を崩壊させないためのピースです」
聡明な馬頭は瞬時に理解した。
「走ります。頂上まで」
そう言って小里はその獣道を駆け上がり始めた。
小里の後にバンドメンバーが続く。
ウコク、
小里は一定のスピードを保つ。
ただし、後続者たちの脚に乳酸が溜まり始めようとも膝が痛み始めようとも容赦がなかった。
「武士のつもりで!」
言われた瞬間には5人は理解しがたかったが、こう言われると何も言えなくなった。
「この山はかつて武士同士の攻防があった戦場です! 戦闘の真っ最中、肺が苦しいからと止まればそれは即、死を意味します! 走るんです!」
走らざるを得ない。走らずにはいられない。
5人は思い思いのイメージで想像した。
若武者が武功を挙げるべく古参の老将の首を短刀で搔こうと挑み掛かるシーン。
木立の間隙を素晴らしい毛並みの黒い馬がターンを繰り返し白兵を踏み殺すシーン。
弓の名手が敵兵の移動スピードを予測してその地点を射抜く高等技術。
それらすべてに、『走る』という基礎運動・スタミナ・精神力、というベースがあって始めて可能なのだ。
ならば、ロックン・ロールとて同じことだろう。
そして小里はなんども強調した。
「実践しか意味がないんです! これはこの地をおそらくは男子マラソンの世界記録を遥かに上まわる、いいえ、男子100mの世界記録を遥かに上まわるスピードで数時間・数十時間・数日すら走り続けた武士たちの、実戦の、人が生き死にしたその場所なんです! 走れっ!」
肺が苦しいとかどうこうではなかった。
脚が痙攣間際とかどうこうではなかった。
自分たちが走るのをやめると、世界はその抜け落ちたピースの部分からガラガラと崩れ去ってしまう。
「はっ!」
気合の声を発したのは紫華だった。
細い、けれどもいじめという辛酸の中で精神面から築き上げられてきたその体幹と骨格とで加速する。ウコクの前に出る。
「ほっ!」
ウコクも最高齢の身体に鞭打ち太腿を上げて追走する。
蓮花が心理面で引っ張られて走りがスムースになる。
「くそう」
馬頭は意識に体が追いつかない。カナエが背後から馬頭の尻を手のひらで軽く、パン、とはたいた。
「馬頭! 行きましょう!」
呼気が吸いきれないぐらいの苦しみの中、けれどもカナエの女性らしい柔らかな手のひらの感触に不思議な感情を抱く馬頭。
『カナエって、いいよな・・・』
視線を下げないように小里に率いられる総勢6人は一列縦隊で戦場をうねる獣道に沿って山頂へ向かった。
横や背後から襲ってくる敵を事実存在するものと捉えてレーダーで捕捉せんとし続けながら。
そして、ぶわあっ、という音がしたのではないかという風に視界が開けた。
「ああ・・・」
海だった。
標高数百メートルのその山頂から、6人は海を見下ろした。
海にはいく種類ものタンカーや貨物船、それを着岸地点までエスコートするタグボートが、スクリューの白波を静止画のように青の海の上に引いていた。
小里が振り返った。
「わたしたちは、勝ちました」
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