第5話 『僕の妹が過保護すぎる』
「————」
ハナから激励の言葉を受けた直後、突如として天界を埋め尽くした明るい光に耐えられず、思わず目を閉じた。
それからほんの数秒後。
再び目を開けた時、
見知らぬ天井。
だけれど、何故か懐かしさを感じる。
「ここは……?」
若緑の野原も、美しい花々も、澄み渡る青空もそこにはない。
薄暗く、生命の気配を感じさせない無機質な空間。
一体ここはどこなのかと、手がかりを求めて視線を彷徨わせた智悠は———
「………お兄ちゃん?」
すぐ傍で自分の顔を覗き込んでいた、一人の少女と目が合った。
肩口で切り揃えられた光沢のある黒髪に、どこかあどけなさを感じさせる可愛らしい童顔。
紛れもなく、確信を持って美少女と呼べる女の子。
しかし、やや青みがかったその愛くるしい黒瞳は、こんな至近距離でなくともわかるくらい赤く腫れ上がっていた。
「………あ、あれ?」
突然の状況にわかりやすく狼狽える智悠。
目の前の女の子はそれに構わず、みるみる内に腫れた瞳に涙を溜めていき———
「——お兄ちゃん!」
次の瞬間、横たわる智悠の体に思いっきり抱きついた。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん………ッ!」
何度も名を呼び、こちらの胸に顔を押し付けてくる。
「ちょっ、あ、え、お、落ち着けって……」
豪快に抱擁され、胸元が少女の涙と鼻水でぐちゃぐちゃになる。
何とか引き剥がそうとする智悠だが、感情のタガが外れた少女は聞く耳を持たず、むしろより強く、強く、彼の存在を確かめるように抱きついてくる。
「生きてる……生きててくれてる……お兄ちゃん、お兄ちゃん……ッ!」
なおも我を忘れて涙を流し続ける少女に、
「……ああ、生きてるよ。ちゃんとここにいる」
智悠は抵抗を諦め、代わりに少女の頭にそっと手を置いた。
そのまま艶やかな黒髪に優しく手櫛を通す。
そうしてサラサラな髪の感触を手のひらに感じながら、智悠もまた、彼女の存在をしかと確かめた。
智悠の胸に顔をうずめ、声にならない嗚咽を漏らす少女。
「心配かけて悪かったな………
そんな彼女の名を、智悠は優しげな瞳で呼んだのだった。
* * * * *
天界から現世へと送られた智悠が最初に目覚めたのは、大きな総合病院のベッドの上だった。
無機質な病室の中、腕には何本もの管が取り付けられ、頭や胸、足など身体中の至るところに幾重にも包帯が巻き付けられている。
覚醒した耳には、生命の存在を知らせる無機質な電子音も届いていた。
「丸2日経っても全然目覚めないし、心配したんだからね」
そう言ったのは、目覚めた直後に飛び込んできた少女だ。
「だから悪かったって、真綾」
先程から繰り返される同じような文句に苦笑を浮かべ、再びその名を呼ぶ。
彼女こそが智悠の妹———
智悠より一歳下の高校一年生。
同じ高校に通い、同じ家に暮らす血の繋がった肉親。
———そして、智悠が生き返る道を選択した理由そのものだ。
「ほんとのほんとに心配したんだから……このまま死んじゃったらどうしようって」
ついさっきまでたっぷり十分くらい智悠の胸の中で泣き続けていた真綾は、腫らした目元のままで膨れっ面を作っている。
しかしその表情には、隠しきれない安堵の色が出ているのがありありとわかった。
生きてて良かったと、心の底から思ってくれている表情だ。
「あはは……ごめんな、迷惑かけて」
「全くもうだよ」
本当は一度死んでいる智悠は複雑な表情を浮かべるが、真綾はそれに気づかずに頰を膨らませる。
だが、やがてそれを引っ込めると、今度は花の咲くような笑顔を浮かべた。
いじけた表情も今の笑顔も、智悠がよく知る可愛らしい妹そのものだ。
「でも良かった、生きててくれて………本当に、良かった」
「真綾?」
「……ねえ、お兄ちゃん」
気を緩めると再び溢れ出してきそうな涙を堪え、真綾はニコリと微笑むと。
「その………お帰り」
「………うん、ただいま」
殺風景な病室で、温かな兄妹は照れくさそうにはにかみながら、久方ぶりに家族の挨拶を交わした。
* * * * *
聞いたところによると、智悠の容態はかなり危険な状態だったらしい——それこそ、片腕に何本もの管が取り付けられ、身体中を包帯でぐるぐる巻きにしなければならないほどに。
トラックに撥ねられた直後、目撃者が呼んでくれた救急車で病院に搬送された智悠は意識不明の重体だった。
生死の境を彷徨い続け、いつ死んでもおかしくない状態——それが丸2日も続いたと言う。
その間の出来事が、あのロリ巨乳女神———もとい慈愛の女神、ハナ=エンジェライトとの邂逅だった。
智悠の魂が天界に連れていかれている間、こちらの肉体は意識不明の仮死状態——なるほど、ハナの言っていた通りである。
しかし、意識が戻った後の智悠の容態は順調に快復に向かっていた。
むしろ順調過ぎるくらいで———
「……まさか、あれだけの怪我が一週間で治るとは」
退院の荷物まとめをしながら、智悠はボソリと呟いた。
意識が戻った当初はあちこち傷だらけで、見るだけでも痛々しかった姿は影も形もない。
「お医者さんは、完治には少なくとも二ヶ月はかかるって言ってたはずなんだけど……」
同じく驚愕の表情で言うのは、退院の準備を手伝ってくれている真綾だ。
信じられないものを見るような目で智悠を見ている。
「お兄ちゃんって実は人間じゃなかったの……?」
「実の兄を人外扱いするな」
ハナにも別の文脈で同じことを言われたが、智悠は正真正銘サル目ヒト科ヒト属、れっきとした人間である。
ホモ・サピエンスである。
「お医者さんびっくりしてたよ? 『こんなに回復力のある人見たことない』って」
それは智悠も診察の時に直接言われたことだ。
一週間の入院中、診察を受けるたびに主治医に鼻息荒く『凄い、凄い』と捲し立てられた記憶が蘇る。
「あはは………案外僕って生命力高いのかもしれないな」
「いつもぬぼーってしてて、やる気なさそうなのにね」
「ぬぼーってどういう意味だよ」
思えば事故に遭う前も、こうして真綾に無気力さを窘められていたような気がする。
泣き腫らしていた目元もすっかり元に戻った、普段通りの真綾の小言を背中に受けつつ、二人揃って病院を後にした。
* * * * *
退院した後は、拍子抜けするくらいスムーズに元通りの生活に戻っていった。
いつものように家に帰り、いつものように妹と一緒にご飯を食べ、いつものように床に就く。
交通事故などなく、意識を失うこともなく、ましてや天界で女神と逢ったこともまるで全て幻だったかのような、そんな気がするくらい元通りの日常。
だがしかし———ただ一つだけ変化があったとすれば。
それも、かなり大きな変化があったとすれば。
「…………あのさ、真綾」
「ん? なあに、お兄ちゃん」
その日———智悠が意識を取り戻し、一週間に及ぶ入院生活を終えた翌日。
事故の後遺症も全く見られなかったので、普段のように高校へと向かっていた朝のこと。
事故に遭う前は、智悠は自転車通学、真綾はバス通学と、それぞれ異なる交通手段で別々に登校していた。
自転車を漕ぐのをあまり苦に感じない智悠に対し、真綾は数えること約一ヶ月前、高校に入学した当初から『自転車通学は面倒くさい』という理由でバスで通うことにしたのである。
だが今朝の小日向兄妹は、二人一緒にバスで通学していた。
「僕のことが心配で『一緒に登校しよう』と提案してきたのはわかる」
最寄りのバス停から高校まで歩いている道中、今朝の家での出来事を振り返る。
「うんうん。一人で登校なんてさせたら、またぞろ道路に飛び出さないとも限らないからね。一緒に登校して、私がしっかり監視しておかないと」
真綾のもっともらしい主張に頷きを返す。
その点に関しては智悠に文句はない——しかし。
「あの、非常に言いにくいんだけど……」
「どうしたの? 兄妹なんだから、遠慮しないで言いたいこと言っていいよ」
「そうか。なら遠慮なく言うけど………なんか、近くない?」
「気のせいだよ」
言いたいことを言ったら即否定された。
しかも若干食い気味に。
「いや、何でそんなわかりやすい嘘つくの。明らかに近いだろ」
「………むう。ノリ悪いなあ」
ブー垂れる妹の顔が、智悠の顔のすぐ近くにある。
隣を歩く真綾は、智悠の腕に自分の身体をぴったりと密着させていた。
まだまだ発展途上、だけれど日々の確かな成長を感じさせる膨らみかけの胸が腕に押し付けられる。
制服のブラウス、そしてその下のブラジャーのささやかな柔い感触———それに合わせて女の子特有の甘い香りがふわりと舞い、先程から智悠の理性をこれでもかと揺さぶっていた。
「何だかこうやってくっついてるとラブラブなカップルみたいだね」
そう言って小悪魔的な微笑みを向けてくる真綾。
実の妹とカップルごっこなど黒歴史レベルの羞恥プレイだ。
今は登校の時間帯、それも二人が歩いているのは高校のすぐ近くということで、先程から周囲の視線を一身に集めている。
二人を追い越していく同じ制服を着た生徒に好奇な目で見られるのは何とも居心地が悪い。
「おい、ちょっと離れろって」
「やだねー。こうやって捕まえてないと、また道路に飛び出すかもしれないし」
「僕ってどんだけ信用ないの!?」
力尽くで引き剥がそうとするも、思いのほかガッチリとロックされていて、少しも腕を動かすことができない。
それに無理に動かそうとすると、否が応でも真綾の胸に肘が当たってしまう。
そのたびに、柔らかな女の子の感触が———
「……お兄ちゃん、今私の胸のこと考えてたでしょ」
「…………考えてない」
たっぷり間を空けて答えた智悠に、上目遣いで目を細める真綾。
「最近毎朝牛乳飲んでるから、これでも結構成長してるんだよ?」
「妹のそんな情報いらないから」
事故以来、過保護なブラコンになってしまった妹と腕を組みながら登校しなければならない智悠は、深い深いため息をこぼすのだった。
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