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たまに家中をひっくり返したような夫婦喧嘩があるぐらいで、他にこれといって驚くことなど何もおきない、どこにでもある平凡で小さな家庭。それが、ある日突然、とほうもない事件に巻き込まれることになったのは、良夫がまだ小学校五年の時であった。

 事件の日の夕方、良夫は小学校から帰ってくるなり、母親の京子と本当につまらないことで言い争いをしてしまった。そもそもの始まりはそこからである。

 もっとも、ひとり息子ということもあって、良夫はいつも少しばかり我がままが過ぎていた。京子もそんな良夫に手を焼いていた頃でもある。

 口げんかの挙句、良夫は、夕食の支度をしている母の後姿に、いきなり、

「おばちゃんなんか死ね!」と叫んで、二階の押入れの中に逃げ込んだ。母親をおばちゃん呼ばわり。しかもその時、居間のテーブルの上においてあった父親のタバコとライターをズボンのポケットにねじ込んでいた。タバコを吸えばすぐ不良になれる、こうなったら、不良になって母親をおろおろさせてやる、とそう思ったのである。もちろん叱られた後に良夫が押入れに隠れるのはいつものことだったので、京子もそれ以上は追いかけたりはしなかった。

 良夫は、口では大人に勝てない悔しさに、しばらく涙が止まらなかったが、暗闇の中でじっとしていると、だんだん嫌な出来事も忘れてしまう。もちろん、ポケットの中のタバコとライターのこともすっかり忘れてしまった。空想を始めると、子供の心はいろいろな世界に飛んでいき、いつの間にか眠ってしまうのが常なのである。

 ふと気がつくと、依然としてそこは、まぶたの裏を見ているような暗闇だった。良夫は怖くなって思わず声を上げそうになった。

 子供というのは、現金なものだ。おなかがすいてくると、やっと自分がどこにいるのか思い出した。食べ物のことを考えると、ついさっき憎まれ口を叩いた母親の顔が恋しくてたまらなくなる。

 それでもバツが悪かったのか、良夫は押入れから出てもすぐに下へは降りなかった。階段の降り口から台所の気配を窺うようにして、そっと首を突き出してみた。ちょうどその時、玄関のピンポンという音がして、母親がそちらに向かっている影がちらりと見えた。

「木林さんのお宅ですか? 宅配です」

 声がそういった。

「木林京子さんですね」

「はいそうですけど……ちょっとお待ちください」

 が、次の瞬間、この日常の一こまが異常な事態に暗転してしまうことになる。

 玄関を開ける音が、あっという間にけたたましい雑音で掻き消えたのだ。たくさんの人間が、突然別の場所から、わっと湧き出してきたような気配。それは荒々しい人息が乱れる音だった。

 続いて京子の短い悲鳴が聞こえ、すぐにくぐもって消えた。瞬時に口をふさがれたのに違いない。さらに、静かにしろ、命まで取ろうと言うわけではない、という何人かの男の声が錯綜した。

 いくら幼い子供とはいえ、良夫はすでに下で大変な事が起きつつあることを察していた。

 強盗が入ったのだ。

 居眠りから起きたばかりだというのに、悪夢の中に叩き込まれたような気持ちになった。

 しばらくして、他に誰もいないか、という声と共に、人の気配が階段に向かってくるのがわかった。良夫は慌てて、もとの押入れに逃げ込んだ。

 畳を軋ませる足音は、明らかに靴を履いたままの音だ。二三人いる。良夫は押入れの中で、寒さに丸まったうさぎのように震えながら、聴覚だけを研ぎ澄ませていた。

「誰もいないな」

 まさか子供が押入れに隠れているとは思わなかったのだろう。大きな荷物を投げるような音がして、すぐに男たちの気配が階段を降りた。と、同時に、

「良夫……」

 と、子供を呼ぶ京子の押し殺した声が聞こえた。

 良夫はそっと押入れの戸を開いた。

 そこには、両手、両足をロープで縛られて転がされている母がいた。押入れの隙間から目だけを覗かせている良夫の方をしっかりと見ている。

「良夫、今よ。二階の窓から逃げるのよ」

 それでも良夫が躊躇していると、

「前もそこから、雨戸井を伝って外へ出て遊びに行ったことがあるでしょ。時間がないわ、ちょうどお父さんが帰ってくる頃よ。お父さんに、家には帰らずにすぐ警察へ行くようにいってちょうだい。強盗が五人、家にいるっていうのよ」

 その京子の声に引きずられるように、良夫はびくびくしながらも押入れの外に出た。怖くて一言も口をきくことが出来なかった。

「怖がらなくてもいいわ。お父さんと警察へ行って……わかったわね」

 良夫はただ頷いて、窓の方に駆けた。

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