祭祀

宮澤浩志

第1話 第一章 帰郷


    


朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑(カンガ)ミ非常ノ措置ヲ以テ

 時局ヲ収集セムト欲シ茲(ココ)ニ忠良ナル爾(ナンジ)臣民ニ告グ……


 昭和二十年八月、戦争は終わった。戦争が終結し、日下(くさか)幸作(こうさく)軍医中尉が故郷の新潟に帰ってきたのは八月ももう終わりに差しかかろうという頃だった。新潟、とは言っても、幸作の故郷の村は上越地区のほとんど外れに構える、目も当てられないような海沿いの集落である。



 第二次大戦末期、彼は久留米の戦車第一連隊に軍医中尉として指揮班に組み込まれ、満州は牡丹(ぼたん)江(こう)に赴いていた。牡丹江では、治安の維持や住民の衛生管理を務め、戦闘での負傷者の手当て等は一切なかった。恩給は少なかったものの、それでも故郷にいる父に対して毎月、決まった額を仕送りしていた。幸作の父は集落で有数の医家で小さな診療所を構えていた。江戸末期の日下家は、曲りなりとも越後高田藩お抱えの典医として末席ながら武家の家格に預かっていた。

 満州の街並みはひどく暗鬱だった。夏でも乾いた風が辻から辻へと吹き抜け、年中、砂埃が舞っていた。そしてひどく異臭がした。アンモニアの強烈な匂いと食物が腐ったような異臭とが混然として大地から立ち上っていた。

 幸作の眼に映った満州の姿は、平穏だった。かつては理想郷と謳われた満州の面影は残っていないにせよ、建造物はいささか古びてはいるが、かつてモダンだったことを窺わせてくれた。もっともそれは日本人居住区のことで、満州人の住まう家は、雨風をしのげる程度の大変お粗末な造りだった。そこに住まう人々は片言の日本語と、満州語、あるいは中国語が混ざり合って、小さな世界ではあるもののさながら国際都市のようだった。

 満州の撫(ぶ)順(じゅん)に幸作が軍令で赴いたのは七月に入ってからだった。そこでは炭鉱の落盤事故が相次ぎ、それの現場視察に補すれ、というのが軍令の趣旨だった。〈撫順には正平さんがいらっしゃる〉。幸作は思った。

 正平(しょうへい)とは、幸作の父が運営する日下診療所の唯一の看護婦の夫である。その妻の名を朝(あさ)美(み)という。正平は三年前に本土に妻を残して満蒙開拓団の一員として満州に単身赴任していた。正平は幸作の五歳年上だが、幸作と正平はそれなりの付き合いがあった。本土で暮らしていたときは、酒に関してはまさに笊(ざる)な正平とは何度か居酒屋で酒を酌み交わしたこともあった。正平は村でも有名な荒くれ者だった。彼は小学二年生のときに、九つも年上のほとんどやくざと違わない者に喧嘩を売りつけ、返り討ちに遭い、左目の全視力を失うといった、大怪我を負わされたことがあった。正平は左目を潰されながらも相手の腕に八重歯を突き立てて、噛み付き、その腕の肉を食いちぎった。正平は肉片を地面に向かって吐き捨てると、激昂したやくざ者に半殺しの目に遭わされた。左目の失明は彼のその後の人生に重くて暗い帳を下ろすことになった。まず彼は、士官学校に入校しようとしたところ、左目の不具合が災いし、ついに入校できなかった。それから戦争も激化した頃、徴兵検査で、やはり左目の不具合から徴兵に漏れた。これが彼の苦難の始まりであった。

彼は本土で生活していたときは、漁師を生業としていた。性格はもちろん粗野で乱暴で荒々しく、世間からは爪はじきにされていたが、同じ漁師仲間には面倒見が良く、人望もあった。彼は大将気質なのであった。しかし彼には兄があったが、これが絵に描いたような犬猿の仲で、彼が満蒙開拓団の一員になったのも、兄の傍での生活に嫌気がさした結果だったのである。というのも兄の盛(もり)寛(ひろ)は正平が徴兵から漏れると、正平のことを「非国民」だとして激しく罵った。当時「非国民」と罵られるのは最大の侮辱だった。そこまで言われて、黙っているわけにもいかず、正平は満蒙開拓団の一員に加わったのである。

その当時、朝美は妊娠していた。正平は身重の妻を本土に残し、大陸へ行くことに躊躇していたが、やはり「非国民」呼ばわりされるのは、それよりも辛かった。何より自分のために朝美まで「非国民」の誹りを受けているのは忍びなかった。

正平が満州に旅立つと、ときを同じくして、朝美は産気付いた。朝美は女の子を出産した。しかし乳がうまく出なかった。女の子はその後、栄養失調から、鵞(が)口(こう)瘡(そう)に罹った。鵞口瘡とは口腔粘膜に乳粉のような白い瘡ができ、軽いものだと自然治癒に任せることができるが、重いものになるとお乳の受付が悪くなり、命に関わることもあった。朝美の子はその重い症状で、女の子が亡くなったときには、口の中に雪を詰め込まれたような、見るも無残な最期だった。朝美は女の子の葬式を済ませると、小さな骨箱を前に打ちひしがれた。



 撫順での仕事を終えた最終日、満州(ここ)に赴任してきたのも何かの縁だと思い、幸作は正平の家を訪ねることにした。夕闇に暮れる満州はひどくくたびれていた。日本人居住区に正平の家はあると聞くが、居住区には砂壁で造られた同じような質素な家が何百と連なってあり、幸作は正平の家を探すのに気が遠くなる思いがした。しかし辻を歩いていた老紳士風の男性に道を尋ねたところ、彼は訳知りで正平の家までわざわざ案内してくれたので助かった。

 幸作は扉をノックした。扉は防寒対策のために厚いと思っていたら、ほとんど塗炭(とたん)やベニヤ板で造られたような薄く乾いた音がした。扉が開くとのっそりと大男が出てきた。正平は上背が180cmもある大男で肩幅や首周りも太く、まるで扉から熊が出てきたようなものだった。三年前の正平はもっと肉付きが良く、それこそ冬眠前の熊のように肉付いていたが、今目の前にいる正平は頬がくぼんで、目と歯だけが真っ白だった。もっとも彼の左目には黄ばんだ眼帯が巻かれていた。

「若先生じゃないか!」正平は叫んだ。

 声は大きく、大陸を揺さぶるような響き方をした。

「正平さん、ご無沙汰しております」

 挨拶も漫(そぞ)ろに、正平は幸作を屋内に招き入れた。屋内は外観に違わず、質素で陰気臭かった。赤色灯のランプが吊るされ、その光の周りに虫けらがぶんぶん飛び回っていた。彼は絨毯の上に座布団を放り投げると、そこに幸作を座らせた。「グラスなんてものはねぇんだ」。彼は言った。しかし酷く汚れたアルミ製のカップを取り出し、幸作に投げてよこした。カップには「坂内」と名前が書かれていた。彼は剥き出しになった床に、座布団も敷かずに、どすりと腰を下ろした。正平は幸作に渡したカップにウォッカを溢れ出るほど注いだ。すると彼はウォッカの瓶をおもむろに口に運び、いわゆるラッパ飲みをした。幸作もカップに口を付け、ウォッカを飲む。「何ですか! これは」。幸作はむせながら叫んだ。ほとんどアルコールとドブのような味しかしなかった。正平は高笑いした。「ウォッカさ。初めて飲んだのかい? 満州(ここ)では、これが普通の酒さ」。身体が温まれば、それでいいのだと言う。

「若先生は、いつから軍務に就いたんだ?」尋ねられた。

「私は去年の十二月から軍医に志願しましたので、七ヶ月くらい前です」

「本土は大変だって、聞くぜ」

 レイテ海戦以降、日本海軍の力は半滅(はんめつ)しており、制海権、制空権共に連合国軍に抑えられていた。沖縄を占領した連合国軍は、それと同時に、ついに日本本土への爆撃を本格化させた。最初の東京への空爆は沖縄占領前の1942年四月十八日におけるドーリットル空爆だったが、それは日本軍が誤爆させたものだと、市民は思った。誰もがアメリカからの空爆を信じなかった。戦局有利のプロパガンダが流れていたからだ。

「朝美は?」と正平は尋ねた。

「朝美さんは元気ですよ。父をよく支えていただいています」

 朝美は正平のために「非国民」の誹りを受けたが、正平が満州に旅立つと、一転して同情される存在になった。「あんなクズの下に嫁いで不憫だねぇ」と口の悪い男衆に言われた。朝美は村でも有数の名家の出身で、しかし彼女の家は明治維新後に落魄(らくはく)した武家の家柄だった。幼い頃は口減らしのために、東京へ女中奉公に出されていたと実(まこと)しやかに噂されていた。様々な経緯から朝美は苦労人のような印象があった。

 幸作は「どうして、カップに名前が書かれてあるんですか?」。尋ねた。すると正平は高笑いし、「若先生、ここ満州じゃあ、誰もが泥棒さ。名前を書いておかないとすぐに盗まれる。常識だぜ」。腕に止まった蚊をぴしゃりと潰して言った。この辺でマラリアの感染例はほとんどなかったが、やはりマラリアにも気を付けなければならないのだと聞く。

正平は「日本は負けるよ」と出し抜けに言った。幸作はぎくりとした。ウォッカを飲んで、再びむせた。正平は「俺が日本に帰る日もそう遠くはないだろう」。皮肉に歪んだ笑顔を浮かべた。続けて「俺の船はどうなっている?」。尋ねられた。幸作は「はい、無事ですよ」と答えた。「輪宝丸は漁協長が管理してくれています」。正平は少なからず驚いた様子で「巌のクソじじぃが?」と言った。

 巌(いわお)。姓を磯崎(いそざき)という。随分昔から漁協長を務めている爺さんで、歳はもう喜寿に差しかかっている。現在の漁協は解散されていた(結社の自由が治安維持法で認められていなかったから)が、未だに漁協長の呼び名がしっくりくる老人だった。

 正平は巌とも仲が悪かった。巌も正平を毛虫のように嫌っていたが、正平の漁師としての素質と実力を最も知り抜いていた。

「炭鉱の仕事はどうですか?」幸作が尋ねた。

「みんな、背を丸めながらもぐらみたいに穴を掘っているよ」

「私も撫順での滞在期間中、炭鉱現場の実情をつぶさに査察して参りましたけれども、聞きしに勝る悪質な就業条件で、驚いている次第です」

「俺は早く海に戻りたいんだ。こんな炭鉱現場とはおさらばしてな。巌のクソじじぃに借りを作ったのは癪だが、日本が負けを取れば、俺は帰れる」

幸作は「人前で、『日本が負ける』なんて口にしない方がいいですよ。いらぬ誤解を招きますよ」。注意した。すると正平は再び高笑いして、「本当のことを言い当てて、何が悪い」と逆に問い質して来た。幸作は「私は軍人の端くれです。そんな話題には敏感なんです」。説明した。

「いいか、日本は負ける。これは絶対だ」と正平は断固とした口調で言った。「今や伊に続いて独も降伏した以上、この世界で連合軍を敵に回しているのは世界広しといえども日本だけだ。勝ち目なんて、初めからなかったのさ」

 第二次世界大戦は日本の降伏を以って終結する。しかし――

 日本国民は最後の一人となっても強靭な敵を前に牙を立てるのだ。

 正平は大東亜戦争の狼煙が上がったときから一貫して日本の勝ち目なし、を高らかに叫んでいた。軍国主義、あるいは戦争一色に染められていた世間は、当然、激しく正平を非難し、排斥しようとした。まるで集団発狂したようなものであった。真珠湾攻撃の成功を聞いた国民たちは諸手を上げて拍手喝采を送った。正平の言葉は「非国民」の遠吠えとして、誰一人として耳を傾けようとする者はいなかった。あるいは正平のような異分子は特高(特別高等警察)によって排斥されるのだった。

「今や石油は血の一滴だ」と正平は言った。「それを産出しない日本がどうやって勝てるって言うんだよ」

 ところが日本は石油産出国であるインドネシアをオランダから解放し、石油資源を手に入れることに成功していた。しかしその後の海戦で惨敗し、制海権を失い、兵站と補給線を絶たれてしまった。なので、日本本土に石油を輸出することができなくなっていた。日本は戦線を広げ過ぎてしまったために、兵站と補給線が伸びに伸びていて機能不全を起こしていたのであった。

幸作は「日本は――」と言いかけたが、言葉を呑んだ。その代り「負けません」とだけ言った。 

正平の家には一時間ほど滞在した。例のウォッカをカップ一杯分飲んだが、それで頭がくらくらした。日本も酒に酔ったような状態で戦争を始めたのではないか。



 それから幸作に再び辞令が出た。今度は横須賀の海軍工廠を補すれ、というものだった。幸作は日露戦争のときに活躍したという、ほとんどボロ舟と化している巡視船に命懸けで乗り込んで本土の土を踏みしめた。さっそく横須賀に赴くと、そこは厚さ数cmというほどの脆いベトンで鎧われた、海軍工廠と軍港の姿があった。ほとんど機能を停止している軍港は、本土決戦に備えて、塹壕(ざんごう)を掘っていた。誰もが悲壮な顔をして塹壕を掘る姿は異様な気配に包まれていた。「本土決戦」。その気配は濃厚だった。「玉砕」。「特攻」。この年代ならば、誰もが骨の髄に至るまで覚えさせられた概念であった。そして日本人は神の子孫であること。神の名に恥ずべき行いをしてはならないということ。

 幸作はそこで終戦の詔(みことのり)を聴いた。

 暑い日だった。大地からは陽炎(かげろう)が立ち上がり、街の風景を、あるいは何もかもをゆらゆらと歪めたものにしていた。セミの羽音さえ歪んでいた。

 大切な訓示がある、と言われ、ラジオの前に整列した。幸作は海軍工廠にいた二個大隊二百数十名と共に整列していた。まさか――と軍人ならば誰もが予感した。正午。それは始まった。ノイズの音が聞こえる。和田(わだ)信(のぶ)賢(かた)放送員の声が臣民に屹立を促す。続いて情報局総裁の声が天皇自らによる勅語の朗読であることを宣した。これだけでも異常事態であることは疑いようもなかった。一般に玉音放送とは終戦の詔のことを指すが、その内容はどうであれ天皇自らによっての勅語朗読のことを玉音放送という。なので、玉音放送は過去に数例の例(ためし)があったのである。「君が代」の奏楽が始まった。そして――


 ――爾臣民其レ克ク朕ガ意ヲ體セヨ


 放送の最後に、「君が代」が虚しく響いた。誰もが忘我した。崩れ落ちる者も出た。皇居の方角に向かって拝礼する者もいた。幸作も涙が噴き出していた。戦争のない大正という時代に生を受け、その成長期を戦争の中で過ごしてきた。その四半世紀は孤独とナショナリズムと言った背反するはずの概念との戦いであった。戦前教育というと実に胡散臭いようだが、教育勅語は日本を世界最高峰の道義立国へと導いた。幸作は放送を聴き終ると、空を仰いで、両手を広げて、「日本は……勝った」とつぶやいた。何度も何度もつぶやいた。

 上官をしていた野田(のだ)喜三郎(きさぶろう)大尉は「諸君、これが最後の軍令である」。しばらく間を置いて、「解散!」と怒鳴った。

 日本は明治維新を経てから連戦連勝を繰り返し、初の敗戦は日本全土がまさに焦土と化すような敗北を味わったのだ。こうして日本は八年に及んだ戦争に幕を引いた。

 幸作は解散すると、今や記念艦と呼ばれる三笠の前まで足を運んだ。そこは公園になっていた。戦艦「三笠」は日露戦争の折り、旗艦としてバルチック艦隊を打ち破り、佐世保港内にある軍港に凱旋を果たした。しかし何かしらの爆発事故を起こし、そこに沈んだ。まるで日本の将来を暗示しているかのようだった。巨大な夕日が三笠の威影を映し出していた。すると野田大尉も三笠公園を訪れた。野田大尉は旧時代的ではあったものの、性格温厚で、隊員の誰からも敬われていた。「君は」と野田大尉は言った。「これからどうするつもりだね?」。尋ねられた。幸作は自分が何をすべきか迷っていた。帝都の復興の一助を担うか、広島か長崎へ派遣医師として赴くべきか、それとも――、考えていた。それを正直に野田大尉に話すと、彼は「迷っているなら故郷(くに)へ帰りたまえ。君を待ってくれている人々がいるんだろう」と沁み入るような声で言った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る