3月の嵐の日に、葦の生える三角州で見たまなざしが忘れられない話

 その川には小さな中州があって、夏場に強い雨が降ると沈んでしまうこともよくあった。だから、いくらそれが三月の出来事だったと言って、悪意のかたまりでしかなかった。

 ただ捨てるだけなら土手を下りたあたりに置いておくだけでも良かったのに、わざわざ石を飛んで渡り葦の原の中に放置した。

 だから人間は信じられない。それは幸運に恵まれ難を逃れ大人になった今でも変わらないし、この先も死ぬまで同じだろう。ただ、全ての人間を信じられないわけでもない。恵まれた幸運のうちいくつかには、信頼できる人間の存在も含まれていた。

 みゃあ、と鳴くとあらあらと言いながら庭を通してくれる人間や、たまに食べ物を分けてくれる人間がいる。飼われよう、一緒に暮らそうとは決して思わなかったが、ありがたいとは思っていた。

 そういう人間は、目が違う。小さかった自分を箱に詰めて置いていった人間の顔や姿はとっくに忘れていたが、暗い箱の中から見上げた目が冷たかったことだけは覚えている。同じような目をする人間を避けて生きてきた。

『ねえ、大将』

 日当たりの良い駐車場の隅で寝そべっていると、若い猫が近寄ってきた。この辺りは車が多いから、ねぐらを変えろと言っても聞かないお調子者だ。

『きのう橋の近くに仔猫が捨てられてたの、大将気にしてたでしょ? あれ、拾われていきましたよ』

『知ってる』

『あれ? 大将も見てたの? 気付かなかったな』

『おまえとは反対側にいた』

『なんだよおれにも気付いてたのかよ』

 小さな猫だったので、温めてやらないと夜のうちに死ぬかもしれないと思った。それで様子を見ていると、夕方に橋の向こうから制服姿の少女が走ってきて、箱の中身をおそるおそる確かめたあと持ち上げ、今度は走らずゆっくりとまた橋の向こうへ帰って行った。

 見たのはそれだけだ。果たして本当に善意の拾い主か、少女の家族も仔猫を迎え入れてくれるか、確認するほどこちらも暇ではないし興味もない。

『あの子の家知ってます? いい家族だよ。お母さんが猫好きで、時々世話になってんだ』

『……おまえ、追いかけたの? 暇なやつだなあ』

 呆れて思わずふっと笑うと、鼻先を風がくすぐってひげがぴくぴく動いた。

 昨日が晴れで良かった、と思う。己が捨てられたあの日は雨だった。みゃあみゃあ鳴いていると、橋の上でそれに気付いたらしい小さな体がこちらを見下ろして大きな瞳を見開いたのを今でも覚えている。雨で増水した川を渡ることも出来ず、潤んだまま引き剥がされた視線も。

『だって責任があるでしょ、見届ける責任』

『ないよ』

 生きるも死ぬも運次第で、そこに誰の責任も存在しない。けれどひとつ言うならば、あの手の目をした人間は信じられると言うことだ。

 小さな猫に差し伸べられた少女の目も、ときどき助けを差し伸べてくれる人間も、みんな、あの時橋の上からこちらを見ていた目と同じ色をしている。

 だから、あの時のちいさな人間が昔のことを気に病んでいないといいと願う。ずっとそれに助けられて生きてきたのだ。

 若い猫がまだなにかぶつぶつ言っている。聞いているふりで、目をつむった。

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