濃い霧が出ていた日、どんな本でも揃う本屋で神話のエピソードをひとつ教えてもらった話
子どものころ、逃げ場はいつも通学路にある本屋だった。
学校の図書館にはない大人向けの本や専門書、見たことがない国や人が映った写真集、なにが書いてあるのかさっぱり分からない外国語の本などが背の高い本棚に並んだその本屋は、わたしにとって別世界への入り口のようだった。店のおじさんは、いつもどこか不機嫌そうな顔をしていたけれど、長いこと立ち読みしているわたしを見逃してくれていた。
狭くてほこりっぽい通路は隠れるにも都合が良くて、わたしを探して騒ぎながら歩くクラスメイトたちの声が遠ざかるのを、どきどきしながら待っていた。電灯には埃が積もっていていつも薄暗く、じっとしているとだんだん遠近感と通路の境界がぼやけてきて、本の洞窟がずっとずっと遠くまで続いているような気がした。
濃い霧が出ていたその日、クラスメイトは相変わらず、わたしに水をかけたりかたつむりを投げつけたりしてきた。わたしは走って逃げて、いつもの本屋にたどり着いた。
いつものように奥まで逃げ込もうとして、突然、足がすくんだ。外は乳白色の霧で覆われていて、ほこりっぽい店内もいつもより濁って見える。本当に外とここは隔たれているのか、逃げ込んでよいのか、考えたこともなかった思いが急に膨れ上がって、動けなくなった。
「そこにいたかー!」
「逃げるなよ、おい!」
後ろから、クラスメイトの声がする。ああ、見つかってしまう。ここだけが、わたしの逃げ場だったのに。
どうしたらよいか分からず少し前の床を見つめ続けていると、突然、大きな影がすっとそこを通った。
「こら、もっと暗くなる前に、さっさと帰りな」
低くて、落ち着いた、大人の声。初めて聞いたけれどそれは、店のおじさんの声に違いなかった。
ちぇっ、つまんねー、と悪態をつきながらクラスメイトの声が遠ざかる。それでもわたしは動けなかったけれど、おじさんがまたわたしの横を通って店の奥に歩いて行ったのは分かった。
「お嬢ちゃんは、もう少しいるといい。あのガキどもが家に着くまでな」
その言葉もどこか遠くで響いたけれど、少ししてわたしに向けられた言葉だと気付きびっくりして顔を上げた。おじさんも、こちらをまっすぐ見ていた。さっきまでもやもやした霧の一部のように思えていた店内が、ひといきにいつもの本屋に変わっていた。わたしがほっとして一歩前に踏み出すのと同時に、おじさんが言った。
「お嬢ちゃんも、今日はドジだったなあ。さっさと入っちまえば良かったのに」
「……霧が、こわくて」
初対面の人とお話なんてまず出来ないのに、するりと言葉が出てきた。返事があったのはおじさんにも意外だったのかもしれない。
「……そうか、こわいか」
のろのろと、よく立ち読みしているあたりまで来た。まだどきどきは残っていて、あまり本を読む気にはなれず本棚をぼうっと見ていると、おじさんがまた奥のカウンターから出てきて一冊の本を棚から抜いた。
「お嬢ちゃん、これは読んだか」
知らない本だったので首を振ると、そうかと答えておじさんはしゃがんだ。また驚いて思わず身体を仰け反らせたけれど、わたしの目線に合わせてくれたのだとすぐに分かった。
「神話の本だよ、面白いぞ」
わたしの動きに気付いていないのかその振りをしているのか、おじさんは気にしない様子で続けた。
「霧もなんも、怖いことなんてないんだよ。全部に神様がいるけど、神様はいつも見てるだけだから」
後から思えば、子ども向けではない、日本神話の本だった。全てのものには神様が宿る。例えばあの子たちが投げてくる水風船やかたつむりにも、霧にだって。神様はあまりなにもしてくれないけれど、いつも見ている。わたしがひとりぼっちで逃げている時も、怯えている時も、隠れている時も。
「だから、まあ大丈夫なんだ」
おじさんはそう言って、またカウンターに戻って行った。
宝物のように強く本を握りしめて、ああこの人がわたしの神様だったんだと、そう思った。
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