第25話 あおいと明菜

「だっ、黙ってろぃ!」

「こら、太一! 相手は女の子なんでしょう」


 太一が堪えきれずに反撃したのをしっかり明菜に聞かれてしまう。それで太一は余計に立場を悪くする。


「かっ、かぁちゃん、違うよ」

「違わないでしょ!」

「は、はい……。」


 当時から幼稚園では敵なしの太一ではあったが、明菜には敵わない。手厳しくピシャリと言われてしまったのでは、恐ろしくて謝るしかなかった。だが、もっと恐ろしいのは、女の涙だった。


「うっ、うぇーん」

「ええっ?」

「あぁーん」


 あおいが急にわんわん泣き出した。あおいにとっては涙を流す演技は、得意の部類だった。太一は驚きながらも必死に状況を分析した。そして迫る明菜からのゲンコツ3発ぐらいは喰らう覚悟を決めた。痛みになるべく堪えられるようにと身構えた。だが、明菜は太一を素通りし、あおいの前で静かにしゃがんだ。甘さのある爽やかな香りが髪から弾け飛び、シャワーのようにあおいの全身に降り注いだ。


「泣かなくてもいいわよ」


 あおいは優しさに包まれたような気持ちになった。演技を辞め、明菜を見つめた。明菜も、あおいを見つめ返した。


「どうしたの?」

「か……い」

「えっ?」


 太一と明菜には、かわいいと言っているのが、微かに聞こえた。だが、明菜はあえて聞き直した。言わせたかっただけで。


「かわいいです」

「聞こえないなぁ。もっと大きい声で言っていいのよ」

「はいっ、とってもかわいいです!」


 明菜の顔は、あおいの声の大きさに比例して華やいでいくようだった。だからあおいは、最後はかなり大きな声ではっきりと伝えた。30歳手前でもまだまだ若い明菜は、あおいの頭を優しく撫でながら言った。


「ありがとう。貴女もとってもかわいいわよ。ねっ、太一」

「うん。かぁちゃんより、かわいいよ」

「太一、今日はおやつ抜きよ。勉強をサボろうとした罰」


 明菜はツンとした表情で言った。太一は、余計なことを言わなければ良かったと思い、ぽかんと口を開け天を仰いだ。それを見ていたあおいから、自然に笑みが溢れた。太一の言動が楽しかったし、太一にかわいいと言われたことが嬉しかった。明菜はすかさず、もう一度優しくあおいに話しかけた。


「どこから来たの?」

「秋葉原グランド」

「あぁ、秋にオープンするホテルね」


 それからのあおいは素直だった。明菜にも太一にも、何でもはなせる雰囲気があるのだ。そして、さっき泣いてたのは太一が悪いのではなく演技だったこと、自分はなまだしあという名の子役で撮影現場から逃げ出して来たこと、演技が上手にできずおばあさんに叱られ嫌になったこと、不思議なことにあおいは、今まで隠そうとしていた自分の弱さを全てさらけ出していた。


「とても良い経験じゃない。その人を大切になさい」

「シハンしてくれる人が、本当に良い人なんだぞ」

「太一、批判だろっ。ひ、は、ん!」


 太一は明菜からデコピンを喰らうと、地面に寝そべってドタバタと転げ回った。まるで、アニメのワンシーンのような、コミカルな動きだった。あおいは、今度は大笑いした。そしてこのまま、この楽しい時間の中にいたいと思っていた。だが、明菜はそれを許さなかった。凛とした表情であおいに向き直った。


「休憩は何時まで?」


 明菜に言われて、あおいは懐中に忍ばせてある時計を恐る恐る確認し、顔を曇らせて後ろを向いた。


「……。あと5分。もう間に合わないわ」


 その声は蚊の鳴くようだった。時刻が過ぎていればそのままトンズラしようと思っていたのに、急げば間に合うような中途半端な時間を残していた。だが、わざわざ怒られるために逃げ出してきたその場所に急いで戻る気にはなれなかった。だから、もう間に合わないと言い訳した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る