理想

 階段を上り、白壁の地上に戻ってきたユーディアは、後ろから腕を掴まれた。物言いたげなマリアを振り返り、ユーディアは厳しい眼差しで褐色の目を見返す。腕を掴まれてこそいるが、糾弾するのは自分のほうだと思っていた。

 それほどに、ユーディアは怒っていた。

 ユーディアは視線だけを一度、マリアの手元に落とす。ユーディアを掴んでいないもう一方の手には、円を折った板状のものがまだ握られていた。

「それは何?」

 厳しい糾弾に、マリアはユーディアから顔を逸らした。この廊下だけを照らす壁の篝火が、髪の短い彼女の顔の陰影を濃くする。

「……笛よ」

「笛?」

 理解できなかったのではなく、彼女自身に説明させたくて、聞き返す。

「地下の獣を操ると」

「その獣って?」

 マリアは押し黙る。後ろめたそうな表情に、ユーディアはいよいよ憤慨した。知っているのだ、合成獣キメラのことを。

 マリアは同僚、ユーディアと同じ神殿騎士だ。武を行使するものの、神に仕え人民に尽くすのが本分であることは、神官たちと変わらない。

 秩序の番人。自分たちを、そう思っていたというのに。

 今ここで行われているのは、世界を混沌に突き落とす所業。それが、神殿騎士たちによって、率先して行われているだなんて。

 もはや言葉にならず、ユーディアは奥歯を噛み締める。そんな様子のユーディアに、マリアはおずおずと声を掛けた。

「ユーディア……仕方がないのよ」

「何が?」

 苛立ちを含んだ声に、マリアは口を噤む。話にならない、とユーディアは唯々諾々と従っているだけのマリアを見限った。彼女の手から笛を強引にもぎ取る。マリアの手が一瞬追いかけたが、無視してショートパンツのポケットに突っ込んだ。

「クラウスは何処?」

 詰問に顔を上げたマリアは怯えていたが、ユーディアにはどうでも良かった。睨みつければ、大人しく白状する。ユーディアはそのままマリアを置き去りにし、教えられた部屋――王の執務室に向かった。

 クラウスがいると知っているからか。執務室までの道のりは、他と違って灯りが点いていた。以前はどうか知らないが、アリシエウスの城は、夜が更けると不必要な場所の灯りを落とす。逆に言えば、ある時間が過ぎても灯りの点いているところは、まだ利用者がいるということで。

 城に来てからのユーディアは、そういった場所を重点的に探っていた。秘密があるとしたらそこだ、とあたりをつけていた。特に、地下へと至る道のりが毎夜篝火に照らされているのが気になっていた。それが見事に的中していたというわけだ。

 アリシエウスの者たちから奪い取った執務室に辿り着く。ユーディアは、入る、とだけ扉の外から告げて、返事も待たずに部屋に押し入った。

 突然のユーディアの訪問に、クラウスは驚いた様子もなかった。書き物をしていたところを顔を上げ、いつも通りの兄の表情で、肩をいからせて近寄るユーディアを見る。

「夜更かしだね、ユーディア」

 まるで子どもを相手しているかのような言葉に、ユーディアは両手を執務机に叩きつけた。

「地下のあれは何?」

 頭が沸騰しそうなユーディアの形相を見ても、クラウスは困った顔をするだけだった。

「勝手に行って、いけない子だね」

「ふざけないで!」

 幼馴染という間柄から、子ども扱いされることはままあったが、今ばかりは我慢ならなかった。そういう話ではないし、問題のすり替えは許さない。

「合成獣にまで、手を出したの?」

 背筋を伸ばし、クラウスを見下ろす。両側に下ろした手は拳を作り、唇は引き結ぶ。

 アリシアの剣を求めてアリシエウスに侵攻したというだけでも信じられなかったというのに。そんな仁道にもとる行為にまで手を出しているとは、信じられなかった。それはユーディアの知っているクラウスではないし、神職にあるまじき行いだ。

「〈手記〉を手に入れた、と私が言った時点で、その可能性は考えていたんじゃない?」

 問い返されて、ユーディアは押し黙る。まったく考えていなかった、とは確かに言えない。そもそもユーディアは、禁術はそれしか知らないのだから。

「……貴方たちは、何がしたいの」

「新しく、あるべき世界を、今こそ実現する」

 それはおそらく、破壊神が機能している世界のことだろう。エリウスは、アリシアが役目を放棄したことが気に掛かっていたというのだから。

 それは、理解できなくもない。だが――合成獣とはどう関係がある?

「あんな哀れなものが居る世界が、理想の世界なの?」

 人の都合で作られ、そのくせ生態系を狂わせると迫害され、忌み嫌われて、追いやられて。行き場のない生き物が居る世界の、何処が理想的だというのか。

「あれはただの小道具だ。引き立て役には、うってつけだからね」

 そもそも生き物として扱う気さえないと知り、ユーディアは激昂した。

「命をなんだと思っているの!?」

 しかしクラウスは、マリアとは違い、涼しい顔をしていた。いや、むしろ興奮しているこちらがおかしいような顔で、冷静にユーディアの目を見つめ返す。

「……失望した?」

 またしても指摘される。だが、再会したときとは違い、ユーディアは今回は肯定した。

「ええ」

「私が――エリウスが、君の思った通りの人物ではなかったから、君はそうやって腹を立てているわけだ」

 ユーディアは目を瞬かせて、まじまじとクラウスを凝視した。

「…………違う」

 ゆるゆると首を振る。そんな単純な話ではないはずだ。

「そう? 君はエリウスに仕えてたのに。あちら側についたのは、神様エリウスが期待外れだったからだろう?」

「それは――」

 その通りだ。ユーディアは創造神を慈悲深い神だと思っていた。けれど、実際は違った。ラスティやアリシアの話を聞く限り、他人を振り回すだけの身勝手な子どもでしかなかった。巻き込まれた人たちのことを思うと憤りを覚え、だから彼らがこれ以上苦しむことがないように、とエリウスに背くことを決めた。

 それは、期待外れだったから、と言えなくもない。

 だが、何かが違う。その齟齬を言葉に表せないまま、ユーディアは呆然とクラウスの指摘を受けるしかなかった。

「君はかつて、世界のために剣を取った。エリウスの治める世界を守るため、エリウスを信じた。誰もそうしろとは言っていないのにね」

 それは事実だった。だが、何故かユーディアの胸を抉ってくる。耳を塞ぎたい衝動に駆られるのを、拳を握りしめて耐える。

「そうやって勝手に信じたくせに、今は勝手に裏切られた気になって怒ってる。そして、なんとなくあちらのほうが理想に近い気がしたから、彼の味方をしている」

「……違っ」

 そんな、子どもの駄々のような安っぽい理由ではない。そう抗議したいのに、言葉が出てこない。本当は何故なのかを、ユーディア自身が言葉にすることができなくて、何も言えなくなってしまう。

「情に流されたのもあるのかな。なんにせよ――薄っぺらい」

 頭を殴られたような衝撃を受け、ユーディアは目を瞠った。自分では、きちんと自分なりの物差しで物事を見つめ、道を選んできたつもりだった。

 それが、他人の目には全く違うように映っていたという事実に愕然とする。糸の切れた凧のようにふらふらと。そんな風に自分は見えていたというのか。

 自分は、そんなにいい加減な人間だったのか。

「しっかりしてくれ。君の志は、そんなことで容易に揺らぐようなものだったのか?」

 志。かつての自分。それはどんなものだっただろうか、と必死に頭を巡らせる。

 ――私は、いったいどうしたいのか。

「もっと物事を広く見つめるんだ、ユーディア。エリウスを――君の神様を、もう少しきちんと信じてみて?」

 この旅で自分が見聞きしたものは、すべてまやかしだったのだろうか。

 目の前が真っ暗になるような感覚の中で、ユーディアはクラウスが妙に表情をなくした顔でこちらを見上げているのが脳裏に焼き付いていた。

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