第10話 『集いし者たち』

「では、この部活———有志部について簡単に説明するわね」


 上級生らしい厳かな口調で、篠宮しのみや雪菜ゆきなはそう言った。


 その言葉を受け、智悠ちひろとハナの二人は、どちらからともなく顎を引いた。


 現在、三人は部室の中央に置かれた長机を挟む形でそれぞれ腰掛けている。


 窓側に雪菜、そして彼女の真向かいに智悠、その隣にハナという座席配置だ。


 めいめいの手には、仄かに湯気立つ紙コップが握られている。


 中身は先程雪菜が淹れてくれた紅茶だ。


 どちらかと言うとコーヒー派の智悠は紅茶の知識には疎いので、詳しい銘柄はわからない。


 けれど、鼻腔をくすぐる甘い香りは、高級感漂う芳醇さだった。


 暦で言えば五月。徐々に夏が近づいている時分とはいえ、夕方はまだまだ肌寒い。


 カップの程良い熱は掌を伝って全身に流れ込むようで、冷える体にその温かさは大変ありがたかった。


 猫舌なのでフーフーと熱を冷ましつつ、ちびりと紅茶に口をつける。


 途端、口の中にマイルドな甘味が広がり———


「媚薬は入れてないから安心してね」


「ごふっ!? げほっ、ごほっ……!」


 唐突に放たれた雪菜の爆弾に、口元で赤橙色の液体が盛大に弾け飛んだ。


「あらやだ。大丈夫、智悠君?」


「ごほッ……だ、大丈夫です………僕は、大丈夫です」


 咳き込みながら、言外に『あなたは駄目です』との意図を込めたメッセージを送る。


 だが意地悪く笑う先輩には上手く伝わらなかったようで、


「全く、私は『入れてない』って言っただけなのに……」


「だったらわざわざ言う必要なかったですよね!?」


「ほら、拭いてあげるから」


 そう言うと雪菜はこちらに身を乗り出し、ハンカチでベタベタに濡れた口元を優しく拭ってきた。


 自然、前のめりの姿勢になり、両のまなこに制服越しの深い谷間が飛び込んでくる。


 逃げるように慌てて視線を上にずらすと、彼女の凄艶な笑みと目が合った。


「ふふ、どこを見ているのかしら?」


「……先輩、わざとやってるでしょ」


「だって智悠君の反応がいちいち可愛いから。ついついからかいたくなっちゃうのよね」


 智悠の口を拭いたハンカチを仕舞い、雪菜は邪気のない笑顔でそんな邪な気持ちを宣った。


 このサディスティックな先輩は下ネタ発言だけでは飽き足らず、時にこうやって直接的な方法で智悠に色香を振りまいてくる。


 彼女にとってはただ嗜虐心を満たすための行いだとしても、それをぶつけられる側からすれば堪ったものではない。


「堪らないなんて、智悠君ってばドMさんなんだから」


「堪らないの意味が違いますからね。僕が言ってるのは耐えられないって意味の方ですからね」


「………あの」


 と、そこで。


 二人の桃色のやり取りを隣で静観していたハナがおずおずと口を開いた。


 この先輩相手に横から口を挟むとは、なかなかやりおる。


 大抵の人はこの傍若無人な振る舞いに圧倒され、ポカンと呆けている———惚けていることしかできないのだ。


 見習いとはいえ、さすがは女神様。

 風紀を乱す不埒な行いは看過できないらしい。


 こっそりと「言ってやってくれ」とアイコンタクトを送ると、ハナはこくりと力強く頷いてくれた。


 純真可憐な女神は真剣な表情で指を立て、


「それで、有志部についての説明はまだですか?」


 智悠の読みは盛大に外れた。


 ただ単に、世間知らずならぬ人間界知らずの女神様にとって、媚薬の意味が理解できなかっただけのようだった。


 確かに、あんな長閑な楽園で過ごしていれば媚薬なんて無縁の代物だし、そもそもワードすら知らないのも無理はない。


 言葉通り、まさに純真で可憐な乙女である。


「あ、そ、そうね。そろそろ説明に戻りましょうか」


 ハナの反応は雪菜にも予想外だったようで、彼女は鼻白んだ様子ですごすごと椅子に座り直した。


 戻るも何も、始めから説明なんて一切していなかったと思うのだが。


 とはいえ、この場にハナがいてくれて助かった。

 そうでなかったら終始雪菜のペースに呑み込まれていただろう。


 それに、想定とは違えど勉強になった。

 このいちいちエロい先輩に対しては、先のハナのように純粋な気持ちで臨めば良いのだ。

 これからは彼女に何を言われても純粋無垢に答えよう。

 可愛らしい笑顔で「子供ってどうやってできるのー?」とでも言ってやろう。


 もう何もかも手遅れだと思うけれど。


 窓の外を見て「僕も大人になっちまったな……」と内心黄昏ている智悠とは無関係に、会話は有志部の話題に戻っていく。


 雪菜は間を置くようにこほんと咳払い。


 醸し出す雰囲気とは裏腹に、育ちの良さを思わせる優雅な所作で紅茶を一口含み、舌を湿らせた。


「有志部の主な活動は、一言で言えばボランティアよ」


「ボランティア……?」


 基本的な活動内容については既知の智悠に代わって眉根を寄せたのは、隣に腰掛けるハナだった。


「ええ。慈愛の心を持って困っている生徒たちに手を差し伸べ、全身全霊をかけて救い上げる———そんな志を持った人たちの集い。それが有志部」


 それから雪菜はニヤリと含んだ笑みを浮かべると、


「恋、友情、夢———青春時代真っ只中の高校生に悩みは尽きない。むしろ悩むことすら悩ましい。そんな人たちの依頼を受けて、時には学園内トラブルの解決に努めるの」


 自身も同じ高校生の身でありながら、そんな達観した活動内容を告げたのだった。




* * * * *




 噂に名高い金髪美少女転入生に対して見栄を張りたかったのか、はたまた単純に機嫌が良いだけなのかは黒髪の上級生のみぞ知るところだろうけれど、それはともかくとして。


 いやに堂々と、大仰に、大袈裟に自身が所属する部活動について語った雪菜。


 大きな胸を張り、誇らしげなドヤ顔をする彼女に対し、ハナが浮かべたのは嬉々とした笑顔だった。


「素晴らしいですっ!」


 浅葱色の瞳を爛々と輝かせ、手を叩いて雪菜を賞賛する。


 そこには、先程までの遠慮がちな態度は微塵も感じられない。


 ただ純粋に、目の前の少女が語った大義を褒め称える。


「ふふっ、そうでしょうそうでしょう」


 ハナの絶賛にさらに気を良くした雪菜は、その場でブリッジする勢いで踏ん反り返った。


 光景だけを見ると、まるでヨイショされるチョロい上司と太鼓持ちの部下だが、もちろん両者とも本気も本気だ。


 ハナは本気で感激しているし、雪菜は本気で調子に乗っている。


 なおも美少女二人のやり取りは続き、


「困っている人に救いの手を差し伸べる———その通りです。私、感激しましたよ、篠宮さん!」


「ふふ、大袈裟ね。でも、なかなか見所がある転入生だわ」


「して、そんな素晴らしい心を持った人たちは今どこにいるんですか? 見たところ部室には篠宮さんしかいらっしゃらないようですが、集いというからには、大人数で活動しているんですよね? そんな素敵な人たちがいっぱいいるなんて、私、感激です!」


 ハナが至極もっともな疑問を口にした瞬間、その他二名の肩が同時にピクンと震えた。


 ———あっ、これはまずい。


 雪菜も同じことを思ったらしい。


 真っ向から突き刺さる純粋な目から逃れるように、雪菜はその視線を智悠に寄越した。


 テーブルを挟んで、二人の視線が交錯する。


『ちょっと智悠君。この子、凄い純粋な目で私を見てくるのだけれど』


『先輩が勝手に大きい風呂敷広げたんじゃないですか』


『何だか本当のことを言うのが申し訳なくなってきたわ。どうしましょう』


『先輩にも人としての心があることに安心したのは別として、そんなこと僕に聞かれても』


『あなたから言ってちょうだい』


『何でですか。嫌ですよ』


『お願い。もし言ってくれたら、ご褒美に肋を触らせてあげるから』


『後輩を特殊性癖保持者にするな。………はあ、もう、わかりましたよ』


 アイコンタクトのみ、コンマ数秒でそんなやり取りを交わし、智悠は隣を見る。


 感極まっている慈愛の女神に、真実を告げるために。


「他に部員はいないよ、ハナ」


「え?」


「この部活、部員はこの人だけなんだ」


「………そうなんですか」


 智悠の口から真実を聞いたハナは、わかりやすく落ち込んだ。


 おそらく、『慈愛』なるワードに反応し、そんな大志を持った人間が、自らが楽しみにしていた学校に大勢存在するという事実が嬉しかったのだろう。


 今日一日を過ごしてみて、智悠にはハナの気持ちがある程度把握できた。


 クラスメイトと仲睦まじく話す彼女や、部活動に励む姿を羨望の眼差しで眺める彼女を見て。


 ———人間界に来るのを心待ちにしていたハナは、『人間』という存在にある種の期待を抱いている。


 自分がこんなにも焦がれる世界に住まう者たちは、さぞ立派で誇り高き存在なのだろうと。


 あるいはそれは、ハナの持つ生来の実直さが成せるものなのかもしれないが。


「そう落ち込むなよ。部員はこの人だけとはいえ………いや、まあ、むしろこの人だけってのが一番の問題な気もするけど、それでも有志部があることは事実なんだからさ。それに————」


 そう、それに。


「これからは二人になるわけだし」


 言って、自分を指し示す智悠。


 それに雪菜が深い頷きを返した。


「そうね。智悠君が入って、これで部員は二人。………それにしても、智悠君、あれだけ頑なに嫌がっていたのに、いきなり入部したいだなんて驚いたわ。ようやく籠絡されてくれたということかしら」


「いや、別に先輩に籠絡されたわけじゃありませんけど……」


「籠絡? えっと、どういうことですか?」


 ハナの疑問に答えたのは雪菜だった。


真白ましろさん。籠絡というのはね、私の女性的魅力で智悠君を堕としたということで」


「先輩、多分この子が聞きたいのはそっちじゃないです。あと僕は堕とされてません」


 むしろ彼女が上級生として堕ちている。

 堕ちすぎるほどに堕ちている。

 年上の威厳も何もあったものではない。


 口を開けばアホなことしか言わない上級生に代わり、智悠が説明を始めた。


「実は、ハナが転入してくる前から先輩に『有志部に入らないか』って誘われてたんだ」


 言いながら、思い出したくもない当時の苦い記憶が蘇る。


 それは早朝の下駄箱。

 それは授業合間の休み時間。

 それは静かに過ごしたい昼休み。

 それは帰りの正門前。


 智悠が一年生の頃から、雪菜は毎日のように智悠の元を訪れては有志部への勧誘を行っていた。


 休憩時ならまだしも、下駄箱や正門では、智悠の登校時間や下校時間を見計らって待ち伏せされていたくらいである。


 それは紛うことなきストーカーの所業———先の『私の男』発言もそれに起因する。


 これまでにしつこいくらいの勧誘を何回も受け続け、しかし今の今まで智悠はその全てを袖にしてきた。


 その理由はいたってシンプルなものだ。


 中学生の時から部活というものに縁がなかった智悠にとって、放課後は何にも邪魔されないプライベートな時間として確立していた。


 要するに帰宅部から抜け出す気がさらさらなかったのである。


 あとは学校一の有名人である篠宮雪菜と関わるのが面倒くさいという理由もあった。むしろそっちの方が比重は大きい。


 それには当事者の雪菜もうんうんと頷き、


「ほんと、何を言っても、何をしても智悠君は素気無くてね。私もあの胸この胸を使って何とか引き摺り込もうとしたのだけれど」


 そう言って、己の巨大な胸を強調するように腕を組む。


「それを言うならあの手この手でしょう」


「あら、智悠君は手でシてあげる方がお好みだったの?」


「手じゃないところではシてあげたみたいな言い方はやめてください」


 右手で輪っかを作って上下に動かし始めた変態はどうしてくれようか。


 一応明記しておくが、二人の間で不純な異性交遊は一切行われていない———勧誘の途中でこれ見よがしに胸の谷間を見せつけてきたり、耳元で甘く卑猥な言葉を囁くなどの行為がそれに該当しなければ、だが。


「あまりにも頑固だから、これはもう既成事実を作るしかないと思っていたところだったのよ」


「もうあんたが規制されろ」


 上手い具合に落としたところで、じっと智悠の話に耳を傾けていたハナがおもむろに立ち上がった。


 そして、


「篠宮さん、智悠さん。———私も有志部に入部します!」


 と、さっきまでの落ち込んだ様子から一転、やる気に満ち溢れた表情で高らかに宣言した。


 思ってもみなかった彼女の発言に、智悠と雪菜の二人は驚きに目を瞠る。


 そんな二人の視線を受け、ハナはそっと胸に手を添えると、


「困っている人に救いの手を差し伸べる。まさに、この私にぴったりの部活だと思いました。私、この部活に入りたいです!」


「………ねえ、智悠君。私、何でこの子がこんなに情熱を燃やしているのかちょっとよくわからないのだけれど」


 いち早く我に返った雪菜が、ハナに聞こえないようにこっそりと耳打ちしてくる。


『慈愛』を司る女神としては、困っている人を放っておけない心情は当然なもの。


 それは、三途の川で溺れていた哀れな死人を助けてくれたことからも窺える。


 だが、そんな彼女の正体を他人に明かすわけにはいかない。


 たとえ知己の間柄である雪菜が相手だとしてもだ。


 何と答えれば良いのか迷った末、


「……正義感が人一倍強い子なんです」


 そんなアバウトな囁きを返すにとどめた。


 雪菜はどこか納得のいかない表情をしつつ、誰にも聞こえない小さな声で呟く。


「ふぅん———今日会ったばかりなのに、随分と彼女のことを知っているのね」


 その瞳に宿った名状しがたい複雑な感情に、智悠が気づくことはなく。


 やがて、黒髪の上級生はおもむろに立ち上がった。


「わかったわ。では改めて、有志部部長として、あなたたち二人の入部を認めます」


 肩にかかった髪を払い、いつも通りの微笑を浮かべて。


小日向こひなた智悠君。真白ハナさん。———ようこそ有志部へ。歓迎するわ」


 ともあれ、こうして。


 一癖も二癖もある役者たちが揃い、それぞれが大いなる野望を胸に、ここに有志部が発足した。

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