冴え冴えとした三日月の光る6月の夜、回転する床屋のサインポールの前で興味を向けられて戸惑うことについての話
雨が上がったので、夜の散歩に出かけることにした。部屋着のズボンだけ、高校時代のジャージに着替えて、パーカーを羽織ってしまえばもう外に出られる。
雨はやんでいたけど、傘は持って行くことにした。また降り出したとして、別に濡れても構わないのだけれど、水たまりを意味なく傘の先でさわって波紋を作ったり、誰もいない時に木の枝を下から突き上げて、水滴をどっと落としたりするのが好きなのだ。
スニーカーを履いて外に出て驚いた。雨がやんだだけでなく、雲が晴れ月が見えていた。まだ梅雨明けではないし、久しぶりに見た気がする。昼間の猫の瞳のように細い三日月。ひっそりと光をこちらに投げかけている。
ひとりで暮らし始めて本当に良かったと思うのは、こうして好きな時間に好きなことをしている時だ。私は朝からエロワードで検索かけて学校サボるし、二日かけて本格的なカレーを煮込むし、丑三つ時にポテチだって食べられる。雨上がりの夜中にひとり散歩に出かけるのなんて簡単だ。
時々立ち読みさせてもらっているコンビニの前でこっそり中を伺って、よく吠える犬がいる家の前はそっと歩き、友達の家を通り過ぎ、いつも椅子を店先に出しているリサイクルショップを窓越しに覗く。
そこは確かに私が住んでいる、私が知っている街なのだけど、いつもと少しずつ何かが違う。百八十度とは言わないけれど、六十度か四十五度くらい世界を回して、黒い分度器を被せたみたい。
ところが分度器をくるりと回して隙間をあけたみたいに、突然いつもと同じ光景が目に飛び込んで来た。
小さな床屋のサインポールが、くるくると回っている。
床屋さんがあるのは知っていたけど、ろくに見たことすらなかった。レトロな三色のサインポールは特徴的で、越してきたばかりの頃は目印にしていたこともあったけど、今ではすっかり景色の一部と化している。
なんでこんな夜中に回ってるんだろう、もしかしていつも夜中も回ってるんだろうか、飲んで遅くなった日に見た記憶はないけれど、いやでもお店の中まで明るいしこれはさすがにおかしい、消し忘れ? 見ながら考えていると、思考まで一緒にぐるぐる回り始める。
興味本位で近付いて、窓から覗いたのが悪かった。
狭い店内、大きな鏡、二台並んだ床屋さんの椅子。その間に、ひらひらのドレスを着た男の人が立っていた。
私がぽかんとしていると、横を鏡で見ようとしたのかその人は体をこちらに向けて、まさかまさかのお話だけど目が合った。
雨上がりの夜中、月明かりの下傘を振り回しながら歩くほとんど部屋着姿の女と、雨上がりの夜中、昼間と同じ明るさの床屋さんでドレスアップした男が見つめ合う。
よく見ればドレスはサイズが合っていなくて、たぶん大きいサイズの女性用を着ようとしたのか肩が合わず腰もきつそうだ。たぶん後ろのファスナーは上げていない。後ろは向かないで欲しいと思った。
その願いが通じてしまったのか、その人は横を向いたまま二、三歩あるいて、入り口のドアを開けた。カランコロン、と場違いにのどかな音がする。
いかん口封じされる、と思ったけどこの先どうなるのか興味が勝ってしまう。好奇心は猫を殺すと言うのに。さよならにゃーん。
「……何してるんですか?」
低いその声は夜の静けさによく響いた。
「……いやあなたこそ」
私の声はきっと響かない。けれどこれは決して他の人には見つからない方がいい類の出来事だから、その方が良い。
沈黙が続く。このまま新聞配達まで待つわけにもいかないから、どちらかが口火を切るのだけど、それはまた別のお話。
結局どっちもどっちだっただけ、そんなお話に続いて行く。
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