#浮遊島企画 ハリー&イスカ編【試読版】
ひつじ綿子
episode 01 ハリール・イステラーハという女について
僕の名前はイスカンダリアン・ハリフ。家族は僕のことをイスカと呼ぶ。
僕はこのギザで一番大きな商社の社長の息子だ。内外からドラ息子と名高く、勤めているのが我が父上の会社でなければ、とっくのむかしにクビになっていただろう。
さて、その父上が、いま僕の前で顔を真っ赤にしている。かと思ったら真っ青になったり、やたらと忙しい。マホガニーの立派な社長席を間にはさんで、僕たち親子は上司と部下として対面しているはずなのだが、その内容は親から子どもに対する説教だった。
「今回という今回は、ほとほとお前にあきれた!!」
そのせりふ、いままで何度聞いたかな。
「いいか、今回は本気だぞ! ほんっとーの、ほんっとーに、本気だからな!!」
それも何回も聞いたと思う。
「よって!! お前を!! 明日から!! ハリール・イステラーハの部下にする!!」
……誰だって?
「はじめまして」
と、あいさつした女は愛想のかけらもない顔をしていた。
どろんとした眠そうな目つき。必要最低限しか動かない唇。努力を放棄した表情筋。簡素なシャツにあわせているのは動きやすそうなパンツとジャケット。
女と聞いて多少は期待したけど、出会って即時、僕はその希望を撃ち落とした。性別は女かもしれないが、これは僕の知っている女じゃない。
「どーも」
つい失望が表に出てしまう。だけど
「真面目なのね」
「は?」
なんだって? 僕が? 真面目? そんなことを言った人間はいままで一人もいなかったんだけど。どこをどう切り取ったらそんな結論になるんだ? ……ああ、そうか。これは嫌みだ。
「午前九時に空港に来いと言われて、現在は十一時半。なるほど、このうえもなく真面目ですね。僕ってえらいなー」
目を横にそらして棒読みせりふを言いのける。目には目を、嫌みには嫌みを。ところが彼女は予想に反して、一切、痛手を負っていなかった。
「そうね。本当に不真面目な人間は、遅刻したからと身支度もそこそこに息せききって来たりしないわ」
「…………」
まさか再度、嫌みを返されるとは。着崩したスーツを「身支度もそこそこ」なんて、言うかふつー。予想もしなかった行動をとられて、つい言葉に詰まってしまった。やるな、この女。
「おかげで出航には間に合ったわ。行きましょうか」
うながされて、しぶしぶあとをついて行く。
ターミナルビルは人々でごった返していた。受付カウンターに到着すると、マームは二人分の乗船券を提示した。髪の長い受付嬢の顔が好みだったので、にこりと笑っておく。受付嬢は相好を崩して、意味ありげな上目遣いを返した。見たか、僕の実力を。……見てねぇ。
屈強な警備員に両脇をかためられた専用ゲートを通過した。コンコースには大きな窓がずらりと並んでいて停泊中の幽霊船を近くに見ることができた。
「すげぇ」
思わず声がもれる。そういえば幽霊船をこんな間近に見たことはない。いつも近づいたり遠ざかったりする様子をビルのあいだから見上げるだけで……。
「幽霊船に乗るのは初めて?」
マームの声には子どものはしゃぎっぷりを見守るような響きがあって、僕はむっとした。さっきの、心からの感嘆を聞かれたと思うと、踏みこんでほしくない領域に入られたようで気分が悪い。そっぽを向いてだんまりをきめこむと、彼女はひとり言のように続けた。
「だったらなおさら床屋の使い方を教えたかったのだけど。……まあ、次の機会にしましょう」
「床屋?」
耳慣れない単語に興味をひかれて、つい聞き返してしまった。子どもっぽい反応をしてしまったことを後悔したのは一瞬だけで、すぐに彼女の説明に好奇心のすべてを持っていかれた。
「幽霊船は大きな船だけど、なんでもかんでも無限に載せられるわけではないの。だから政府は積載量に制限をもうけて管理しているわ。全住民に平等であるべきという理念にのっとってね」
幽霊船の乗船に平等なんて理念があったなんて初耳だ。
「具体的には、使用スペースにおうじた代価をもうける。要はオカネよ。オカネを出せば法律に反しない限りなんでも載せられる。政府はそのオカネを管理費にあてているの。あなたを見て赤くなっていた受付嬢の給料もそこから支払われているわ」
……しっかり見てるじゃねーか。
「けれど政府が管理しているのは、あくまでも積載量だけ。人間の具体的な数まで管理はしないから、幽霊船の限定された寝床の数と一致するとは限らないのよ」
なるほど、はなしが見えてきた。
「要するに床屋ってのは、その寝床を確保してくれるやつのことか」
「そう。ベッドの数には限りがあるうえ、ほかの島から乗り込んだ先客が先に使っている場合もあって、必ず空きがあるわけではない。幽霊船が到着次第、空き状況を確認してきちんと取り置きしてくれる業者を床屋と呼んでいるわ」
船全体と甲板や船倉といった大きな空間を管理しているのが政府、ベッドの数だけに注視しているのが床屋ってことだ。逆に言えば、ベッドで寝ることにこだわらなければ、乗船券だけで他の島に行けるってことになる。
「マームは枕が変わると寝れないタイプ?」
前を歩く女上司が首だけこっちに向けた。すぐに進行方向へ戻ったが、目ざとい僕は見つけてしまった。いま、ちょっとだけ嫌そうな顔をしていたぞ。
「……そういう呼びかけは好きではないわ」
「じゃあ、ボス」
「みんなはハリーと」
「悪いけど、僕は会社の人間を愛称では呼ばない」
「イステラーハ」
「苗字でも嫌だよ。長いし」
「そう。じゃあ仕方がないわね」
好きにして、と言われた。
なんなんだ。あっさり前言をひっくり返しやがって。嫌なら嫌だって言えばいいじゃないか。……まあ、僕も名前で呼ぶのは絶対にごめんだから譲るつもりはないけれど。
「さっきの質問の答えだけど、」
律儀な女だな。
「睡眠も仕事のひとつよ、イスカ」
今度は
*
船での旅は退屈だった。とにかくすることがない。せいぜい、たくさんの貨物が積まれた甲板に出て、空と雲を観覧するくらいだ。船室の一部では、カードが持ちこまれてささやかな娯楽を楽しんでいた。僕も遊ばせてもらったけど、すぐに飽きてしまった。
あまり長くかからず目的地に着いたのは幸いだった。
長いタラップを降りて、僕は大きく伸びをする。
「やっと着いたー!」
あわてて彼女のあとを追いかける。
「これからどーするんで?」
時刻は早朝。空は半分、黄金と赤を混ぜた色で、のこり半分が紺色だ。ベッドは確保されていたとはいえ、夜を徹してのカード遊びがたたってすごく眠い。このままホテルに行って休みたい──
「仕事にとりかかるわ。荷物は空港からホテルへ送るわよ」
まじか。どんだけ真面目なんだ、うちのマームは。
「仕事って、こんな朝っぱらからなにするんだよ……」
げんなりしてうめくと、マームはすまして言い放った。
「朝ごはんに決まっているでしょう」
最悪なことに、連れていかれたメシ屋は魚しか取り扱っていない店だった。せめてもうちょっと食材に幅のある店なら時間のつぶしようもあったけど、朝食を食べない派の僕は水だけで時間をやり過ごした。
マームと僕が所属しているのは、アル・キット・ワル・カマル社の貿易部にある総合課だ。貿易はまあ、分かる。よその島から物を仕入れたり、逆に輸出したりする部門だ。でもその中の総合課とやらの働きはよく知らない。親父はマームの部下になれと言っただけで、仕事内容については触れなかった。社内の事務所に足を運ぶ前に、数日分の着替えを詰めたキャリーケースを持たされて放り出されたのだ。実地で学べということなのだろう。親父は僕が机にかじりついていられないってことをよく知っているから、マームにもなにかしら忠告したにちがいない。
ところがマームは、親父に輪をかけてなにも言わない女だった。仕事の手順どころか、僕たちの社内での役割について、ひと言もだ。昼飯を食いに町中を歩くときも、秘湯を求めて山野にわけ入るときも。せいぜい「行くわよ」くらいか。ああ、「おはよう」と「おやすみ」だけは欠かさないな。あとは「いただきます」。
幽霊船が到着したその日に床屋に次の予約を入れて、船が入港するとチケットをとって、島を出る。そしてまた次の島で数日過ごして幽霊船に乗る。この繰り返しだ。数日おともをして分かったのは、マームは仕事らしい仕事をしていないということだった。食べること、風呂に入ること、ホテルに宿泊することを仕事だと言い張っている。どこかの企業と提携を結んだりとか、製造業と仕入れの商談だとか、小売店に商品を売り込んだりだとか、一切ない。
わけわかんねぇ。マームもだが、親父も僕になにをさせたいんだ。
一方、僕はというと、いいかげんガマンの限界がきていた。来る日も来る日も同じことの繰り返し。まったくもってつまらない。フラストレーションをためこんでは、夜の街に繰り出して、オネーチャンのいる店で酒を飲み、発散している。
マームは、たぶん気づいている。僕が夜な夜な宿泊先を抜け出して遊びまわっていることを。でもなにも言わないのをいいことに、お互いがお互いに知らないふりを続けた。
いつものようにホテルを出て、それなりに高そうな──つまりはきちんと身元の分かる人間を集めた──店に入ろうとしたときのことだった。連日の寝不足がたたってぼんやりした頭のままドアを開け、
「二名様ですか?」
「ああ。に……──に? ──おぉう!?」
ホールスタッフの言葉に違和を覚えて振り返ったら、マームが突っ立っていた。い、いつのまに!!
「なんでここに!!」
「用があるからよ」
「ふざけんなよ! 帰れよ!!」
「指図を受けるいわれはないわね」
「はぁ!? 邪魔するなってば!!」
なにを言っているのか分からない。マームの無表情がそう訴えた。その瞬間、僕の中でなにかがブチンと音を立てて切れた。まともに眠っていなかった日が続いて、理性のたががはずれやすくなっていたんだろう。
「ちょっと来い!!」
命令口調でマームを店の外に引きずり出して、雑居ビルとビルとの間の細い隙間に連れ込んだ。
「なんの真似だ! 親父の差し金か!?」
僕こそなんの真似だ。壁ドンじゃねーか。こんな好きでもない女に。
でも頭に血が上り切って、冷静さはかけらも残っていなかった。「僕を懐柔しようってか。放蕩息子を更生させて、点数を稼ぎたいんだろ!」
「ばかなはなしね、私があなたをどうこうできると思っているの」
「思ってるわけないだろ!」
「同感だわ」
……ッッ!! なんなんだこの女は!
「──おそらく、だけど。御父上は、体裁を整えたいだけなのでしょう」
「…………は?」
マームがいきなりなにを言い出したのか。
理解が追いつかなくて、僕は目を丸くした。
「私は社内にはいないけれど真面目に働いていると思われているし、実際真面目に働いているわ。その私の部下なら、真面目に働かざるを得ない、と思われる。つまり給料を支払う理由ができるのよ」
ぽかーん。
……マジでなに言ってんだ、この女。
「御父上の判断は正しいわ。あなたのような社会不適格者は、オカネを稼ぐ能力があっても機会がないかもしれない。……いつまで子離れしないのか、そうやって
マームは、それまで逸らしていた目を動かして僕を見た。まっすぐ、僕の目を射抜いて、はっきりと聞こえる声で断言した。
「私は、子どもにどことも知れぬ土地でのたれ死なれることをよしとするような親よりも、とても親らしい感情だと思うわ」
「…………」
マームの言っていること、全てが理解できたわけじゃなかった。
ただ僕は、親父から過分に守られて生きているということだけは分かった。
成人してなお、親の傘の下から出ることができない恥ずかしさと、ひとりの子どもとして守られている嬉しさ。反骨精神、いろいろな感情が混ざり合って、言葉が出てこなかった。
無言のあいだにちょっとだけ理性を取り戻して、僕たち家族の事情に巻き込まれた女の身の上を考える。
「……あんたはそれでいーのか。部下がこんな、……不真面目で働かない奴で」
マームは少し考えるそぶりを見せて、早口に言った。
「まえにも言ったけれど、私はあなたが不真面目だとは思っていないわ。そもそも、あなたたには初めての仕事でしょう? まだなにもやっていないのに、働いているかいないかとか、良いか悪いかとか、わたしに判断がつくはずがないもの。仮に働いていないとしても、給料を支払うかどうかの裁量は私に任されていないから、どうしようもないわね」
それは社長の領分よ、と彼女は言い足す。「逆に聞きたいのだけれども。──あなたはどうして、自分が働いていないと思っているの?」
「それは……」
夜には飲み屋をはしごして。朝になってからベッドに入って。
僕の頭の中に、いままでの上司たちが言葉を並べた。どうして時間を守れないんだ。始業時間は──昼休みは──アポイントメントは──約束がちがうじゃないか。きみはもっと真面目にできないのか。努力はしているのか。社長の息子だからって甘ったれるな。もっとやりようがあるだろう。
体からちからがぬけた。不安のせいで、背中が丸まっていく。マームをまっすぐ見ることができない。頭の中でたくさんの声がぐるぐる渦を描く。
「私が思うに、」
マームの声が、脳内に乱反射する声をかき消した。「あなた、超夜型よ」
「……チョー……よる、がた……」
いったいなんの話が始まるんだという混乱のせいで、単語の意味が理解できない。
「太陽が沈むころになって元気にならない? 頭の回転がよくなって、一番調子がいいのは夕食のあと」
こくり、と神妙にうなずく。
「体力も気力も有り余っているから、夜になって出かける。だから朝、遅くなる」
指摘された通りだった。夜遊びをやめて早く寝ろと何度も言われた思春期を思い出す。
「私の知識によると、あなたは早寝早起きをこころがけても朝は起きれないし、午前中のテストで良い成績はとれないわ」
衝撃的だった。僕は目をしばたたく。早寝早起きが、むだ?
「なんで……」
「遺伝子がそうなっているのよ。ユナキ大学の研究結果よ。およそ千人の学生を集めて睡眠時間と判断能力の相関関係を調べたの。結果、夜型の人間は睡眠時間がじゅうぶんに満たされていても、午前中の判断能力に一定の低下が認められたわ。つまり夜型は、最高のパフォーマンスを発揮するには夜にならないといけないということね」
「えーと…………つまり?」
「そもそも会社勤めすることがまちがっているのよ」
マームはずばりと結論を出した。「体質が、昼型社会に適していないの。独立してフリーランスになるか、起業することをおすすめするわ。もしくは社長にお願いして、夜にできるような業務を回してもらうことね」
「…………」
「ああ、そうだわ。念のため、本当に夜型かどうか、きちんと調べた方がいいわよ。クロノタイプ診断といって、自分で判断できるものもあるけれど」
なんなら専門機関を紹介してもらいなさい、御父様から。
などと言いながら、マームはさりげなく僕から遠ざかっていく。
「ちょっと待っ……どこに!?」
「だから言ったでしょう。用があるのよ」
数分後。僕とマームはそろって飲み屋のオネーチャンに囲まれた。合計六人。ヘルプが入っているにしても、豪勢すぎやしないか。それもこれもマームが「ここは
「わー、お姉さんたちすごい会社につとめているのね」
「わたし知ってる。ロナン・カフェでしょ?」
「ナジュム航空も子会社って聞いたことがある!」
「そうなの!? すごーい!」
いつもなら僕が社長の息子だっておおいに自慢する場面だけど、今日はお鉢が回ってこなさそうだ。さっきから可愛い女の子たちに質問攻めにされているのはマームのほうで、僕はぽつんと置き去りにされている。マームのほうがカネを持っていると思われているんだ。マームはマームでやけに慣れた調子で受け応えているし……。僕はウイスキーを飲みながらこっそりほぞをかんだ。くそ、おもしろくない。
「ねえ、この、貿易部総合課って、どんなお仕事をしているの?」
受け取った名刺をしげしげとみていた女の子に対して、僕は答えられなかった。──なんの仕事なんて、僕が知りたいくらいだ。だから答えたのは当然、マームだ。
「調べるのよ。なにか売れそうなものを」
マームはグラスを置いた。
「この島では当たり前のものが、よその島ではとても珍しく、楽しいものになることがあるの。それを探し出して、この島や私たちの島だけでなく、もっとたくさんの人たちに教えて喜んでもらうのが私たちの仕事よ」
へえ、と女の子たちが感心の声を上げた。その中には僕の声も混ざっていた。
「でも、当たり前のものだから「楽しいものはありませんか」と聞いても答えてくれないの。当たり前だから、楽しいという感覚が現地の住人にはないのよ。だから、私たちのようなよそ者が現地の当たり前の日常に混ざって、当たり前ではない感覚を研ぎ澄ませて探し出すの」
おもしろいわよ、と彼女は言った。表情筋が死んでいる彼女が見せた初めての微笑に、僕は不覚にもじっと見入ってしまった。
「たとえば、あなたが使っている香水。シャルル・ルリユール」
「えっ」
なんで僕の香水の銘柄知ってんの?
「その香水には
マームの声にのって、僕たちの心はサントリオ・アゲートへと旅立っていた。遠い遠い島、空のかなた、幽霊船だけがたどり着ける見知らぬ隣人。彼らが得ためぐみが、幽霊船を使ってギザへ送り届けられ、加工されて僕の手に届き、いまはこんなところにいる。
「麝香はね、ものすごくくさいのよ」マームはキリッと眉をつり上げた。「あれはヤバイわ。一秒もかいでいられないの。二秒かいだら確実に病院送りになりそうなくらいにね。それが、大量の香水の中に一滴だけ落とされると、それはそれは
僕は心から感嘆した。いつも使っている香水にこんなエピソードがあったなんて知らなかった。
「まだよちよち歩きだったうちの会社は、麝香のおかげで大きな利益をあげて、そのオカネを成長の足がかりにしたの。おかげでとても大きくなったわ。社員を何人も抱えて、彼らの活の
最後のほうは、ほとんど僕に向けられているように聞こえた。
働くこと。
僕の体質。
旅の間中、どうどう巡りのようにもんもんと考え続けた。
「──親父」
自宅に戻った翌朝。眠れない夜を明かした僕は、リビングのソファに座って、起きぬけの親父を呼び止めた。タテジマパジャマを着ている姿と、スーツを着ている姿とは、だいぶ雰囲気がちがう。でもこの人が、社員を何人も雇って、国を潤している人物なのだと思うと、少しだけ恰好良く思えた。
「あいつ、なんなんだ?」
誰のことを言っているのか、親父にはすぐわかったと思う。それでも親父はすぐに答えなかった。悩まし気に眉を寄せて、ぼりぼりと頭をかいて、最後には諦めたようなため息をついて僕の正面に座った。
「ハリーは、私の親友の娘だ」
マームについて驚かされたことは一度や二度じゃない。いいかげん耐性もつく……なんてことは、なかった。ひどく衝撃を受けた僕は声も出せなかった。
「シャルルという名前の、隣の島から来た男がいてな。親友はそいつと結婚して子どもを産んだ。それがハリーだ」
内心でまた驚く。親父の親友とは、男性ではなく女性のようだ。男女の友情問題が頭を駆けめぐるが、それはまた別のはなしとして置いておく。
「当時、私はシャルルと一緒に会社を立ち上げたばかりだった。希少性の高い古い本を修復する会社だ。……ああ、当時は月に何度か仕事がもらえる程度の、小さな会社だった。私が幽霊船であちこちの島をめぐり、本を回収し、シャルルが修復。新品同様になった本を代金を代金と引き換えるという。──ある日、島の住人から、なにかに使えないかと託された品があってな。私はそれを親友に渡したんだ。彼女は調香師だった。香水を作る仕事だよ」
ここまできて、僕ははっきり確信した。
香水、シャルル……。女の子たちに囲まれて語ったマームの横顔が思い出された。
「その香水が売れたんだ。資金を得た会社は方針を変えて大きく成功した。シャルルはあいかわらず本の修復をしたがったからそのままだったが……。社員を雇い、売れるものを探し、時には材料を集めて物を作った。会社が軌道にのったころ、彼女とシャルルは事故で死んだ」
自分が若いうちに親が死ぬってどんな気持ちだろう。想像もつかなかった。僕には両親がそろっている。兄たちもいる。家族が死んだら、僕はどんな気持ちになるんだろう。……うん、きっと、悲しい。すごく。
「シャルルは経営方針を変えた際に株券をすっかり手放して、一介の社員になっていた。だがいわば、創業者の一人だ。進学の問題もあってハリーに援助を申し出たんだが、彼女は渋った。返すあてがないからと……」
あの無表情のままで首を横に振る若いマームがありありと想像できた。
「だが、彼女は進学する夢を捨てきれず、けっきょく申し出を受けてくれた。条件は、卒業後、アル・キット・ワル・カマル社に入社し、給料から利子分もふくめて全額返済すること。返済が終わるまで転職はしないこと」
真面目に仕事をしている、と言い切っていた彼女を思い出す。借金があるんじゃ、真面目になるのも当然だ。
親父はそこで長くことばを切って、ソファの背もたれに背中を預けた。
「……もうすぐ、その返済も終わる。その後、あの子がどうするつもりか私は知らんが」
親父は彼女に、会社に残って欲しいんだろうか。そうだよな、真面目に仕事をこなす社員は一人でも多いほうがいい。ましてやそれが親友の娘なら。それが人情だ。ドラ息子を放っておけないほど情に厚い親父が、親友の娘を軽んじられるはずがない。
でも彼女がそれを望まなかったら? ほかにやりたいことがあったら? きっと親父は自分の望みを捨てるだろう。無理に引き止める権利は持っていないんだ。本当の親じゃないんだから。
「……なんで、僕を彼女の部下にしたんだ?」
わだかまりのように残っていた疑問をここでぶつけてみる。口にしてみて、あっと気づいた。「もしかして、僕とマームを」
「あほぅ!」
「ぃでっ!」
げんこつはないだろ、げんこつは!
「お前のようなドラ息子がハリーにつりあうか!!」
この場合、僕が軽くって、マームが重いってことだよな。分かってるよ。どうせ僕はドラ息子だよ!
殴る勢いで立ち上がった親父は、けれど急速に意気をしぼませてソファに座り直した。なぜか目が横に泳ぐ。
「……とはいえまあ、ハリーもあれで問題があるのだが」
「どこが」
あんなに仕事仕事で真面目な女が? 朝にちゃんと起きて朝飯もしっかり食うマームのどこに問題があるってんだ。……あー、いや、表情筋はまったく仕事をしていないけど。あれはたしかに問題だよな。人とのコミュニケーションができないし。でもその割には飲み屋の女の子に大人気だったけど……いやいやあれはカネをちらつかせたせいだろ。
「我が強すぎるというか、自分の意見をかたくなに曲げようとしないところがある。学校では優秀だったせいか、知識を鼻にかける態度が気に食わないという上司もいてだな」
確かに、なにか聞かれるとベラベラベラベラよく喋っていたな。それ以外はびっくりするくらい無口なくせに。
「性格も内向的だからあまり人と関わるような仕事は任せられんし……その点、いまの部署は最適だと思うんだがなあ……」
うんうんとうなる親父の様子から、ハリールの人事についてあれこれ裏で手を回している可能性が透けて見えた。まあ、親父だからな。思い入れのある人間を放っておけるはずがない。
「結婚するような相手もおらんようだし……」
親父はそこで、はっと目を見開いた。なんだ? といぶかしんだのもつかの間、親父がずずいっと僕に顔を寄せる。
「お前、巡業中に気づいたことはなかったか。ハリーが男と会っていたとか、一緒に食事をとった男がいたとか」
あっ、なるほど。僕がハリーの部下にされた理由を一瞬で理解した。
「別に。男
「そ、そうか……」
親父はがっくりと肩を落とした。
……翼を生やした年下の女の子といい雰囲気だったことは、たぶんこの場には関係ないから黙っておこう。
「はあ……ハリーが結婚したいって言ってくれるなら、いっぱい紹介できるのになぁ」
「絶対言わないだろ、それ」
マームは自分の意見を曲げない、我が強いって、さっき言っていたじゃないか。それにマームは仕事にやりがいを見出していたから、結婚したいとも思っていない可能性がある。
「つーかさ、それ、僕がマームに迷惑をかける可能性は考えなかったの?」
親父はしれっと言った。
「お前ごときに、ハリーがわずらわされるはずがない」
自分の考えを曲げないのが問題だって言ってた口でそれを言うのは、褒めてるのとけなすのが紙一重になるよ、親父。
結局、僕はそのままマームの部下としてやっていくことになった。親父いわく「ハリーならお前をうまく使うだろう」だってさ。
まあ、いいか。
そう思えるくらい、僕はマームのそばを嫌いではなかったし。
そんなこんなで僕は今日も、マームの朝食に付き合っている。
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