まだ寒い引越しの前日の朝、衣擦れの音に耳をすませたままで時計仕掛けの心を手に入れた話

 明日、わたしは、ここを出て行く。


 自分に何度も言い聞かせた言葉を、もう一度心の中で繰り返す。子どものころ、いつ、どこで、だれがなにをしたかという言葉を組み合わせて遊ぶゲームがあったと思い出す。呪文のように何度も繰り返したフレーズは、そのゲームでたまさか出来てしまったような単純さで、なんの面白みもない。


 明日、わたしは、ここを出て行く。


 薄い壁を隔てた向こうでジリジリと古めかしい目覚まし時計の音がして、ほんの数秒で止まった。

 うるさい音に起こされて、目はつむったまま、布団から手を伸ばして目覚ましを止める。わたしはその動きひとつひとつを正確に思い浮かべることが出来た。その後、少しだけ二度寝の誘惑に負けそうになりながら、のろのろと動き始める、その一挙手一投足も。

 さよならと言えばそれだけで強い心が手に入れられると思っていたし、何もかも忘れて新しい生活を始めることが出来ると思っていた。たぶんわたしは、季節を間違えたのだと思う。これが冬でなかったなら、きっと流れる汗と一緒に手のひらやくちびるの感触も消えてしまっただろう。針で刺されるような冬の冷たさは、入れ墨みたいにわたしにきずあとを残した。

 隣室からクローゼットが開く音がした。ここは世界から切り離されているみたいに静かで、わたしたちしかいない。耳をすませば、さらさらと衣擦れの音まで聞こえる気がした。

 いくら壁が薄いと言ったって、そんなわけはないのは分かっている。これはわたしが覚えているだけ。あの目覚ましでわたしの意識も浮上して、むこうが動き始めてわたしも微睡んで、身支度の音で目を覚ます。そんなかつての日常を、耳が勝手に繰り返しているだけだ。

 わたしは、わたしのために繰り返す。強くなるために繰り返す。


 明日、わたしは、ここを出て行く。


 その直後、けたたましい電子音が鳴り響いた。手を伸ばしてスマートフォンを探し、アラームを止める。これからわたしは、このアラームで起きるのだ。あの目覚まし時計とはかけ離れたこの音は、わたしの弱さでもありこれから得る強さでもある。

 ただ、十分に強くなるそれまでは、わたしはこの音で心を鎧わなければならない。

 さあ、心はしっかり整った。わたしは起き上がり、ここで過ごす最後の一日を始める。


 明日、わたしは、ここを出て行く。

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