STEP2.現実には危険性があります。
現実世界には危険性がある。
例えば餓死とか。
これが「部屋」の中であるならば、貴方の健康状態を管理しているAIがちゃんと忠告してくれる。
ぶちん、と容赦なく仮想空間への接続を断ち切った後「貴方はお腹が空いています。食事を取って下さい」「水分が足りませんね。水を飲んでください。干涸らびますよ」「睡眠不足です。そのままだと死にますので、つべこべ言わずとっとと寝ろ」などなど。
もしそれらの忠告を無視すればけたたましいサイレンと共に警告してくれるし、そいつを気合いで無視してぶっ倒れれば、管理用ロボットがロボット三道徳の第一条「ロボットは人に危害を加えてはいけません。また、人に危機が迫っていたら頑張って助けましょう」に後押しされブーストされ火事場の馬鹿力的なものを発揮して「部屋」の扉をぶち破ってやってきて、えっほえっほ、と貴方を運んで治療施設に連れて行き、適切な投薬とカウンセリングを行って、心身共に健康体にした上で「部屋」へと送り届けてくれることがまず保証されている。
ちなみに、これはこれで現実世界に出るための方法ではあるのだが、問題点が多すぎるために素人にはおすすめできない。少なくとも僕は遠慮する。
というわけで、リュックサックである。
当然、現実用。
その中には、ツー子におすすめされたサバイバルグッズ一式に加え、これまた現実用の食品が入っている。現実維持物資として、栄養管理されて配給される維持食品とは異なる、現実用の、いわゆる嗜好食品。
パッケージには「スーパースマートカロリーフード」「エキストラ・スペシャリティ・オーガニック」「完全無添加食品」「SSランク機能性食品群」などの表示と共に物々しい髑髏の警告マークが描かれていて「物理的実体を持つ現実嗜好食品は、貴方の健康を損なう恐れがあります」的な文章が添えられていて恐怖を煽る。
僕はリュックサックを背負う。
入れた分量に比して思ったよりも重い――というよりも、仮想的な鞄なら反重力演算による軽量さだの圧縮構造空間による大容量だのがデフォルトで付いているので、その辺りの感覚にどうも引っ張られてしまう。
まあしょうがない。
現実というのは、非効率的で不便なのだ。
だからこそ、大人たちは仮想的なものを良しとするわけだし、そしてもちろん僕たちだって大人たちが長々と説明するまでもなく、そんなことはちゃんと知っている。
□□□
「仮想空間」はかつて「仮想現実空間」と呼ばれていたのだと言う。そこから「現実」という言葉がすぽんと抜かれて「仮想空間」と呼ばれるようになって、もう随分と経っている。
人類は社会の営みを仮想空間に移した。
学業も仕事も遊びも友情も恋も家族も全ての社会生活は仮想空間内で行われ、現実というのは肉体を維持するために必要な作業をする場所でしかない。大半の人間は、物心が付いた辺りで初期保育施設から「部屋」に連れてこられた後、そのまま「部屋」から一歩も現実世界に出ずに一生を終える。それで特に何の問題もない。
だから現実ってのは、現代人にとっては、とてもプライベートな代物だ。
人前で「トイレ!」と大声で叫ぶことを躊躇するのと同じように、声を大にして「現実!」とか言い出すことはちょっと遠慮したい。普通に恥ずかしい。子どもだって恥ずかしい。「う○こ!」とかところ構わず叫ぶ奴がいるように「現実!」とやたらと叫ぶ奴がいることは否定しない。僕は違う。
要するに、現実とか子どもっぽい。
今のご時世では、仮想的であることが知的でクールでスタイリッシュでエレガントであるとされる。あるいは大人であるとされる。大人が知的でクールでスタイリッシュでエレガントであるかは知らない。普通に人によるとしか言えない気もする。大人に言ったら屁理屈をこねるなと怒られるだろうけれど。
では、そんな世の中が不満か。
そう聞かれると、いや別に、と僕はたぶん答える。友人もきっと同じ意見だ。何たって、僕たちは生まれてこの方仮想的な環境で育ってきたのだし、そんなわけで十分に仮想的だ。
ステッキを手にし、白いひげをたくわえた老紳士の姿を選択してきた友人は言う。
「昔は良かった――」
と意味ありげに友人は言葉を区切り、裾がひらひらで装飾がきらきらで動きに合わせて形状がうねうねするドレスを身に纏った、当然ふくよかな淑女姿を選択している僕に対して、こう続ける。
「――なんてことを言うのは、年寄りだけで十分だと思わないか?」
□□□
『――と、言うわけで現実空間はですね』
と、ツー子がふくよかな胸をぽよんと張って僕に説明をする。もちろん、僕はそんなものに気を取られることはまったく全然これっぽちもなく、その言葉を真剣に聞いている。
『車に轢かれたら死にます』
「まじですか」
と思わず僕は言ってしまう。
そうか、現実では車に轢かれたら死ぬのか。
冗談にしか聞こえなかった。
『高いところから落ちても死にますし、階段を転げ落ちても割と死にます。あとはそうですね――お腹が空きすぎても死にます』
「アラームは」
『「部屋」の外では鳴りません』
「うわあ」
現実恐るべし、と僕は思う。危険しかない。
『現実世界において』
と、ツー子は言う。
『人間は脆弱です。些細なことで死ねます。「部屋」の中にいるときとは違って、即座に管理ロボットが駆けつけて完璧な救命治療をしてくれるとも限りません。死ぬ可能性はちゃんとあります』
「なるほど」
『あとは変な人に注意してください。いないと思いますけど』
「友人変な奴なんですけど」
『じゃあ十分に気をつけてください――あ、ちなみにこの説明、後で私の胸を見ていてよく聞いてなかった、とか言っても通りませんので。このまま先に進んでもよろしいですか?』
「すみません。もう一度最初からお願いします」
『よろしい』
と、ツー子はしたり顔でうなずき、説明を一からやり直してくれる。良い本だ。
『しかし貴方も』
と、説明を終えたところで、ツー子は言う。
『ご友人に負けず劣らず、相当に変な方ですねえ』
「僕は至って普通ですよ?」
『いや私の胸見過ぎですって』
「ふくよかは正義です。夢と希望が詰まっているんです」
と言って両腕を組み、今現在選択している眼鏡委員長な美少女の隠れふくよかな部分を寄せて上げて強調してみせる僕。
それに対し、ツー子は『へーそーですかー』という棒読みと無表情と頭上に浮かぶ吹き出しの中の大量の汗マークによって応じて、
『むしろ貴方のご友人がちょっと心配になって来たんですが……』
と、割と本気の口調で呟いた。
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