第6話 何色のワイヤーでもザイルでも、場所を間違えたら意味がないのです。
「なんで?」
「はい?」
「なんで官僚になってくれなかったんですか?先生が官僚になってくれたら私は監禁されずにすんだんですが」
もしかしたらこの質問は椎名を傷つけるかもしれないけど、それでもいい。
人のことスフィンクスとか死刑囚とか……いやそれ以前に拉致監禁してるんだから、この男は!
「父母が死んだからです。僕はもともとスナフキンになりたかったので」
「それがなんでうちの教師に?」
「公務員だからです。官僚も広義の公務員でしょう。でも、美術の教師なら絵を描くこともできます。父母の希望と僕の希望の妥協点ですね」
「えー、なら好きなように生きればよかったのに。失礼ですけど、もうご両親はいらっしゃらないんですよね?さすらいのスナフキンだって南海の孤島住みのゴーギャンだって先生はなんにでもなれたじゃないですか」
まあ絵が売れるかは別だけど、その辺は私はどうでもいいのです。
とりあえず椎名に出会いさえしなければこんな目に会わなくてすんだのだと、もうそれだけなのです……。すでに私は半分悟りの境地なのです……。
「なれません。僕は何にもなれません。僕はからっぽです。ときどき、何もなさ過ぎて生きているのもどうしてわからなくなります。でも!」
椎名が頭を一振りした。
セットしてある髪がすこし揺れて、メガネの奥の瞳がマンガみたいにキラキラしたような気がした。
……見間違い、気のせい、勘違い。うん。
「神部さんに出会って僕は満たされました。視界の端をきみの黒い髪をかすめるだけで息が止まるほど嬉しいんです。きみがいるというだけでこの世界まで愛おしく思えます。僕は神部さんのおかげで喜びや楽しさや色々なことを学ぶことができました。
ありがとう、神部さん。僕にこんな感情をくれて」
う、と息が詰まった。
どうしよう。椎名の言葉への整理がつかない。
コイツははた迷惑で自分勝手でこれから私に何をするかわからないような監禁犯で……でも、いまの椎名は、プレゼントを純粋に喜ぶような無邪気なちいさな子供に、見えた。
そのとき、また、椎名のポケットからピッとアラームの音がした。
「神部さん、食事は?」
「終わりました」
「そうですか。僕も終わりました。では、そろそろ時間ですね」
椎名の笑みが悲しそうなものに変わる。
あ……とうとう殺されるのかな……。
なんか、さっきと違って現実感がないな……。
こんな風になるのなら、あんなに椎名と喋らなければよかった。
椎名のことなんか、知らなきゃよかった。
椎名がポケットから長い赤いワイヤーを取り出す。
きっと私の首に巻かれるんだろうなと思ったそれを、椎名は自分の左手の薬指に縛り付けた。
そして釣りをするみたいにワイヤーを私の方へ投げ出してくる。
「最後のお願いです。それを神部さんの指のワイヤーと結んでください」
は?
呆然と目の前の赤いワイヤーを見つめている私に、椎名は繰り返す。
「お願いです。どうか」
そこでようやく私は、自分の左手の薬指にも中途半端に長いワイヤーが結んであったことを思い出した。
手錠とか鎖とか宇宙人椎名のトンチキな言動のせいで、そんなのすっかり忘れていた。
「ああ、大丈夫です。神部さんと心中しようなんて不敬なことは考えていません。ただ、一度だけでいいんです。一度だけ。神部さんの運命を僕に下さい」
左手。
薬指。
赤いワイヤー。
運命。
あ、わかった。
わかっちゃった。椎名のしたいこと。
でもやっぱり椎名はバカじゃないけどバカだ。ゴールデンにバカだ。
「……先生、運命の赤い糸は小指に結ぶものです」
「えっっ!!!」
「薬指は結婚指輪です」
「ええええっっ!!」
「もしかして本気で知らなかったんですか?」
「はい……」
椎名がその場にへたり込む。
そして、頭を抱えた。
「僕はいつもこうなんです。肝心な時にミスをする……」
「同意ですね」
「あの……」
頭を上げた椎名が何か言いたそうにしたので、私は間髪入れずに答えてやった。
「小指に結び直すのはイヤですよ」
「やっぱりイヤですか」
「当たり前でしょう。なんで拉致監禁犯と運命の赤い糸を結ばなきゃいけないんです」
「そこはひとつ曲げていただいて……」
「曲げません」
「まあそう言わず」
「ま・げ・ま・せ・ん」
私がゆっくりくっきり言い放つと、椎名は何事かうめきながら再度床に崩れ落ちた。
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