第12話 光龍様

 太一が大切に育てている金魚とは別に、太一を見守る存在があった。その存在が太一にはじめてはなしかけたのは、太一が宮司としてはじめて日供祭に神殿へと入ったときだった。


「遅いのじゃ! 腹ぺこなのじゃ!」

「えっ、今の声は、一体誰?」

「儂なのじゃ。そなたの主人なのじゃ」


 はじめは戸惑いがあった太一だが、声の主がどんな存在なのか、想像に難くはなかった。その声は清らかで少し高くて若々しく張りがある。それとは裏腹な少し古めかしい言葉遣い。自らを主人だと言い切る。太一は極めて冷静に、神を感じた。


「光龍様……。」

「その呼び名は、あまり好きではないが、まぁ、良いのじゃ」


 光龍大社に祀られている光龍様は、正式には真名井受大貴姫(まないうけおおなむちのひめ)という。記紀には載っていないが、それよりも古く、2万年以上前から何らかの形でこの地に祀られていた女神だ。ときには統治の象徴として、ときには五穀の恵み手として、またあるときは技術の伝承者として周辺集落にとって欠かせない神として君臨してきた歴史を持つ。光龍大社で産まれ育った太一にとっては最も身近で神聖な存在だ。


「はよ、馳走の準備をいたすのじゃ」


 日供祭というのは、毎朝夕に行われる神饌を捧げ祝詞を奏上する祭りのことをいう。

 神饌とは神に提供する食事のことで、光龍大社では三方という盆の下に四角い台がついたものを7つ用意し、7種類の食物を供えている。神様側から見て左の手前から酒、米、水と塩が、左の奥から魚、果物、野菜、肉がこの順に並べられる。三方は、『三宝』と記されることもあるが、それは仏教の影響を受けた記述であり、古いこと以外にこれといった特徴のない光龍大社では三方と記す。代わりに、台の部分の三方向に猪目と呼ばれるハートのような模様のくり抜きを施したものを使っている。3つの方向に穴があるから三方というわけだ。また、祝詞というのは日々の安寧とお護りいただくことへの御礼を記した紙のことである。


 光龍様に促されると、太一は米、水と塩、酒、野菜、果物、肉、魚の順に並べる。その手際の良さは、帰宅部員として日々鍛錬しているだけではなく、小さい頃より明菜に仕込まれているからに他ならない。


「見事な手際なのじゃ」

「ありがとうございます」


 太一は軽く会釈をして、正面に立ち直す。神殿の正面を正中と呼び、神様の通り道とする神社もあるが、光龍大社の場合はそれもこだわらない。大陸文化の影響をほとんど受けていない素朴な神といえる。


「もう良いのじゃ」

「えっ、ですがまだ祝詞を上げておりません……。」

「そのようなものは形式に過ぎぬのじゃ」


 太一は、古くから伝え聞く通りに日供祭を執り行おうとしたが、光龍様にはその気がないようだった。太一は食い下がった。


「感謝の言葉を伝えたいのです」

「……。神に言葉など不要なのじゃ」

「そんな……。」

「現に、今、言葉を発してはおるまい。それが証拠なのじゃ」

「あっ!」


 光龍様の念に、太一は自分が声を出していないことに、はじめて気付いた。光龍様とのコミュニケーションに言葉、いわゆる音声は不要。頭の中で思いを巡らせるだけで、意思の疎通がはかれてしまう。一種のテレパシーのようなもの。それに気付いた太一は、驚かずにはいられなかった。


「では、儂はしばらく休むのじゃ」

「お、お待ちください」


 太一には、分からないことがたくさんあった。だから、光龍様に聞いてみたかった。しかし気紛れな女神は、食事を済ませたら、さっさとお休みになってしまったようだ。まだ朝だというのに、何とぐうたらな生活だろう。そう思ったとき、太一はハッとする。光龍様に伝わってしまったら厄介極まりないからだ。だが、光龍様からの返事は全くないため、太一には伝わっているのかどうかさえ確かめる術がなかった。


 このまま、光龍様に振り回されるような生活は避けたい。だからその日の夕方の日供祭で、太一は思い切った行動をした。もし伝わっていればバチが当たりかねないが、早い段階ではっきりさせておいた方が良いと考えたのだ。

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