第15話 『来訪者は突然に』
天界への召喚。
女神との邂逅。
女神が参戦した高校生活。
そして———女神との同棲。
特筆すべきイベントなど何もなく平坦に続くはずだった人生の筋道が、ぐにゃりぐにゃりと捻じ曲がり、ファンタジー感溢れる非日常の日常を送ることになってから、幾ばくかの時間が経とうとしていた。
改めて振り返ってみると、怒涛の如き展開で、まるで現実感がなく、天界に召されたところから全てが幻だったのではないかと思ったりもする。
実は、全ては事故死の間際に見ている夢なのではないか、ふとした瞬間に目が覚めて、逝くべき場所に逝ってしまうのではないか。
そんな一抹の不安を抱えながら朝に目を覚ませば、目の前には件の女神がいる毎日。
女神、ハナ=エンジェライト。
そして、同級生にして同居人、
女神と交流を持ったことに比べれば、トラックに轢かれたことなんて、取るに足りない些細な出来事のように思えてくるから不思議である。
それが全ての始まりだったはずなのに。
もう、遠い昔のことのように感じる。
………と、中二男子もかくやと言わんほどの痛々しいことを考えてしまうのは、ひとえに毎日が刺激的になった反動だと言えよう。
ハナとの共同生活(妹のおまけ付き)は、驚くほど順風満帆に進んでいった。
帰る場所がない彼女のために成り行きで始めた同棲だけれど、二人暮らしの一軒家に人一人が増えたくらいで、そう易々と生活環境が変わるわけでもないようだ。
一緒にご飯を食べ、学校に行き、帰宅する。
身体に刷り込まれたライフスタイルは大きく崩れることもなく、当意即妙の三人暮らしは大した波乱も起きずに時間だけが過ぎていった。
相変わらず、
ただし、あの日以来、智悠の側に身分不相応の劣情が抱かれることはなくなっていた。
———否、抱かないように頑張っていた、の方が表現として正しい。
『最高神ルーナ=エンジェライト———それが、私の母の名です』
夜空に浮かぶ月を背景に呟かれたハナの言葉が、智悠の性欲を抑えつける良い釘になってくれていた。
最高神の娘を毒牙にかける。
その行いがどれだけの不敬に当たるのか、無宗派の智悠にも流石に理解できる。
ましてや、ハナの話によると、その最高神のお母様とやらは智悠の任務を裁定するために、昼も夜も智悠のことを天界から覗いているらしい。
「あれ? だったら、監視役のハナの立場がなくないか?」
「…………いや、その、や、やっぱり、より近くで観察できる存在はいるべきだと思いますよ。ええ、そうですとも。近くにいなければわからないこともあると思います」
ある時、何の気なしに疑問を口にすると、ハナはまるで自分に言い聞かせるように言って、目をあっちこっちに泳がせていた。
その細部の詰めの甘さ、この子は本当に、ただ純粋に下界を満喫したかっただけなんだなあ、と智悠は思う。
そうまでして彼女が人間界にどんな魅力を感じているのか、皆目見当もつかないが。
閑話休題。
気を抜けば湧き上がるムラムラに辛くも勝利する毎夜を繰り返す内に、気がつけば、あの日から一週間が経とうとしていた。
今日は金曜日。
長かった一週間の終わりであり、学生が平日でもっとも活気づく日でもある。
過酷な学校生活を耐え抜いた達成感、明日から二日間も休日だという多幸感。
学校にさしたる思い入れもない智悠にとっては、金曜放課後のこの解放感こそ最高のエクスタシー。
本当、平日が毎日金曜日なら良いのに。
プレミアムフライデーならぬエブリデーフライデー。
どうでもいいけれど、エブリデーフライデーなんて言うと、何だかアニソンっぽい。アイドル声優がダンス付きでエンディングに歌ってそう。英語表記にするとさらに。
「では皆、さようなら。気をつけて帰ってくださいね」
一週間で溜まった疲れからか、頭の悪いことをつらつらと考えている内に、いつの間にやらホームルームが終わっていた。
担任教師の挨拶もそこそこに、各々が放課後に向けて準備を始める。
いそいそと帰りの支度を整える帰宅部に、突然ジャージに着替え始める運動部。
部室で着替えれば良いものを、何故わざわざ女子もいる教室で脱ぎ始めたのか甚だ疑問だが、筋肉自慢でもしたいのだろうか。
心の中だけで「はいはい、バルクバルク」と熱のこもった掛け声を送りつつ、筆箱を鞄に投げ入れた智悠は、ちらりと左隣に視線を向けた。
隣に座るハナは、三、四人のクラスメートの女子たちに囲まれながら、楽しそうに談笑していた。
彼女が転入してきてから一週間。
当初はクラスメートほぼ全員が群がっていて半ば鬱陶しかったけれど、物珍しい金髪碧眼ロリ少女にもしだいに慣れたのか、今はこの通り、何人かの女子グループが軽く話しかけるくらいにまで落ち着いていた。
会話の内容にそっと耳をそばだててみれば(不審)、聞こえてくるのは当たり障りのない女子高生らしい話題だ。
人間界のことを知らないハナはほとんど内容を理解できていないはずなのだが、持ち前の当たりの良さを活かし、ニコニコ笑って絶妙なタイミングで相槌を打っていた。
こういうのをして、人に好かれる才能と言うのだろうか。
十数年間を人間だらけの世界で過ごしてきた男よりも、やって来て一週間の女神の方が人と上手く関わっているという事実に、思わず苦笑が漏れ出る。
転入初日にわかりやすいボロを出しそうになっていたし、正体が怪しまれないかと懸念していたけれど、この分なら問題なさそうだ。
「……まあ、まさか目の前の女の子が女神だなんて、誰も信じないだろうけどな」
その呟きが聞こえたわけではあるまいが、ハナはそこでクラスメートと別れの挨拶を済ませると、トコトコとこちらにやってきた。
「もう良いのか?」
「はい、待っていてくれてありがとうございます。では、行きましょうか」
「おう」
筆箱しか入っていないペラペラの鞄を引っ掴み、教室を出る彼女の背中に続く。
今までの流れならば、このまま昇降口に行き、真っ直ぐ家路についていたのだが、これからは違う。
夢でも幻でもない放課後の時間が、今の智悠にはあるのだ。
教室を出た二人は、特別棟の四階———此度加入した謎の部活、有志部の部室へと足を向けた。
* * * * *
部長の
高校生ならば誰もが一度は聞いたことがあるであろう、マズローの欲求五段階説の頂点、高次欲求にして人類が求める到達点。
そんな学問的な話をこれ見よがしに鼻を高くして持ち出すわけではないけれど、生徒たちの悩みを聞き、問題解決のための手助けを行い、自己実現、自己変革を促すことが主な活動内容だそうだ。
まさに生き返るために『人助け』を責務とする智悠にとって、誂えたかのような格好の部活動。
一日の大半を学校で過ごさなければならない彼が導き出した、務めを果たすための最適解である。
そして、そんな理念のもと、今現在、部員の面々が何をしているのかというと———
「ねえ、智悠君」
「何ですか、雪菜先輩」
「突然だけれど、『第一回ゾッとする台詞選手権』をやらない?」
「本当に突然ですね。何ですかそれ?」
「これからお互いにゾッとする台詞を言い合って、どちらの台詞がよりゾッとしたかを競うの」
「企画の陳腐さにもうゾッとしましたけれど………まあ、良いですよ」
「じゃあ、先攻は私ね」
「どうぞ」
「智悠君の昨晩の夕食、とってもおいしそうだったわね」
「先輩の勝ちで良いです」
智悠と雪菜は、そんな小学生レベルの低次な遊びに講じていた。
生徒の生徒による生徒のための活動———そんな高尚な理念など見る影もなく、有志部の部室には弛緩した空気が流れていた。
上級生のストーカーじみた発言に凍った背筋を温めようと、智悠は彼女が入れてくれた紅茶に口をつける。
智悠好みの温度になった紅茶は、じんわりと身体に染み込んでいき、怖気を洗い流してくれた。
ほうっと一息、ほのかに熱のこもった吐息を漏らすと、
「———いや、おかしいでしょう!」
今まで二人のやり取りを黙って見ていたハナが、唐突に声を荒らげた。
まるでやる気のない生徒を叱咤する学級委員長のように、腰に手を当て、ぷりぷりと雪菜に詰め寄る。
「何ですか、今のくだらない遊びは!」
「何って、ただの暇つぶしよ」
「その暇つぶしで恐怖を植え付けられたんですがそれは」
雪菜は特にたじろいだ様子もなく、静かに紅茶を口に含むと、ゆっくりとティーカップをソーサーに置いた。
少し前までは安っぽい紙コップを使っていたはずなのに、いつの間にか部室には湯沸かし用の電気ケトルとティーセットが常備されている。
何でも、全て雪菜の自前らしい。
おかげで快適な放課後ティータイムを過ごせるようになったのだが、ハナは納得がいかないようだ。
「何なんですか、このダラダラした空気は。有志部の活動はどこにいったのですか? お悩みは? 人助けは?」
「これは仕方がないことなのよ、真白さん。だって、依頼人がいないんだもの」
頬を膨らませるハナに、雪菜は飄々と答えた。誇らしげですらある。
智悠とハナ、二人の新入部員を加えて有志部が発足してから一週間。
その間、この部室を訪れた迷える仔羊、もとい迷える生徒は一人もいなかった。
大仰な理念を謳ってはいるが、つまるところ、有志部の活動はお悩み相談室と言って差し支えない。
逆に言えば、この部活、相談者が現れない限り、そもそも仕事自体が発生しないのだ。
依頼人が一人もいない今、三人にできることと言えば、こうして放課後のティータイムを嗜むこと、そして思いつきのお喋りに講じることくらいだった。
廊下の喧騒も届かない特別棟の四階、夕焼けに染まる空を背景に、ただただまったり過ごすだけの時間。
そんな放課後が、ここ一週間は続いていた。
「ていうか、そもそもの話、ここに相談に来る奴なんているんですか?」
かねてより気になっていたことを、部の創始者に尋ねる。
意外にも、雪菜はコクリと頷いてみせた。
「そうね。何度か依頼がきたことはあるわよ」
「え、マジですか」
「例えばどんな依頼ですか?」
驚く智悠に続けてハナが訊くと、雪菜は記憶を探るようにぼんやりと虚空を眺めて、
「そうね………最近だと、職員室の書類整理とか、空き教室の清掃とかかしら」
「ただの雑用じゃないですか。そうじゃなくて、生徒が相談にきたことは?」
「ないわ」
「ないんだ……」
「定期的に職員室に呼ばれて、色々と手伝わされるだけの簡単なお仕事です」
「もはやただの便利屋じゃないですか……」
扱いの雑さがあまりに憐れで、ツッコミも弱々しいものになってしまった。
隣に視線を向けると、ハナは小さな口をポカンと開けていた。
理想と現実のギャップに思考が停止している様子。
有志部発足当時、ハナは部の理念に深く共感していたようだったから、その反応も無理からぬことだろう。
かく言う智悠も驚きを禁じ得ない。
確か、雪菜が智悠にストーカー紛いの勧誘活動を始めたのが去年の今頃だったから、一年以上この部活はまともな活動をしていないことになるのだから。
「悩みなんて、そう易々と人に話すものでもないのかもしれないわね」
「部長が言って良い台詞じゃないですけれど、一理ありますね。悩みを打ち明けるって、要は自分の弱みを見せるのとほぼほぼ同じですし……」
ため息混じりに身も蓋もないことを呟く雪菜に、智悠は同調の意を示した。
困った時は周りに相談しろとはよく言われる文句だが、自分の悩みを打ち明けるのには結構な覚悟がいる。
親しい人間に話すならばまだいくらか気が楽だろうが、今ここにいるのは何の関係性もない完全なる第三者だ。
そんな奴らのもとをわざわざ訪れてお悩み相談をする輩なんて、よっぽどの酔狂だとしか考えられない。
「それに、先輩やハナはともかくとして、僕みたいな空気に相談する奴なんていないでしょうし」
良し悪しはともかくとして、校内一の有名人である雪菜に、転入から一週間が経った今でも交友関係を広げ続けているハナ。
この二人に比べれば、智悠の存在など相談するに値しないのは明白だ。
自嘲でも自虐でも何でもなく、あくまで客観的な事実として述べたのだが、それを聞いた雪菜はムッと眉根を寄せた。
腕を組み、大きな胸を持ち上げる。
「智悠君、そんなに自分を卑下するものではないわ。あなたの偉大さは私が知っているもの」
「いやいや、まさか。僕はそんな器の大きい人間じゃないですよ」
「器? 何を言ってるの。おち◯ち◯の話に決まってるじゃない」
「あなたが何を言ってるんですか」
「だから、ナニを言っているのだけれど」
「駄目だ、話が噛み合わねえ!」
麗しき美女の口から『おち◯ち◯』なるワードを聞いてしまった。
何故かこちらが羞恥に頬を染めながら、思わず自分の股間を手で押さえる———果たして、彼女の発言の真偽は、受け手の想像にお任せするとして。
「真面目な雰囲気は一体どこへ………?」
ぼそりと聞こえてきた言葉に恐る恐る隣を見れば、上級生の直截的な下ネタにわなわな慄いている慈愛の女神の姿があった。
ついさっきまで呆然としていたはずなのに、一転、「駄目だこいつら……早く何とかしないと……」みたいな目を向けてくるのが心に痛い。
ともあれ、今ここに、『第一回ゾッとする台詞選手権』の終幕を見た。
最優秀賞は『おち◯ち◯』に決定。
最高にして最低の結果だった。
「んん……まあとにかく、今は辛抱強く待つ以外に選択肢はないでしょう。先生方からお呼びがかかるまでね」
「そっちを待つんですか」
「はあ……今日も誰も来ないのかなぁー………」
ぷくりと頬を膨らませ、愛らしい仏頂面でハナが机に突っ伏した、その時だった。
———コンコン、と。
まるで女神の祈り(フラグ)が天に届いたかのようなタイミングで、ドアを弱々しくノックする音が、下ネタで静まり返った部室に響いた。
「どうぞ」
雪菜がドアに向かって声をかけると、少し間を置いてから、カラリと音を立てて扉が開かれる。そして、
「し、失礼しまーす」
どこか緊張したような上擦った声で、一人の女子生徒————記念すべき初めての来訪者が、不意に有志部の門戸を叩いた。
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