第5話

「私は、消えたく、ないよ」

 明莉は切れ切れにそうこぼした。震え、掠れた小さな声が、静寂の中に響く。

 神様に見つめられたその瞳が、不安げに揺れる。

「……そうか。それならば、わらわも助力は惜しまぬ。明莉、お主の未練はなんじゃ?」

 神様の、明莉に語りかけるその声は、暖かい。

 そして、それに応えるように、明莉は顔を上げる。

「それが……わからないの。私、どうすればいいの……?」

 潤んだ目から、大きな雫がこぼれおちる。明莉の頬を伝って落ちていくそれらは、実体を持たず、床を濡らすことなく、消えていく。

「明莉……?」

 私は思わず明莉の名を呼ぶ。一瞬、彼女の姿が揺らいだような、そんな気がしたのだ。

 神様もその違和感に気付いたのだろうか。先程の柔らかい笑みを消し、真剣な表情で口を開いた。

「泣くでない、明莉。お主が未練を果たす事に絶望してしまえば、それこそ成仏するための道は絶たれてしまう。絶望に蝕まれた霊の末路は悲惨じゃよ。悪霊となってしまえば、死神に祓われて消滅するしかないのじゃから」

 それは、憂いを含んだ声で語られた。神様はおそらく、そうなってしまった幽霊を何度も見てきたのだろう。

「哀しい、出来事じゃった。完全に悪霊化した霊に対して、わらわがしてやれる事など無かった。悪霊は自我も記憶も手放して、祟りを撒き散らす。生前、或いは死後に幽霊として、大切だと話していた者達さえ、傷つける。わらわがこの地の守り神として出来たのは、精々死神に連絡して被害が拡大する前に祓ってもらう事くらいじゃった」

 神様が、本気で哀しんでいるのが伝わってくる。何かが胸に染み込んでいって、息が出来なくなってしまいそうな、そんな感覚に襲われた。

「もう二度と、あんな事になるのは御免じゃ。……良いか、明莉。心を強くもって、足掻くのじゃ。そうすればきっと、自ずと道は開ける」

「うん。……私、頑張るよ」

 明莉は涙を拭って、そう声を張り上げた。その目から弱々しい色は消えている。代わりにあったのは、彼女の意思の強さを象徴する、眩いばかりの光だった。

 ああ、そうだ。私の知る明莉は、こういう人間だった。誰もが「もうダメだ」と思うような状況でも、一人笑って、全てを解決してしまうような、そんな人間だった。

 だから、みんなに慕われていた。良くも悪くも、彼女の自信に満ちた姿は、周囲の人間を巻き込んでいく力を持っていた。

 明莉の言葉によって、悲哀に満ちた部屋の空気が、和らいだ。

「うむ。わらわに出来る事があれば、いつでも力になろう。頑張るのじゃぞ」

 不意に、神様が明莉に近付いて、彼女の頭を撫で始めた。その顔は、母性を感じさせる笑みをたたえている。さながら聖母のようだ。神社に祀られる神様にこんな比喩を使うのも、変な話ではあるが。

 明莉はどこかくすぐったそうにして、自身の頭を撫でる手を受け入れている。

「ありがとう、神様」


 ✿


 拝殿を出ると、雲の隙間から差し込む光が目に映った。

「あ、ちょっと晴れたよ!ほら姫乃ちゃん、早く行こう?まずは情報収集。ぼんやりしてる暇なんかないよ!!」

 明莉も、生きていた頃と同じ天真爛漫さを取り戻している。

「あー、はいはい。行けばいいんでしょ。で?どこに行くのよ」

 面倒ではあるが、さっきの泣き顔よりは余程まし、といったところだろうか。

「あ、考えてなかった……」

「はぁ……。ちょっとは考えてものを言いなよ。とりあえず今日は帰って作戦たてるよ」

「りょーかい!」

 なんて、昔みたいな会話を繰り広げながら、参道を歩いて行く。

 その時、鳥居の方から人影が近付いてくるのが見えた。

 私達は一瞬顔を見合わせた後、口を閉じる。明莉と話しているところを見られるのはまずい。普通の人からすれば、私が誰も居ない所にむかって喋っているように見える。

 やって来たのは、黒い和服をまとった若い男だった。参道の端をゆっくりと歩いている。

 そして、私達とすれ違うその瞬間。男は不自然に参道を外側に迂回した。

「何してるんだろ……」

 そう呟いて、隣に視線を向けると、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした明莉が目に入った。

「あの人、今私の事避けてた……。どうして?普通の人には、私の姿は見えないはずなのに」

 確かに、おかしい。明莉が見えるのは、私の他には巫女や神様のような、霊現象に通じる者だけだ。しかし、そういう人間なら、明莉が幽霊だと判別できるはずだ。それなら、どうして彼女を避けて歩いたのだろうか。というのに。

 訳も分からず、私達は逃げ出すかのように、走って家路についた。

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