6
隣の部屋は客間だ。二棹の洋服ダンスを置いているだけの和室である。
三号が京子を連れ込むと、二号も興味深そうにその後に続き、襖の向こうに隠れた。一号は相変わらず、窓の外に集中している。
……耳を集めているだと。
幸太郎はそのおぞましさに身震いした。京子を今助けなければ、事態は取り返しのつかないことになる。
幸太郎は力任せに体を捩った。しかし、ロープが体を締め付けるだけだ。何も出来ない自分を呪って、唇を噛んだ。
その時、良夫が耳元でささやくように言った。
「お父さん、僕のズボンのポケットにライターがあるんだ。今、ロープを切るよ」
しゅっと小さな音がして、手首に熱さが伝わった。良夫がうしろ手でライターの炎を近づけたのだ。しばらくして、その熱さが肉を焦がす痛みに変わって、幸太郎は顔をゆがめた。が、今や怒りで我を忘れている幸太郎に耐えられない試練は何もない。
両手に自由が戻ると、すぐに足首のロープを解いた。開放された安堵よりも、まずやらなければいけないことがある。良夫の目を見て、黙って頷いた。
幸太郎は、そのまま身を伏せ、じわじわと窓際ににじり寄った。窓の外に集中している一号の後方から、一気にその喉元に覆い被さった。
慢心の力を込めた裸締めである。一号は、狙撃銃を畳に落とし、ぐっともいわず落ちた。見事な秒殺だった。
幸太郎は銃を拾い上げ、すぐに良夫のところに返ると全身のロープを解いた。良夫がなぜライターをポケットに忍ばせていたのかはどうでもいい。我が子の機転を褒めちぎってやりたかったが、それも時間が許さなかった。
「待っていろ、お父さんが母さんを必ず助ける」
が、良夫は、この父親に対してどうしても不安を隠せない。
――と、突然、襖が開いて、二号が部屋に戻ってきた。二メートル近い上背が吼えた。
「何をしている」
幸太郎は、思わずアクション映画の見よう見真似で、銃を肩に構えた。トリガーに添えた指が自然に震えた。
二号も瞬時に状況を判断し、すでに懐から銃を抜いている。
「素人がそんなものを持っても使えやしない。降ろせ」
「そっちこそ、その銃を捨てろ」
「銃を降ろすんだ。頭を打ち抜くぞ」
いいながら、二号は拳銃をゆっくり下げた。
「よし、ならば素手でかかってこい。相手してやるぜ」
二号は明らかに幸太郎を翻弄している。修羅場を潜り抜けたプロなのだ。口の端に見せた笑みはこの状況を楽しんでいるとしか思えない。
しかし、幸太郎も素手の勝負には自信があった。
その傲慢を思い知らせてやる。と、幸太郎は、狙撃銃を畳に寝かせた。空手独特の気息を吐くと、腰を落とし、前足をぶら下げるように猫足に構えた。
「今さっき俺に投げ捨てられた痛みをもう忘れたか」
二号も銃を懐に戻した。
さっきはあくまでも不意打ちを食らったようなものだ。幸太郎は、ここで目の前の敵を叩き伏せれば、ひょっとして事態が好転する可能性があるかもしれない、と思っていた。
が、それは、まるで掴み所のない希望だったのである。
幸太郎の疾風のような連続パンチが放たれた一瞬、二号の体が半身に開いて、入り身に転じていた。機先を制するはずが目的物を失い、相手の間合いに入り込んだ幸太郎は、無様にその側面を晒してしまっていた。
大男でありながら二号が見せた目にもとまらぬ動きに、幸太郎はあっけにとられる暇もない。その顔面に容赦ない鉄槌が炸裂した。幸太郎は、紙のように舞い飛び、先ほどと同じように襖を突き破って隣の部屋に転がった。そこは京子と三号のいるはずの場所である。
幸太郎は思った以上に弱かった。いや、相手が強すぎる。幸太郎程度の格技では、素人の域を出ないのだ。二号の動きは、それを数段凌駕したものだった。
良夫は父親のふがいなさを見て、目の前が真っ暗になるような気がした。もはや、万事休すだった。
その良夫に目もくれず、二号は再び転がる幸太郎を追いかけて隣の部屋に移った。後は殺戮の餌食になるばかりであろう。が、その二人に続いた良夫がそこで見たものは、まったく信じられない情景だった。
京子をその狂気の餌食にしようとしていたはずの三号が、骨を抜かれたようにぐったりとして伏していたのである。その頭を沈めた畳が血を吸って赤く染まっていた。
傍で京子の背中がすうっと立ち上がった。いつの間にか、今さっきまで着ていた部屋着から、毎日、ウォーキングで使っているジャージとTシャツに着替えている。Tシャツには熊のぬいぐるみがプリントしてあった。それが京子のお気に入りなのである。
しかし、振り返った京子の顔は別人にしか見えなかった。
もちろん、それが京子以外の何者かであろうはずはない。が、良夫が知っている母親の顔ではないことは確かだった。
幸太郎を追って飛び込んだはずの二号が、慌てて懐から銃を取り出し、京子のこめかみに突きつけた。京子は、その二号の顔をきっと睨んだ。
だが、すぐに良夫の視線に気づくと、
「お父さんは?」
と、聞いた。いつもの母親の声に戻っている。目まぐるしい変化に、良夫は戸惑った。
「あそこに……」
わずか数歩先の壁際に、幸太郎はだらしなく伸びていた。
「あの調子じゃ、お父さんはしばらく気を失ったままね」
「お前、こいつに何をした」
二号が銃口を力任せに押し付けながら、京子の独り言を遮った。
「さあ……」
「死にたいか」
「どうせ、殺すつもりでしょう」
銃を構えたプロの殺し屋を相手に、信じられないほどの胆力である。
その時、良夫の後からもう一人の男が滑るように前に出て来た。さっき幸太郎の締めを受けて気を失っていた一号が覚醒し、起き上がってきたのである。
「畜生、不意打ちを食らってしまったぜ。奴はどこだ」
三号が気絶した幸太郎を視線で教えた。
一号はただ、ふんとだけ答えると、首を回しながら二人に近づき、狙撃銃の銃口を京子の別のこめかみに当てた。京子は二人の男に挟まれた。
「なんだ、こいつ死んでいるのか」
足元の仲間をつま先でつついた。
「まさか、この女がやったわけじゃないだろう」
「わからん、だが、他には誰もいない」
二号が口重く答えた。その言葉の端に、わずかに混乱が見える。
一体何が起ころうとしているのか、良夫にはまったく想像もつかなかった。落ち着いて考えてみると、二人の男を相手にして、一人の女が生きていられる可能性は限りなくゼロに近い。体格差は一目瞭然だし、相手はプロ。しかもそれが両脇から銃を構えているのである。
良夫はせめて目を背けようとしたが、体が思うように動かない。膝が震えて、立っていられなくなった。
「お母さんを助けて!」
思わず叫んでいた。
その良夫を京子は目を細めて見た。同時にその声の方角に向かって、二人の男が顔を向けた。
「はっ!」
一瞬の虚を突いて、京子が突拍子もない声を発した。
ほんの僅か、男たちに小さな空白が生じた。驚きとも違う。ただ、理性が反射神経に支配される刹那である。
瞬間の狭間で、京子は目に見えない速さで身を捩った。両側に突きつけられたそれぞれの銃口を、側面から掌を押し付けながら、右と左にずらしたのである。
彼らは慌てたのかもしれない。が、通常の意味の慌て方ではなかった。彼らのプロとしての研ぎ澄まされた反射神経が、ほぼ同時にトリガーを引かせてしまったのである。
ぷす、ぷすっというサイレンサーの銃声が重なって炸裂した。
あっと気づくと、二号の拳銃から放たれた弾道は、京子のこめかみを紙一重で避けて、対面にいた一号の喉を貫いていた。空気の漏れる音と共に、鮮血が弧を描いて吹いた。一号はそのまま朽木倒しに倒れると、京子の足元でぴくりとも動かなくなった。
同様に一号の長い銃身から発した弾丸は、二号の右肩を砕いた。
二号は唖然と京子を見た。だらりと垂れた右手が、使い慣れた重ささえ我慢できなくなったのか、血にまみれた拳銃を畳の上にぽとりと落とした。流血する肩を反対の手で掴んで、思わず二三歩後によろけた。
京子の動きはまったく間髪のないものだった。ふっと身を沈めたかと思うと、後ずさる二号の足元を下から刈り足ですくい上げた。二号の巨体は否応なくまっさかさまに反転した。京子はすかさず、膝の位置に落ちてきた二号の頭部を狙い済まして、風を裂くような回し蹴りを放った。何かが潰れるような湿った音がして、それが二号のとどめになった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます