花の描き方
濱本歩
花の描き方
ものかき仲間に圭というものがいて、彼は幻術めいた文章を書く。
夕焼けを書かせれば繊細な色の移り変わりを、波を書かせれば飛び散る飛沫の軌跡まで、くっきりと浮かぶような描写をする。
引用の許可をとっていないので、彼の文章をここに載せることは控えるが、機会があれば読んでみるといいだろう。
彼とわたしは隣人なので、よく一緒に酒をのむ。その席で、どのようにしたらそのような文章を書けるのか尋ねたことがある。彼の描写力の一端でも盗めればと考えた。
妻を亡くしたときから書けるようになったのだと圭は答えた。
十年前の話になる。
圭は妻の
花というのはいつのまにか咲いているものだ。
未だ咲かないつぼみと、開ききった花、その間には連続した動きがあるはずなのだが、圭が知っているのは二枚の静止画だけである。
花の動きは緩慢すぎて、人の目には動きとみえないのだろう。
時間の隙間に、また文字と文字の隙間に、取りこぼされるものが数多くある。そのような話をしていた。
「今度、つぼみを買ってきてあげる」
杏月はいった。買い出しのついでだし、と。
「その代わり、書けた作品は最初に読ませてね」
翌日、警察から電話がかかってきた。杏月が事故に遭ったという。
まだ梅雨の明けきらない夏、雨の降る夕方のことだった。
四角い霊安室で、遺体の損傷は激しいがそれでも対面するか、と聞かれた。
迷わず対面を選びながら、一方で黄泉平坂の話を思い出していた。イザナギは妻であるイザナミの死後、彼女に会うために黄泉の国へと向かう。彼は決して妻の方をみてはならないといわれたが、禁を破ってみてしまう。イザナミはイザナギに醜く腐った姿をみられたので、怒って追いかけてくる。
杏月は怒るだろうかとは考えなかった。死ぬということは怒ることもできなくなることに違いない。目の前に残っているのは人の形だけであった。
彼女がもっていたという百合のつぼみは部屋に飾った。
彼女が花を買いに行かなければ、事故に遭った道を通る時刻は少しずれただろう。そう考えると、まるで自分が彼女を手にかけたような気がした。
杏月が帰ってきたのは、葬式が全て終わった夜のことだ。
葬式の間中降り続いた雨は止んでいたが、戸口に現れた彼女は全身を濡らしていた。
圭はいよいよ自分がおかしくなったらしいと考えた。
狂った結果だとしても、再会はうれしいものだ。
「ただいま」
杏月はいった。
ふと部屋に飾った百合の花をみてみると、いつの間にかすっかり開いていた。
素知らぬ顔で日常が再開された。
三日ほど、圭は杏月の死と数日の不在についてなかったことのようにして振る舞った。彼女の生存は不用意な一言で壊れてしまう繊細な夢だと思われた。
四日目に恐る恐る、
「この間はどこにいっていたんだい」
尋ねた。
「花の咲くところをみてきたの」
「身体の調子は大丈夫かい」
「あなたの助けになれると思う」
杏月は書斎を貸して欲しいといった。花の咲く様子を文章にするのだという。
「書いてるところは絶対にみないでね」
彼女は丸々一晩を書斎で過ごした。
その間、圭は不安の内に待った。杏月の復活はやはり幻かもしれないと、閉じたままの扉をみて考えた。
杏月は白地に青い罫のひかれた簡素な便せんを持って、書斎からでてきた。
そこに書かれた文章へ目を通すと、紫色の百合のつぼみが、圭の視界に浮かんだ。花弁は眠りから醒めるようにして優雅にはだけ、起き抜けの
そこに起きた幻覚はどんな百合よりも百合らしかった。現実に咲いている花はどれも、そこにみられた理想の花から色か形か、なにかが抜け落ちた紛い物にすぎなかった。
圭の絶賛を浴びた杏月は、
「みたままを書いただけ」
なぜか寂しそうに笑った。
そこまで話をきいたわたしが、
「杏月さんの文章で勉強して君は腕をあげたのか」
合点しそうになったところで圭は
「いや、まだだ」と苦笑した。「そんなに簡単な話ではない、君も知ってるだろう」
圭は杏月の描写から起こる幻覚をなんとか自分の表現に落とし込もうと苦心したが、実らなかった。杏月の文なら穴が空くほど読み返した。筆跡からそれを書いた手の動きがみえるようになるほど、文字の一つ一つまでむさぼった。
どのようにして書いたのか、と質問を重ねても杏月は
「みたままを書いただけ」
と返すばかりである。
圭は作品の執筆を進められなくなった。どうしても描写がうまくいかないという圭に杏月は、自分の文章をそのまま使ってはどうかと提案したが、それは圭の自尊心が許さなかった。
行き詰まった彼は自ら花屋に出向いた。
「あら、杏月ちゃんとこの……」
注文を聞いて気まずそうにする女店主に、
「彼女に花の咲くところをみせてやるんです」
押し切って薔薇のつぼみを手に入れた。
次回は杏月の好きだった花を用意しておこうかという店主に、曖昧な笑いを返した。
「あなたが花を買ってくるなんて、珍しい」
喜ぶ杏月に、もういちど花の咲くところをみせてはくれないかと頼んでみたところ快諾された。彼女はまた、
「しばらくでてこないと思うけど、覗いちゃ駄目だよ」
書斎にこもり、今度は三日三晩でてこなかった。
圭は待った。閉じた扉の向こうには本当に杏月がいるのだろうか。彼女の実在が大変不安であったためにかえって、扉越しに声をかけることすら躊躇われた。
彼女の文章は今度も見事なものだった。
作例が増えたのだから、そこに働いている絡繰りもみえるのではなかろうか。圭は拙い文字の書かれた便せんと向き合い数日を悩んで過ごした。書いては棄て、書いては棄てた。
杏月の用いている単語の一つ一つはありふれていて明快であったが、その置き方によって複雑怪奇な力学が相互に働き、本物以上に本物らしい生命力をもつらしかった。
そこにあるのは、みて取ることは平易であり、しかし正体を問おうとすればたちまちに霧の中へと隠れゆく、正に生命と呼ぶべきものだ。
その技術は、フランケンシュタインの製法にも匹敵しようと、圭には思われた。
杏月は数日の失踪以来、眠っていることが多くなった。
彼女がみている夢について圭は考えた。
静かに閉じられた瞼、引き結ばれた唇、呼吸につれてゆっくりと上下する胸郭。
ずっと動かない顔をみていると、表情が様々にみえた。
あるときは楽しい夢を隠しているように、あるときは悲しい夢を隠しているように。
外から口笛の聞こえる夜に圭は気が付いた。
同じ筈の寝顔が様々にみえるということは、圭のみているものは杏月そのものではないのでは。
どんな夢もみていない、深い眠りの顔に向かって、自分の心象を投影しているだけではないか。
寝顔のようにして様々な予感を喚起する、喚起するというからには予感以前の、それそのものを描くこと。「みたままを書く」とはそういうことではないか。
「あの夜に外から聞こえていた口笛を覚えているよ」
彼はわたしに向かって数小節吹いてみせた。
「その曲は、ドッペルゲンゲルというんだ」
わたしが曲名をいうと、
「よく知っているな」
彼は感心した。
口笛の夜から数日が経ち、圭は三本目のつぼみを用意した。真っ白なダリア。
彼は書斎のカーテンレールに細工をし、暗幕に少しの隙間ができるようにした。
彼はなんとしても「みたままを書く」方法を手に入れなければならなかった。だから、秘密への侵犯が必要だった。
杏月に花の開花を書いてくれるように頼んだ。
「書いてるところはみないでね」
「どうしてみられたくないんだい」
「恥ずかしいでしょ」
彼女が書斎にこもってから圭はじっと逡巡した。時計の針がカチコチと何周もした。
午前三時をまわるころ、彼は遂に決心した。
サンダルをつっかけ、庭に出る。夏の夜気はじっとりと湿っている。
星も月もない。暗い中に書斎の窓だけが漁り火めいて浮いている。
圭は浮かされたように歩いた。走光性の魚になった。
いよいよ覗き込んでみて、彼は納得した。
書き方をすべて心得た。
了解したからには書かねばならなかった。
書斎は杏月が使っていたので、彼は食卓で書き始めた。
書いたのは、杏月と花がでてくる物語である。原稿用紙の上で活き活きと活動する杏月の様子をみて圭は、彼が描写に固執し続けた意味を悟った。そこに現れる杏月は正に、彼の知っている彼女そのものであった。
夢中になって書いているうちに眠りに落ちてしまったのだろう。
「いい作品が書けた?」
杏月の声で目を覚ました。自分が小説を書いている内に気を失ったらしいと思い出す前の寝ぼけた一瞬に、彼女の手が目の前の原稿用紙を取り上げて読み始めた。
彼は判決を待つ罪人のようにじりじりと、原稿用紙が捲られていくのを眺めていた。
最後まで読み終えたとおぼしき杏月は一言、
「わたしじゃない」
声を発して、パタリと消えた。
原稿用紙がはらはらと床に落ちた。
「それ以来だ、僕が君に褒められるような文章を書くようになったのは」
圭は話を終えた。
我々は居酒屋の勘定を済ませて月明かりの元に繰り出した。
別れ際、満月の逆光線で影絵のようになった圭は、
「どうだ、僕が文章を書くところをみていくかい」
ともちかけた。
わたしは少しの間考えて、
「やめておこう」
と答えた。
花の描き方 濱本歩 @rain-112358
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