飛来
「寝ているのか、こんなときに」
意識があるかなきかの
「慣れない場所を歩き回って疲れたんですよ」
左側頭上でリグが受け答えるのに、内心で同意する。
「この程度で疲れるとは……研究室に閉じ籠もってばかりの魔術師は軟弱すぎる」
リズは研究室にあまりいない魔術師に分類できるのだが、何も言わない。寝ているから。
「そうですね。そんな軟弱な魔術師を頼らなければならない状況ですから。由々しき事態ですよね」
リズは口元が歪むのを必死で堪えた。同調するように見せかけて、素晴らしいイヤミだ。不愉快な声の主が屈辱に震えているのが、見ずとも分かる。負け犬のような唸り声が震えているから。
聴いていて、なんとなく思い出してきた。この男は、クレマンスと名乗ったリヴィアデールの兵士だ。このルクトールの防衛で、指揮官を担う一人。つまり偉いわけだが、
「早くこいつを起こせ! いつ敵が来るとも知れんぞ!」
「承知しました」
鼻息荒く、床を踏み抜きそうな足音が遠ざかる。何をそんなに憤っているのか、とリズは呆れた。あれは絶対リズが寝ていたのが原因ではない。ただ八つ当たりしていただけだ。
あれが指揮官というのが、気の重い。いざとなったら無視してしまおう。
「……ったく。いつまで寝たフリしてんだ?」
「バレてましたか」
目を開けると、篝火を反射した砂色の壁が目に入る。両手を上げて身体を伸ばす。筋肉が伸びる感覚が心地良い。
「んー、よく寝た」
実際は浅い眠りだったが。わりと良い感じの覚醒を迎えられたようで、眠気の残った不快感はまるでなかった。疲れもそこそこ取れている。
立ち上がり、なにとなしに窓を見る。ガラスも板も嵌っていない、壁を穿っただけの窓の外は、深い闇が落ちていた。ローブの下のシャツの首元に引っ掛けていた眼鏡を掛けると、空に星だけが瞬いているのが見えた。まだ深夜だろうと推測。
「少しは休めたか?」
同じく眼鏡を掛けたリグ。腕を組み、壁にもたれている。目を悪くした二人は、同じ形の眼鏡を愛用していた。異なるのは、枠の色。リグが赤でリズが青。髪型よりも見分けやすくて良いだろう。
「うん。さっきよりは調子が良い。これなら長丁場も耐えられますよ」
なにせ軟弱な魔術師であるからして。少しくらい睡眠を取っておかないと、いざ戦いのときに不具合をきたす。それを見越しての仮眠だったというのに、難癖を付けてくる奴のいること。
因みに、リヴィアデールの国所属の兵の中にも、同じことをしている人は何人もいる。あの人は、彼らも叱って回っているのだろうか。
「……グラムは?」
「退屈だからって、その辺見回ってる」
「そっかぁ」
大欠伸で涙に浮かんだ目で、窓の外に視線を飛ばす。城壁の外は拓け、見通しが良い。アリシエウスを囲む森は、ここからでは地平線を飾る程度しか見えず。もし何かが接近していれば、すぐに気がつくことができるだろう。
矯正された視力でも、こちらに向かってくるものは何も見えない。周りも騒ぎ立てていないことだし、間違いないと思う。
「……さすがに静か過ぎない?」
クレールが仕掛けてくるという情報が飛び込んできたのが、宵の口。そこから〈木の塔〉の人間も、国の兵士たちも、慌てて戦闘態勢に入り、こうして城壁に詰め寄った。そして今か今かと待ち構え、長い夜を過ごしているわけだが。
状況に慣れ、気が抜けて飽きが来るほど、何もない。
「ガセだった?」
「なら良いんだけどな」
腰に手を当てたリグが、重い溜息を溢す。この曖昧な状況に、疲労が出てきているようだ。あまりこの状態が長く続くのも良くないな、とリズは思う。今度はリグに仮眠を勧めるべきだろうか。
声を掛けようとしたところで、甲高い寄声を聞く。こんな夜中に鳥め、と思ったところで、ふと首を傾げる。――夜に活動する類の鳥って、こんな風に鳴くのか?
リズはあまり鳥に詳しくないが、なんとなく嫌な予感がした。
「ハティ!」
急いで作り上げた魔法陣から、狼を引っ張り出す。背に乗れそうなほど大きな黒い狼は、この世界に姿を現して、ただちに遁甲した。リズが街へと差し向けた。
一方、リズは城壁内を駆け出した。無言でリグが追ってくる。同じものを聞いた片割れは、おそらくリズと同じ心配をしている。言葉がなくとも通じるのは、こういうとき便利だ。
歩哨に上がり、リズは市街地側の胸壁に飛びついた。リグは反対側。眼鏡越しにじっと目を凝らすと、街の灯りもすっかり落とされて息を呑むほど美しい星月夜を無粋に侵す黒い影が宙に見えた。
「リグ!」
影を指差す。頷いたリグは、〈精霊〉サーシャを喚び出した。スラリとした白い娘は、周囲の水で弓矢を作り出し、リズの指し示すほうへ射る。
当たったか。影が傾き、街中へと落ちていくのが見えた。
「警戒しろ!」
リズはとりあえず声を張り上げると、胸壁の前に屈んだリグの背を借りて踏み越えた。そのまま街へと落ちる。
「グラムを行かせる!」
背に投げられたリグの声に手を挙げて応じ、リズは自分の黒い杖を構えた。あいにく高い所からの落下には慣れている。つい最近も体験した。
突き落とされたあのときの、苦い記憶を無理やり飲み込んで。
風と水を駆使して石畳の裏路地に着地し、〝鳥〟の墜ちたほうへと駆ける。あれが何なのか、星明かりのもとでは確かめられなかった。だが、この辺りに生息する野鳥の類ではないだろう。……魔物だろうか? クレールが、魔物を操っているのか。
ただの野生である可能性も否定はできない。それだけに、城壁の兵士たちがどういう動きを取るのかが気になるが、今のリズにはどうしようもない。彼らがきちんと外も警戒してくれていることを祈るばかりだ。
背の高い建物の密集で昼の熱気が籠った路地に、リズの足音が反射する。空を見上げながら走るリズは、焦りと苛立ちに顔を盛大に歪めた。地上からでは、よく知らないこの街の何処に〝鳥〟が墜ちたのか分からない。辿り着けるのか、とだんだん不安に駆られる。
暑さもあり疲れも出て緩みはじめた足元に、黒い影が湧いた。地面からハティが現れる。
『乗れ』
リズにだけ伝わる念で、ハティが呼び掛ける。リズはすぐさまハティの背に飛び乗った。狼はリズよりも遥かに速く街中を駆け抜ける。
『留めは刺してある』
「でかした」
さらにリズを迎えに来てくれるあたり、なんて優秀な使い魔だろうか。
ルクトールの中心よりも少し北の辺りに、〝鳥〟の死体はあった。騒ぎになったのか、眠りから目を覚ました住人たちが、ぽつぽつと寝間着姿で野次馬に来ている。彼らに敵襲のことを伝え、落ちついて家族のもとに戻るよう指導してから、リズは魔術の火を灯して屈み込み、死体を観察した。
闇に紛れていただけあって、鴉のように黒い躯は、人間の大人と変わらない大きさだった。頭は小さく、嘴があって、虹彩部分で埋まった眼孔。広げられた翼。鉤爪の脚。ただの鳥のようだが、大きさからいってまず魔物だろう。首が変な方向に曲がっているのは、おそらくハティが折ったからだ。
では、何故急に、こんな魔物が街に現れたのか。
「リズ!」
飛び込んできた声に、顔を上げる。白い狼に乗ったグラムだ。リグが約束を果たしてくれたらしい。
「何だった?」
「魔物だった」
スコルから下りたグラムも、立ったまま死体を見る。異存はないようで一つ頷き、こちらに顔を向けて空を指差した。
「残念だけど、増えた」
顔が引き攣る。つまり、魔物の襲来は一体だけではないと。
「城壁から弓兵が対処してるけど、いくつか街中に逃がしてる。俺らはその対処だ」
「マジかー」
再び狼の背に乗る。二頭の狼たちは足場をうまく見つけて、集合住宅の屋根の上までリズたちを運んでくれた。
平らな屋根の上。光源の乏しい中で、かろうじてその姿を見つける。三体ほどいるだろうか。体表が暗い色なので見落としてしまいそうで、リズは気を張り詰める。
「どうするよ?」
「おびき寄せる」
街中の屋根の上を飛び回るより、襲い掛かってくるところを迎え撃ったほうが気が楽だ。
リズは〈精霊〉ダガーを喚び出した。黒い少年は、火の〈精霊〉。リズが得意でない火の魔術を、代わりに請け負ってくれる。
三人の頭上に大きな炎が浮かぶ。ひとたび地に落ちたら街の一角を焼き尽くしかねないほどの大きさの灯りは、ダンスホールの天井にぶら下がるシャンデリアの如く辺りを照らした。杖を
「来た来た、
片方の剣の柄を両手で握り、剣先を天に向けて掲げるように持つ。魔力を屋根に突き立てたもう片方の剣に飛ばして、紫色の魔法陣を描いた。
「歓迎してやるよ」
風の魔術が、辺りの気流を乱す。突然の乱流に、鳥の魔物たちが体勢を崩した。そこをさらに屋根の上へと吸引する。
剣が届くところまで近づいた魔物を、グラムが見事な宙返りを決めながら、叩き落としていく。リズもまた氷の塊で相手を撃ち落とし、手にした剣で留めを刺した。ここまでしてもまだ届かない相手は、ダガーが頭上の灯りから火の玉を飛ばして対処していく。
五体ほど墜ちたのを目端で捉えたところで、リズは焦りを覚えた。どれほどの魔物が投入されたのか。これが序幕であるなら――どれほどの敵が、まだ隠れているのだろうか。
これからの展開はどうなるのか。自分たちはどう動くべきか。
今、目の前の敵を片付けないことには、どうしようもない。それを頭では理解していながらも、
「とっとと墜ちろ、鳥どもがっ!」
荒ぶる気持ちが魔術に乗って、辺りの気流をさらに乱すのだった。
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