8
まどろみの中で、良夫は何度も意識を戻した。その度に夢か現かわからない銃声を聞いたような気がする。が、それを確かめようとしても、すぐに睡魔が彼を暗黒の奥底に引きずり込んだ。
意識と無意識の水面を浮かんだり沈んだりする繰り返しの後、瞼の裏を照らすような光で、良夫は目を覚ました。その視線の先に、母親の顔が浮かんでいる。
押入れを開け放って、京子が良夫に手を差し伸べた。
「朝よ、起きなさい」
押入れに逃げ込んだまま、眠りこけていたのか。やっぱり夢だったのか。
良夫がそう思い込もうとした時である、京子の後から黒い影がぬっと現れた。
良夫はあっと声を上げた。あのサングラスの男だった。
「手を上げるんだ」
良夫を見つめる京子の顔が、再びあの時に戻った。冷酷で華麗な殺人マシーンの顔である。が、その背中に銃を突きつけられては身動きも出来ない。
「十二人目? 確か全部で十一人だったはず」
「符牒だ」
お互いに顔を知らぬ者同士が戦術的に行動するために、作戦の開始に当たって、チームの暗号を決める。それは常に変化する。今回の作戦に当たって、チーム内で使用する数字は、常にひとつ少なく報告するように決められていた。十一は十二を意味していたのだ。
「そう、もともと団体行動が苦手だから、そんな暗号に気が回らなかったわ」
「それがお前の命取りになったな。お前が殺した男は、俺の影だ。いや、やつは弟だった。もはや許せんぞ」
「で、運良く生き残り、そのままここに潜んでいたというわけね。組織の工作隊が明け方までかかって現場を元通りにしている間、ずっと怯えた猫のように……」
背中の男はその皮肉には答えず、ただ低くうめくようにいった。
「組織を舐めるなよ。お前、何者だ。アキオとはどういう関係なんだ」
「それを聞くと、あなたの命はないわよ」
と、その瞬間、京子の肩口から覗いた男の顔が凍りついたようになって、みるみる青ざめた。
「そうか! お前が、アキオ、シークレットAだったのか……!」
良夫に向いた京子の顔が笑った。
京子には、背中の銃口の感触を通じて、トリガーにのせた相手の指の動きがわかっている。京子に絶体絶命という言葉はありえない。冷静に状況を読み、適切に対処する。死の淵を除くことがあっても、常にその淵から落ちるのは相手のほうである。シークレットAとは、そんなプロ中のプロに対して組織が与えた異名なのである。
「京子、ネクタイまだか」
と、その緊迫した空気を割るように、階下から幸太郎の間抜けた声が聞こえた。
「早く出してくれないと、仕事に遅れるよ」
瞬きする暇もない。
すでに京子は後方に宙返りし、空中にいた。驚くべき跳躍力だった。
その背中の下を、男が撃った銃の弾丸が、空気を切り裂く軌跡だけを残してむなしく通過した。弾丸はそのまま、良夫の鼻先をかすめて、押入れの布団のひとつに小さな穴を開けた。
さらに京子は、鋼のバネが弾けるように、揃えた両足を男の顔面に向けて放っていた。銃が手から離れて転がり、サングラスは粉々に砕けて、男は仰向けにのけぞった。
京子の動きは連続している。第二の跳躍は相手に背後を見せた位置から宙を舞い、肩、腰、足ときりもみするような回転を伴っていた。空中で体を開くようにして、右足が自らの頭上を越える大きな弧を描いた。旋風脚である。男はそれをかろうじて見切った。
両足で四股を踏むようにして、瞬間的な安定を取り戻すと、今度は男の方が前へ出た。京子の顔面を捉える連続突きだ。が、その攻撃を、京子は回転する駒のようにことごとく弾き返した。しかも、最後の突きを捕らえると、男の勢いを懐に抱きかかえるようにして巻き込んだ。
京子の神速とも言える小手返しに、男は止むに止まれず横転した。
二人の動きがそこで初めて止まった。すでに男は片腕を決められ、畳に這わされている。
「ここまでか」
爬虫類のように冷えた目が剥き出しになっている。京子は何も答えず、全体重をかけたひじ鉄をその頭上から振り下ろした。
「京子、まだあ~」
「すぐ行くわ」
京子は、ため息をつくと、懐から携帯電話を取り出した。奇妙なリズムでプッシュし、それを耳にあてると、片方の手の指を重ねて自分の喉元を押すようした。
「私だ、Zか。ゴミがまだひとつ残っている。すぐに掃除屋を呼べ。三十分後だ」
京子の声は男の声になっていた。
「いいか、もし再び関係のない家族を巻き込むようなことをしたら、徹底的にぶっ潰してやるぞ。特に、坂本家と木林家にはこれ以上関わるな。わかったな」
相手の動揺が携帯を通じて伝わってくるようだった。すぐに片付けます、と慌てた声が携帯から小さく漏れてきた。
穴の空いた布団があるから、それは高級羽根布団と交換しておけ、と付け足して携帯をきると、京子は再び良夫に向かって手を差し出した。良夫は誘われるまま、その胸に抱かれた。
「ごめんね、記憶消去ガスは子供の脳には危険なのよ。だからあなたは自分の力でこの出来事を忘れるようにしてね。もう一生こんなことに巻き込ませはしないから」
自分で忘れろと言われても……良夫はただ当惑するだけである。だが、母親が元のように自分の日常に帰ってきてくれたことが、その時は、ただ無性にうれしかったのを覚えている。
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