第3話 集団嘔吐事件

 太一を悩ます発光体質。発光したのは、太一が知る限りではたったの2回だけ。その1回目は、幼稚園年長のときの運動会でのことだった。


 都会の幼稚園に、まだ柔らかい日差しがそそぎ、緑色の風がそよぐ。鯉のぼりから万国旗へと模様替えされた園庭は、園児達の情操を育む。のどかな運動会の始まりとなった。


 午前中の太一の出番は1回だけ。疲れないようにと、松組教諭が配慮したのだ。太一としては平気なので、本当はもっと出番が欲しかった。だが、教諭の配慮というものを明菜から説明されていたので、聞き分け良く組の応援をしつつ力を貯めていた。


「今日は、1人で走るんだ」


 午後になっても相変わらずの天気で、強い日差しが大地を乾かす。地温はぐんぐんと上昇。水蒸気をたっぷりと含んだ空気を少しずつ青空へと押し上げていく。空気と空気とに摩擦が生じ、目に見えないエネルギーが蓄積されていく。そんな空の様子をずっと見ていた園長の横で、松組教諭がつぶやく。


「いつのまにか、雲が集まっています。このままでは……。」

「いやいや。ボーイズビーアンビシャス、じゃよ!」


 ボーイズビーアンビシャス。園長の口癖であり、この幼稚園の教育理念でもある。園児たちは言葉に対する理解を少しずつ深め、成長していく。東京の真ん中という地の利もあるが、現にこの園から各界のリーダーが育っているのだから、園長もほかの教諭も、この言葉を大切にしている。


 このあと、松組教諭は綱引きや玉入れの競技時間を少しずつ短縮させた。玉入れは同点で、再戦を望む園児や父兄たちの大歓声が沸き起こった。だが、松組教諭は、それを無視して両者勝利とし、最終競技の開始時刻を早めた。どの競技に参加する園児も、勝ちたいという気持ちがあり、教育理念に照らせば雌雄を決する延長戦を行うべきである。松組教諭にとっては批判されるのを覚悟の上での決断。最終競技を実施することにこだわればこそだ。


「太一君、頑張ってね!」

「あぁ、勝って、なまだしあをお嫁さんにするんだ」

「なまだしあ? 何組だっけ」


 なまだしあというのは、映画、TVドラマ、CMに多数主演している子役のこと。このときの太一は、本気でなまだしあが好きだったが、当時はまだ無名。周りは何のことを言っているのか理解できなかった。そんな周囲の反応をよそに、太一は案外早くまわってきた出番にも、少しも慌てず手際よく準備をする。太一には勝てる自信があった。徒競走、華の最終組。その覇者はビクターと呼ばれ、卒園までの間、園児達の人気者になる。太一は、勝って大好きな明菜や金魚のまりえに報告をしたかった。


 強者が4人、スタートラインに並ぶ。華の最終組に出場できるかどうかは単に足の速さだけで決まるものではない。運動会の総てを締めくくるに相応しい、厳粛で伝統に則った振る舞いができるだけの知性をも合わせ持っていなければならない。それ故に、この競技においては、父兄も熱り立つ。我が子を一躍スターダムにのし上げようと躍起になる。またその瞬間を記録しようと、買ったばかりのデジカメを我が子へと向ける。誰が勝ってもおかしくない最終競技を前に園児たちよりも先に父兄に緊張が走る。


 稲光が大空を走り、雲の厚さが雨を降らすには充分になったことを知らせる。だが、園長と松組教諭以外の誰もまだ空を気にしていない。


「位置について」


 少し慌てながらも、園長がはっきりと言う。既に園児たちの間にも緊張感が漂っている。太一も例外ではなく緊張感に押しつぶされそうになるが、それでもその緊張を楽しもうと、何度も自分に言い聞かせていた。勝負の始まりを誰もが固唾を飲んで見守る。


「用意、ドンッ」


 園長が手を振り降ろしながら叫ぶ。それを合図に4人の園児が駆け出す。沸き起こる大歓声。太一が先頭だ。次いで竹組、藤組、百合組。応援の園児も父兄たちも、興奮から身体が熱くなっていて、気温がぐっと下がったことに全く気付かない。人間の身体は、3度くらいの気温差には柔軟に対応できるようにできているのだ。都会の狭い園庭では、50メートルでさえ真っ直ぐに取ることができない。U字型に曲がったコースでは、最終コーナーを曲がり終えるまで、勝負の趨勢が見えない。太一は、そのコーナーを先頭でまわる。ビクターに王手をかけると、そのままゴールテープを切る。太一が優勝。やんややんやの大歓声がまき起こる。


 だが、そのあとにはじまったのは英雄譚ではなく、悲劇。いや、惨劇だった。


「やったぁ!」


 先頭で走り切った太一を、強い興奮状態が襲う。それが太一に異能を起動させる。太一の身体を中心に走る閃光。あらゆる方向に真っ直ぐに、力強く、そして鋭く。小さな幼稚園ではあったが、その園庭は200人を越す園児とその父兄や教諭がいて、それが太一の放つ不思議な光にすっぽりと包まれる。


 不思議な光がおさまると、今度は大雨が降りはじめ、次に園庭を支配したのは異臭。雨の日の土の匂いとは全く違う、鼻を指すような刺激臭だ。徒競走のゴール付近、吐き出す園児や大人たち。お昼にジャムサンドを食べた園児の顔は真っ赤に染まっていて、おにぎりだった子の周りには消化されかけのご飯粒や海苔がドロドロの状態をさらける。それらは雨水と反応し、悪臭となって周囲の人々の鼻腔に突き刺さる。何の匂いかを強いて言えば嘔吐物の匂いとしかならない。


「おっ、おい。だれか、だれかっ! お、おえぇっ」


 園長先生が耐えきれずに吐く。誰も誰かを助けられないまま数十秒が過ぎる。光の中心にいた太一は、その一部始終を目撃する。太一の直ぐ近くには、吐いた者はいなかった。不思議な光の強い衝撃に耐えられず、失神していた。その外側からさらに外へ向かって、渦を巻くようにして嘔吐しては倒れる人々。まるで、ドミノ倒しのように順番に変化していく。白目を剥き倒れる人。ただ立ち尽くす人。泣きじゃくる人。呼吸困難に陥る人。


 そんな阿鼻叫喚渦巻く中、吐きながらも我が子を抱きしめる女がいた。明菜である。そうしたのは、太一だけが平然としていることを隠すためだった。


 惨劇は、死者がいなかったのが幸いに、急激な気温や気圧の変化と雷を伴う急な大雨による集団的かつ突発的な体調不良による嘔吐という結論になった。世にいう『集団嘔吐事件』、真相を知る者は、このときは明菜だけだった。

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