第14話 『今夜は君と』

 午前一時を迎えた部屋には、独特の雰囲気が漂っていた。


 宵をとうに過ぎた暗がりの中、窓から差し込む月明かりだけが、室内をぼんやりと照らしている。


 どうやらカーテンを閉め忘れていたらしい———だが、今夜の月は、遮るにはもったいないくらい綺麗な輝きで、深い闇に包まれる町を見下ろしていた。


 今夜は清夜だ。


 そんな、虫の音も聞こえない森閑とした部屋の中———智悠ちひろの心臓は、かつてないくらい激しく脈打っていた。


 ドクドクドクドクと。

 まるで早鐘を鳴らすかのように。


「智悠さん、先程からお顔がとても赤いですけれど、一体どうされたのですか?」


「い、いや………何でもない」


「とても何でもないようには見えませんが………」


 動悸が止まらない智悠の顔を、不安げに見つめる少女が一人。


 ハナは、心からの心配を帯びた瞳を、目の前に横たわる紅顔の少年に向けていた。


 その距離が、近い。かなり近い。


 お互いの息がかかる距離で、相手の瞳に映る己が見える近さで、智悠とハナは見つめ合っている。


 それもそのはず、今の二人は—————


「すいません。家に上げていただいただけでもありがたいのに、こうして寝床まで用意していただいて……」


「き、気にするな。困った時はお互い様だろ」


 申し訳なさそうに謝ってくるハナに、努めて平静を装ってそう返した———ベッドに並んで横たわった状態で。


 同じ布団に入った状況で。


「それにしても、やっぱりシングルベッドに二人はキツいな……」


「す、すいません。やはり智悠さんが一人でベッドを使ってください。私は床で寝ますから」


「いや、女神に雑魚寝なんてさせたら、一生ものの天罰が下るから。ここは僕が床で寝よう」


「いやいや、そんなことで天罰を下すほど女神族は短気ではありませんし、何より宿主を差し置いてベッドを使うわけにはいきません。やはりここは私が」


「いやいやいや、天罰はともかく、女の子を床で寝かせて自分だけベッドを使うのは流石にないだろ。だからここは僕が」


「いやいやいやいや」


「いやいやいやいやいや」


 なんて、イヤイヤ期の子どももかくやと言わんばかりのやり取りを数分繰り返した末、気がついたら同じベッドに二人並んで収まっていた。


 狭いシングルベッドの上で、一組の男女が同じ布団の中。


 智悠が恐れ、何とかして回避しようとしていた事態が、一人の憎たらしい妹のせいで、見事に実現してしまっていた。


真綾まあやの奴、余計なことを……」


 きっと今頃、一仕事達成した後のような幸せそうな笑顔で眠りこけているであろう妹に向けて、怨嗟の言葉を吐き出す。


 願わくば、悪夢にうなされていますようにと。


 そうでもして気を紛らわせなければ、否が応でも意識してしまうのだ。


 目の前、同じ体勢で横たわる少女を見遣る。


 月の光を反射する艶やかな黄金色の髪。

 風呂上がりの頬は熱っぽく上気し、浅葱色の瞳は薄明かりの中でも鮮麗な輝きを放っている。


 そして、緩んだ胸元から覗く豊麗なおっぱい。


 ブラジャーの拘束から解放された二つの乳房は、寝ている彼女の両腕に挟まれ、形を変えながらその圧倒的な存在感を主張していた。


「………これは、ハナ用の寝巻きを買いに行かないといけないな」


 見事に出来上がった乳の峡谷から必死に視線を逸らし、そう口の中だけで独りごちる。


 身一つで人間界に来たハナは、もちろんお泊りセットを持っているはずもなく、寝巻きは真綾のお古を借り受けることになった。


 ただ、真綾とハナでは、同じ女子でも身長差がかなりある。


 結果、かなりのオーバーサイズになってしまい、先程からハナの巨乳がさらなる破壊力をもって智悠の網膜に襲いかかっているのだ。


「ん………」


 やはりシングルベッドに二人は狭いようで、ハナは据わりが良い体勢を探すように身じろぎする。


 その度に聞こえてくる艶かしい声、衣擦れの音。


 そしてオーバーサイズの寝巻きがはだけ、彼女のあられもない乳房が見え隠れする。


 深夜の女神が醸し出す妙に色っぽい雰囲気に触発され、智悠の心臓と下半身は、既に限界に達そうとしていた。


 ドクドクドクドクと、心臓が脈動し。

 ムクムクムクムクと、息子が隆起する。


 全身を流れる血液が、全て下半身に送られるような錯覚。


 これ以上はまずい。

 息子が最終形態になったら最後、すぐ隣で眠るハナは真っ先に異変に気づくだろう。


 女神様の口から、『あれ? 何か当たってる……?』なんて言葉は聞きたくない。


 お終いになる前に、何とかしてお仕舞いせねば。


(心頭滅却心頭滅却心頭滅却…………落ち着け、落ち着くんだ………そうだ、素数だ、素数を数えろ……素数……素数………あれ? いちって素数だっけ……?)


 立派に成長しようとする己が茎を鎮めるべく、脳内で心を無にしようとするも、一度エロスに支配された脳味噌は中学数学の知識さえも消し去ってしまう。


 幼少期から友人関係を上手く作れず、恋人なんて欲しいと思ったことなど一度もない智悠だけれど、それでも、だからといって性欲が全くないと言えば嘘になる。


 女性の大きい胸を見れば興奮するし、大きいお尻を見ればドギマギもする。


 人間、恋人がいようといまいと、エロスを追い求める心は皆共通なのだ。


 そして今、そんな性欲を持て余した思春期の童貞が直面しているのは、ロリ巨乳娘との同衾イベント。


 土台、意識するなと言われる方が無理な話である。


 それでも狼に変化する間際、智悠が後一歩のところで踏み止まれているのは、目の前で眠る少女が人間を超越した存在であるという事実、ただそれだけだ。


(この子は女神、この子は女神、この子は女神………っ!)


 出会って間もない女の子、しかも本来手の届かないはずの存在に手を出すことへの抵抗感。


 持ち得る限りの理性を総動員させ、湧き上がる情欲を倫理で捻じ伏せ、何とか息子を落ち着かせた。


「………そう言えば、やっぱり天界には帰れそうにないのか?」


 何かを話していないとまたぞろエロい気持ちになりそうなので、努めて平静を装いながら、智悠は気になっていた話題を持ち出すことにした。


 エロとは関係ない会話で気を紛らわせる作戦。


 小日向こひなた智悠はクールに喋るぜ。


「はい。お二人がふざけている間に何度か試しましたが、やはり無理でした」


「いや、だから別にふざけてたわけじゃあないんだが……何か原因に心当たりは?」


「それが、どうやらお母様の仕業みたいなのです」


「お母さん?」


「はい。天界にコンタクトを取ったところ、お母様に言われました。『下界に行くと決めた以上、半端は許さない。一年の役目を全うするまで天界には戻らず、下界で暮らすように』って」


「すごいお母さんだな」


「それで、私がこちらに来て間もなく、天界に繋がる門が閉じられてしまったみたいで」


「その、門を閉じるってのは?」


「天界は女神族だけが入れる場所なので、入るためには最高神の許可が必要なのです。逆に言えば、許可が下りなければ、天界に入ることはできません」


 つまり、ハナは天界に入る許可とやらが得られなくなったということか。


 本人はあっけらかんと語っているが、要するにハナは自分の家を閉め出されたことになる。


 この世界でも、悪さをした我が子を家から閉め出した話はよく聞くけれど、まさかそれを一年間も継続する家庭などないだろう。


 流石は女神の母親、考え方が常人とは違う。


 可愛い子には旅をさせよとか、獅子の子落としとか、そういう話だろうか。


 どちらにしろ、『慈愛』を司る女神の母親らしいと言えばらしい教育方針だ。


 だが、当人はあまりそれを快く思ってはいないようで、


「私はあまり出来のいい方ではないので、もうちょっと優しくしてくれても良いんじゃないかなって思います」


 と、見た目にふさわしい膨れっ面で、母親のスパルタ教育に不満を垂れた。


「ああ、そう言えば、ハナって見習いなんだっけ」


「そうですよ。天界にいた頃は、立派な女神になるための修行の毎日でした。私は一人娘なので、特に厳しく育てられて………」


 当時のことを思い出したのか、若干苦い顔をするハナ。


 案外、ハナが下界に行きたいと思ったのも、厳しい母親から逃げるためだったのかもしれない。


 そう思うと、目の前の超常の存在に親近感が湧いてきた。


「そう言えば、お二人の親御さんはどんな方なのですか?」


 ふと、ハナがそんなことを聞いてきた。


 言われて、今更ながら、妹は紹介したのに、まだ親については教えていなかったことに気づく。


「どんな方って言われても、別にどこにでもいる普通の親だと思うけど」


「今日はいらっしゃらないようですが……」


「昔っから放任主義なんだよ。二人とも仕事人間だから」


 何せ、労働こそが自分たちの使命だと謳うような人たちだ。


 深夜の帰宅は当たり前だし、仕事の都合上、今日のように帰ってこないことも日常茶飯事。


 たまに帰ってきたと思ったら、朝起きた時にはもう家を出た後、なんてこともある。


 淡々と小日向家の内情を説明すると、ハナは何とも言えない微妙な表情で、


「それって、寂しくないですか?」


「別に大丈夫だよ。家にお金入れてくれて、学費払ってもらってるんだから文句はない」


 愛情とかよりも、子供にはできないことを補ってくれることが、親になった者の義務であると智悠は思う。


 幼年期ならばともかく、高校生にまで成長した今となっては尚のこと。


「まあ、一人っ子ならそう思うのかもしれないけれど、うちにはあいつがいるしさ」


 言って、真綾の部屋の方に視線を向ける。


 今頃は夢の世界に旅立っているであろう喧しい妹がいるせいで、親との関わりがなくとも退屈しない毎日だ。


 彼女と実質的な二人暮らしをするようになってから長いが、不便や物足りなさを感じたことはない。


「それに、親がそんなだから、僕も真綾も一人で生活できるだけの家事スキルは身につけられたからな」


 特に真綾は、中学校に入学したあたりから料理の腕をメキメキと上げてきた。


 智悠はあっさりと先を越され、今では小日向家の料理当番は真綾が独占している。


「だからまあ、僕的にはアットホームな良い家庭だと思ってる」


「家ならアットホームなのは当たり前だと思いますが……」


「それに、今回はむしろそっちの方が都合が良かったしな」


 両親が不在だったおかげで、すんなりとハナを匿うことができたのは幸いだった。


 頭が弱いかつ物分かりがいい真綾ならまだ言いくるめられるが、流石に親を説得するとなると話は変わってくる。


「すいません、私の勝手な都合なのに」


 まだどこか後ろめたさが残っているのか、ハナはそう言って表情を曇らせた。


「気にすんな。さっきも言っただろ、困った時はお互い様だって」


「でも……」


 気休めの言葉をかけるも、自責の念に駆られる彼女は浮かない顔のままだ。


 このままだとまたもや不毛な水掛け論が始まりそうだったので、智悠はある提案をすることにした。


「それでも満足できないなら、こうしよう。これは、三途の川で僕を助けてくれた恩返しだ」


 思ってもみなかった智悠の言葉に、ハナは目を丸くする。


「恩返し、ですか?」


「ああ、そうだ。あの時ハナが助けてくれなかったら、僕はずっとあそこを彷徨うことになってたんだろ?」


 それだけじゃない。


 ハナに手を差し伸べられなければ、智悠はこうして生き返るチャンスすら与えられなかったのだ。


 たとえ彼女の思惑が別にあったとしても、人生を失わずに済んだことに変わりはない。


 終わりのない貸し借りの落とし所としては、ここらが良い塩梅だろう。


「だからこれはそのお礼ってことで、どうだ?」


 ハナはしばらく考え込む素振りを見せた後、


「———わかりました。あなたの恩、しかと受け取らせていただきます」


 そして、憑き物が落ちたかのような、晴れやかな微笑みを浮かべた。


 その陽だまりのような笑顔に、必死の思いで下火になった情欲が、再び心底で燃え上がるのを感じる。


 だから、深夜の魔法で狼に変えられる前に、


「さ、さあ、もうそろそろ寝ようぜ。明日……いや、もう今日だけれど、流石に起きられなくなる」


「そうですね」


「これから本格的に任務の方も頑張らないといけないし」


「あっ、そうだ。その任務に関してなのですが、一つ大事なことを伝え忘れていました」


「大事なこと?」


「はい。天界に連絡を取った際、新たな通達が来たのです。何でも、今回の件は非常に責任重大な案件なので、あのお母様が直々に智悠さんの裁定に加わるそうです」


「………あの、実はさっきから気になってたんだけど、ハナのお母さんって何者なの?」


 娘のためだけに天界の門を弄る突飛さもそうだが、彼女を語るハナの言葉の随所に感じられる、得体の知れない大物のオーラ。


 気になって尋ねたものの、しかし智悠はこれを盛大に後悔することとなる。


 ハナは言った。


「最高神ルーナ=エンジェライト———それが、私の母の名です」


「さ———」


 最高神。


 その単語の響きに卒倒しそうになる智悠を、続くハナの言葉が繋ぎ止めた。


「最上位の女神であるお母様には、この世の全てが見通せます。そんな全知全能の神が、今、あなただけを見ている。————ですから、智悠さん」


 そして、最上位の女神の娘は、その幼い顔に蠱惑的な笑みを湛えて。


「———えっちぃことは、禁止ですよ?」


 その瞬間、沸騰しかけていた全身の血が急速に引いていくのを感じた。


 果たしてその時、ナニかは当たっていたのか、いないのか。


 その答えは、夜空照らす月のみぞ知る。

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