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良夫は、あの時、母に「おばちゃん」と憎まれ口を叩いたことを、ひたすら後悔していた。その時のことを思うと、涙が次から次に流れてきた。
公務員の父親は、判で押したように同じ時間、同じ電車で帰ってくる。小学生とはいえ、父親が帰る時刻ぐらいはわかっていた。
良夫は駅に向かって一目散に走った。すぐ警察へ行こうとしなかったのは、小学生の知恵のなさだったのだろう。だが、運よく改札口近くの雑踏の中で、背広姿の父親を、見つけ出すことができた。良夫はその懐に飛び込んで、大声を張り上げ、泣きじゃくった。
父の幸太郎は最初あっけにとられて周りの人々を気にかけるばかりだったが、たどたどしい我が子の説明を辛抱強く最後まで聞いて、ついに事の詳細を理解した。
その後の彼の行動は、驚くほど速やかで力強いものだった。子供の良夫の目にも父親の姿は、これ以上なく頼もしく思えた。
「なあに、心配いらん」と、幸太郎は笑った。
「父さんが母さんを助けてやる。相手は五人だな」
幸太郎は背広を脱ぎ、ネクタイをはずして一緒に丸めると良夫に手渡した。
「持っていろ。お前は、後ろで黙って見ているんだぞ」
良夫は母と父の馴れ初めを少しだけ知っている。
それは、幸太郎が社会人になって二年目の出来事で、たまたま街で暴漢に絡まれる京子を助けたというものだった。その時、暴漢は七人もいたという。幸太郎は学生時代、空手部で学生チャンピオンにもなったほどの猛者だった。なんとその七人をなぎ倒すのに、一分もかからなかったらしい。
もっとも、良夫はその話を概ね父の口から自慢話として聞かされてきた。大きくなるに連れて、だんだんそれが半信半疑に思えていたのも確かである。が、今家へ向かう幸太郎の、自信に満ちた顔つきは、良夫にその武勇伝をあっさりと信じさせた。
幸太郎はひとこともしゃべらないで、ただ駈けている。良夫は一生懸命、その後ろに続いた。
「お父さん、警察に連絡は……?」
そうだった。母は、それをまず伝えてくれといったのである。
良夫は思い出した。一緒に警察へ行け、ともいわれた。が、幸太郎は片頬を吊り上げるようにして、にやりと笑った。
「大丈夫だ。父さんが片付ける」
その言葉の無謀さを思うと、なぜか良夫の心の中で、暗闇に突き落とされたような不安が沸き起ってきた。それは、子供の持つ第六感だったのかもしれない。が、すぐに良夫は、その暗い考えを切り捨てようとして、首を振った。
「お父さんがいれば、大丈夫だ」
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