第2話 水合わせ

 家に帰った太一は、直ぐに地下室へと向かう。そこには水槽があり、水槽の中には太一が大切にしている金魚がいる。全部で3匹。とはいえ、高級な金魚というわけではない。太一が飼うのは、はねっこと呼ばれる選別から外された金魚ばかりだ。今の太一にとっては、このはねっこたちだけが友達と言っても、過言ではない。太一は学校や行き帰りでの出来事をはねっこたちにはなして聞かせるのを日課としている。だが、下校時に起こったことを報告するつもりはなかった。


(少しやり過ぎたかもしれない……。)


 そう思ったのもあるが、もう1つ太一にははねっこたちに報告しなければならないことがあった。それは、友達が増えることだ。この日、太一は学校帰りに金魚屋へ寄り、1匹の金魚を引き取った。1週間前から予約はしてあったが時間が取れず、今日になってしまったのだ。


「ほら、新しい友達だよ!」


 太一はビニール袋の中の金魚を水槽の中の金魚たちにお披露目する。だが直ぐに水槽の中にドボドボと注ぎ込むようなことはしない。金魚は急激な水温や水質の変化に弱い。特に水温は0.03度の変化を敏感に察知するともいわれる。そこで、まずはビニールごと水槽の水につけて30分ほど待つ。これで水温は同じになる。その間も決して水槽から目を離すことはできない。水温が変化しているのだから。ただ、この日は幸運にも無事に済んだ。


「次は水質!」


 太一は空の金魚鉢を取り出すと、ビニールの金魚を水ごとそこに移す。そして、そこに水槽の水を少しずつ注ぐ。太一の場合はホースを使い、点滴のように水を少しずつ落としていく。そうしていくうちに、水槽の水と金魚鉢の水とはほとんど同じ水質になる。この一連の作業を水合わせという。太一は水合わせを2時間以上もかけ、実に丁寧に、正確に、美しく済ませた。それでようやく金魚鉢の金魚を水槽に入れることができる。


「よしっ! ここからだ」


 そう言いながら、太一は金魚鉢の金魚を水槽に入れた。その後も気が抜けない。水合わせをした後の方が、よほど神経を使うのだ。金魚の中にもいじめがあり、今入ったばかりの1匹が、元からいる3匹に受け入れられるかは判らない。本当の意味での緊張のはじまりだ。4匹の金魚を、太一は注意深く観察する。


「早速まりえが様子を見に行ったぞ!」


 太一は金魚たちに名前をつけている。まりえというのは琉金という品種の金魚で、太一のものごころがつくよりも前から鱒家にいる1番の古参だ。もう16歳になる長寿だが、未だに好奇心が強い。常に楽しいことを探して、後先を考えずに行動する。そんな性格だが、太一はまりえを信頼していた。少なくとも今までに1度も鱒家の水槽の中でいじめはおこっていない。


「しいか、大丈夫だよ。まりえは良い子だから安心して」


 今来たばかりのしいかはまだ自分がしいかだとは思っていないが、そのうちにそれを受け入れるだろう。そうやって言葉をかけることで、金魚の側も太一に心をひらく。だが今のしいかは環境の変化に戸惑いがあるようだ。2歳魚で、人間でいえば思春期にあたるしいかは、やや神経質になっている。そんな相手では、ものごとをあまり深く考えないまりえの手には負えない。案の定まりえはしいかに遊んでもらうことができず、しょぼくれてスゴスゴと退散した。


「次は優姫。頼んだぞ」


 優姫は蝶尾という品種で、鱒家では2番目に古い。太一に飼われて10年にもなる。太一自らが水合わせをして迎え入れた最初の金魚でもある。金魚に何かを頼んだからといって、頼まれた金魚が何かをするとは考え難い。だが、このときの優姫は直ぐに行動を開始する。それはまるで、優姫が太一の言葉を理解しているかのようだ。蝶尾は泳ぐのがあまり得意ではなく、普段は危険なところには近付かない。だが優姫はまるでしいかにここは安全であるということを教えこむようにして、水槽の隅から隅までを泳ぐ。それを見たしいかがどう思ったか、本当のところは分からないが、太一は優姫のお陰でしいかが環境に馴染んでいくのを確信し、しいかに言葉をかける。


「ほらね、大丈夫だろう、しいか!」


 それを聞いてか、しいかは泳ぎだす。それまでは関わって来なかった鱒家では3番目のまことにも近付いていく。まことは迷惑そうにしながらも、しいかを迎え入れる。


「ははは、まことには、しいかの方からご挨拶している」


 まことは、5年前に鱒家にやってきた金魚だ。品種はキャリコ。3色に彩られていて、見た目は派手だが水槽の底の方でじっとして動かないことが多い。これでしいかは水槽内の全ての金魚と触れ合ったことになる。何も問題は起こらず、しいかの受け入れは成功した。


(これで明日からは俺がいなくても大丈夫かな……。)


 不安が全くないわけではないが、太一は明日からは言われた通りに学校で寝泊まりする覚悟を決める。


 太一が金魚たちの世話をするようになったのは5歳のとき。それまでは太一の母親の明菜が飼っていた。太一の水合わせの手際が良いのは、明菜が丁寧に仕方を教えたからだ。金魚たちも太一によく懐いている。正しく飼えば、争うことはほとんどなく、なごみの象徴ともなる金魚。水槽の中の金魚たちが元気でいることが、太一にとっては何よりの幸せであり、慰めでもある。

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