手持ちの本を読んでしまった日曜日、プールの更衣室で口の中にかすかに残っていた味についての話

 不器用にくちびるを合わせたとき、塩素の味がした。

 水泳を始めた幼いときから慣れ親しんでいるその味を、くちびるから感じたのが少し意外で、どちらのものかもよく分からなくて、笑ってしまってキスはほんの数秒で終わってしまった。

「また、あとでね」

 更衣室の前で別れるとき、いつもと同じ言葉なのに、妙に意味深に聞こえて、口元が緩む。誰も見ていないのに、照れ隠しでくちびるをなめると、今度は何の味もしなくて、ああ、持って行かれちゃったんだ、と思った。


 年がひとつ違ったから、置いて行かれるのは初めから分かっていた。

 練習が終わって更衣室でぼうっとしていると、しっかりシャワーを浴びたはずなのに、口の中にかすかに塩素の味を感じた。

 水の中で育ったようなものなので、身体中にその味や匂いはしみこんでいる。けれどやっぱり、その味はあの時の味だと感じた。

 あまりにもささやかな残滓だったので、感じた一瞬後には分からなくなってしまう。けれど舌でもう一度口の中をよく探すと、やはりかすかに塩素の味がする。

「また、あとでね」

 果たされない約束を一人で呟くのは不毛だったけど、少しだけ心が慰められる気もした。

 キスの感覚と味と声とを思い出していると唾液が出てきて、ごくりとそれを飲み込むと人がいない更衣室に嚥下の音が響くような気がした。


 * * *


 カンカン照りで外はからっからに乾いているのに、身体はじっとり汗ばんでいる。昔はこんなに暑くなかったし、いつもプールに浮かんでいたから、夏がこんなに過ごしにくい季節だったと気付いたのは水泳を辞めてからだった。

 予定のない日曜日、今日も順調に最高気温が更新されそう、こんな日はどこにも行かずにクーラーの中で過ごしたい。

「今日、何する?」

「何もしない。絶対どこにも行かない」

 タイミング良く尋ねられて固い決意を答えると、含み笑いが返ってきた。

「図書館行かない? 本、読み終わっちゃったんだよね」

「絶対行かない」

 もう一度繰り返すと、やはり含み笑い。意志を示すべくソファの上で向きを変えあちらに背を向ける。ソファの生地が肌に張り付いて気持ち悪い。ああ、プールに飛び込めたらいいのに。ゴーグルの跡が残っても、日焼けの皮を剥いたところに塩素がしみてもいいから。

「じゃあ、一人で行くから」

 がさごそと身仕度をする音がするので、そう言い出すのは分かっていた。行ってらっしゃいと言って手だけ振ろうとしたけど、ソファの上からキスが降ってきた。

 深くはないけど、触れるだけでもない、優しいキスだ。

「また、あとでね」

 行ってらっしゃいと手を振りながら、舌で口の中を探る。

 なんの味も残っていない、ただの、キスだった。

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