episode 02 ハリール・イステラーハという女と結婚について

 僕の名前はイスカンダリアン・ハリフ。家族と僕の女上司マームは、僕のことをイスカと呼ぶ。

 こっちは僕の上司、ハリール・イステラーハ。いま僕の目の前に座って、ミソスープをすすっている。いつも眠そうな目つきをしているけれど、今日は実際に眠いのだろう。昨晩遅くまで女子会を開いていたそうだ。

 女子会! 表情筋が死滅していて、服も着用できればそれで構わないといわんばかりにセンスのない彼女が、女子会! 仕事ばっかりで友だちもいないらしい彼女が女子会!

 相手はここ、メノウの産出で有名なサントリオ・アゲートの警備隊の女の子だ。マームの姿を見つけたら、犬みたいにはしゃぎ回る、あの子。確か名前はエンちゃん。

 あちこちでさんざん浮名を流している僕だけど、誓って彼女は口説いていない。なにせ相手は十七歳だ。そんなに年齢は離れていないけど、地元ギザじゃ僕は犯罪者になる。だいたい好みタイプってわけでもないしね。ころころ表情が変わる無邪気さや、他人を疑うことを知らない純朴さが、まぶしくって見ていられやしない。やっぱり僕には、もうちょっとすれている女の子のほうが、気ごころを分かち合えると思うんだ。……それに、マームの目も怖いしね。うっかり彼女に手を出そうものなら、全力で潰されそうな気がする(なにをとは言わないが)。そのとき彼女はきっとなりふり構わず、僕の親父にすら協力をあおぐのだろう。そうなったら僕の前途は真っ暗になる。僕は、自分の素行に問題があることを自覚しているし、その点で親に頼っていることも知っているし、親父を怒らせるようなまねは極力避けたい。だから僕は芋づる式にマームにも逆らわないことにしている。僕って賢いだろう?

 さて、眠そうなマームは、今日ももくもくと朝食を食べていた。

 観光客向けの宿泊施設に併設されたレストランはけっこう静かだ。サントリオ・アゲートはメノウとジャコウジカ以外の目ぼしい産業もなく、観光するような名所もないから訪問客は少ない。僕たちみたいな企業関係者がほとんどで、それも特定の時期に集中することがないからほとんど貸し切りみたいなものだ。どこかの企業戦士が二人、もそもそと朝ごはんをかきこんでいるけど、かたわらにノートを置いていたり新聞を読んでいたりと注意もそぞろだ。

 これはチャンスだ。

 僕は思い切って尋ねてみた。

「ま、マームは結婚しないの?」

 かねてから親父に頼まれていた意識調査だ。いつものマームなら、眠そうな目を僕に向けてプライベートに踏み込まれるいわれはないとか言うかもしれないけれど……今日の彼女は慣れない夜遊びで寝不足。反応が鈍い。こういうときは、深く物事を考えられずに、ついいつも考えていることを告白しがちになる。

 それでも反発されたらおとなしく引き下がろうと思っていたのだけど、案の定、マームは僕の罠に引っかかってしゃべりはじめた。

「婚姻という社会契約を結ぶにあたって、世間一般の男女は彼氏彼女という段階を踏むわけだけれども、そのためにはまず、お互いがお互いに好意を持たなければならないわ」

 しまった。頭の回転が鈍くてもマームはマームだった。これは長くなるパターンだ。地雷を踏んでしまった……。

「では、好意を持つとはどういうことなのか。──タルサ大学の観察研究によると、男女が一緒に笑う機会が多いと、お互いの好感度があがるそうよ」

「ほう」

「片方だけが笑顔を浮かべていても意味はないの。同時に笑うことが大事なのよ。おしゃべりをしていて、笑う。このとき、男も女も、単に楽しい会話をしているから笑うわけではなくて、好感度が上がる要件を満たしているから笑うの」

 僕はずずいと身を乗り出した。これはプレイボーイと名高い僕がもっとも知っておかなくてはならない話だ。

「では、その要件とはなにか。男性は一般的に、感情表現が素直な女性を好む傾向にあるわ。つまり、自分のジョークや話で笑ってくれる女を好きになりやすいということ。女性は、男性のジョークに対して創造性を感じると笑うのよ。会話における創造性とは、ことばの巧みさ。女はここに知性を感じるの。知性が高いということは、頭がいいということ。頭がいいということは、生き残る確率が高く、将来性がある、つまり出世する見込みがあるということだから」

 ああ、くそ。メモ帳でも持ってくるんだった。

「ちなみに社内恋愛オフィスラブはよくあるルートよ。独立性の高い業務ではなく、他人の助けが必要な、共同作業の多い職場に限定されるのだけれどね。……当然よね、接触がなければ他人と笑い合うこともないのだし」

「なるほど」

「それから制服が男女で異なっていること」

「制服?」

「ぱっと見ただけで男女差が出ているでしょう。人は視覚に情報の八十三パーセント頼っていると言われるわ。つまり性別の差を意識しやすくなるのよ」

「うちの会社は割と社内結婚が多いほうだって聞いたことがあるけど、そういうことだったのか」

 なるほど、と僕は感服した。アル・キット・ワル・カマル社は女性に制服が支給される。庶務の事務員さんから、秘書部のお姉さんたちまで。営業部にはないけれど、代わりに年に一度、業者を呼び寄せてスーツを作らせている。ほかにも福利厚生が手厚いのは、もちろん親父の方針だ。

「さて、ここで最初の質問に話を戻すわ」

 なんの話だったっけ? ……あっ、そうか、僕が聞いたんだ。ずばり、マームは結婚しないのか。……やっぱ聞かなきゃだめなのかな。もう腹いっぱいなんだけど。

「男性が女性の素直な感情表現に好意をいだくという前提条件を踏まえて、あなた、私が男性の好意を上げることができると思うかしら?」

「…………」

 本日二回目の「しまった」だった。これは、あれだ。女性に年齢を質問しちゃいけないというアレと同じだ。ずばり当てても不興を買うし、わざと若く言っても「本音はそう思っていないよね?」と不愉快にさせてしまうあれ。マームが男の好意を上げられるか? しかも前提条件が、〈男は素直な感情を好む〉ときた。無理だろ。マームのこの顔を見ろ。目の下にくまができていること以外、昨夜からまったく変異が見られないこの顔を。自分のことを話している最中も、大学の研究結果をとうとうと語るあいだも、微塵も動こうとしないこの表情筋を! 男に好意を持たせるなんて無理に決まってるだろ? でも「無理です」って素直に答えてみろ。マームは顔の筋肉が動かないだけで、感情は持っている当たり前の人間なんだ。ぜったいに怒る。怒るまではなくても、機嫌は悪くなる。……マーム自身だって分かっているだろうし、分かってて僕に聞いたんだろうさ。でも、こういうのは他人に指摘されると、妙にカンに触るものなんだ。プレイボーイの僕が言うんだからまちがいない。

 ──ということを秒で考えたんだが、マームのほうが仕事が早かった。

「沈黙は便利ね」

 そういうつもりは、なかったんだけどな……。

 僕は視線を泳がせた。

「男性に好意を向けられることがない以上、結婚は不可能でしょう」

 それはどうかなあ? と、つい、反論してしまった。

「でも結婚って、する理由は人それぞれだろ。好きじゃなくてなくても結婚することもあるんじゃないかな?」

「それは、あなたのお兄様のことかしら?」

「あー、」

 視線を左上へと向ける。僕の二番目の兄上は会社の重役の娘と結婚した。愛し合ったすえに結ばれたのではなく、利害関係が一致したお見合いだ。お互いの家族どころか、社員ですら承知している関係だ。でも、割り切っていて、すっきりしていて、危うさのかけらもない様子は、僕から見たら憧れる部分もある。利害が一致しているからこそ成り立つ信頼だ。

「あれはあれでいいんじゃないかな? それに兄貴は、好意は持っていると思うよ。行為がないだけで」

 おっと、口がすべった。一瞬焦るけど、でもまあ相手はマームだし、と楽観する。マームは顔から感情が読み取りづらいだけで、冗談も通じる相手だ。さばさばした性格は男性的で、付き合いが悪いわけでもない。調子に乗った部下の、たった一度の失敗をあげつらって、セクハラだと訴えるような人じゃないだろ。……たぶん。でも念のため、今後はこういう話題は避けよう。

 マームについて心配するべきなのは、ここから妙な方向に講義が始まらないかどうかだ。これ以上、話が長くなったら大変だ。だから僕は先手を打つことにした。

「だからマームも、結婚するだけするって選択肢はあるだろ」

 話題をさらに展開させると、マームは食いついてくれた。

「選択肢はあっても理由はないもの。相手に提供できるような利益もないし、結婚をせかすような親族もいないわ」

 そうだな、残念なことに我が親父殿は親族ではない。……親族以上におせっかいだが。

「じゃあ、あの子は?」名前はたしか……「エンちゃん、だっけ」

 マームの顔がちょっとだけ変化を示した。

「……あの子は女の子よ」

「でも島によっては、同性でも結婚に準じた関係を認めているところもあるだろ?」

「…………」

 僕は感動してしまった。

 あのマームが、僕の言葉を聞いて、黙っている!

 嬉しさのあまり飛び上がってしまいたかったけど、それはなんとか自制する。子どもじゃあるまいし、両手を上げてジャンプして喜ぶってなんだよ。やりたいけどさ。

 やばい。あのマームを黙らせたよ、僕! すごくない? すごいよね!

「…………」

 でもちょっと長すぎやしないかな? ……やばいな。もしかして、びっくり通り越して怒らせた?

 歓喜を快速で通過して冷や汗を背中に感じたとき。

 マームはようやく口を開いてくれた。

「たぶん私は、そこまでエンちゃんに入れあげていないと思うわ」

 うっわ。ガチで返された。どこまで真面目なんだ、この人。

「性別や年齢や婚姻制度の問題を横に置いて、エンちゃん個人のことを考えたのだけれど、結婚したいという欲求はわいてこないの。つまり私は彼女のパートナーになりたいのではなく、友人としてお付き合いしたいのだと思うわ」

「そーっすか……」

 僕個人としては、そうは思わないけどね。どんなことにも顔色を変えないマームだけど、彼女のことになると反応が目に見えるようになる。それに彼女にに対して妙に甘いし。だいたい、あまり利益が見込めないって話だったのに、サントリオ・アゲートここかすりちぢみつむぎの輸出をプッシュしたのは誰だよ、まったく。

 なかばあきれながら、食事を再開した女上司をじっくりと観察する。

 こんなときに考えるのは、決まってひとつ。

 ──僕、なんでこの人の部下やってんだろ。

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