習作シリーズ(#さみしいなにかをかく)

なかの ゆかり

大粒の雹が降った1月の末の朝、ぎしぎし鳴る廊下で去年のことを考えていた話

 いつもより早く目が覚めたのは、昨日の夜雹が降ったせいだろう。雨とも雪とも違う、質量を持った物質が古い屋根に当たると音が響いて、天文学的な確率で屋根を突き破ったそれがちょうどわたしの真上に降ってくるのではないかと思った。

 廊下に出ると、床が氷のように冷たくて自然と爪先立ちになった。息が白く残る。ここ最近朝寝坊が許されていたから、こんなに朝の気配を濃く感じるのは久しぶりだった。

 ひたひたと廊下を歩いていると、ぎし、と床がきしんだ。

 足が止まり、足の裏全体が床に着く。寒気がぞくぞくと背中まで這い上がってきて、震えた。


 一年前、この家に戻ってきたばかりでこの床鳴りに気付いて、わたしはすぐに修理すると息巻いていた。

 子どものころ、新築のこの家に移り住み廊下を歩いた時のことをまだ覚えている。あんなにぴかぴかだった家はもう、見る影もなかった。それを悲しむほど若くもなかったけれど、床鳴りは現実的な問題を伴っていた。

 どんなに注意して歩いても床はきしみ、その小さな物音で母は起きてしまった。忘れ物がある、行かねばならぬ場所があるとなかなか落ち着かないのを苦労して寝かしつけても、わたしが部屋から出るとその音ですぐに目覚めて、同じことを繰り返さなければならなかった。

 母のためにこの家に戻ってきてすぐにその問題に気付き、これを修理すれば全てうまくいくと思っていたのはほんの短い間だけだった。母と一日過ごすだけでへとへとにくたびれてしまって、結局修理の手配をすることも出来ないまま日々は過ぎてしまった。

 わたしはもう一度、わざとぎしりと音を立てて足をずらし、母の部屋の戸を引き開けた。

 わたしが子どものころから、母はこの部屋で寝起きしていた。そして母が一番最後までこの家に残ったから、床もきしむようになったのだろう。

 母は時々、賢く、優しかった母に戻った。その頻度は日に日に少なくなっていき、床のきしみは失われつつある母の声にならない叫びのような気がして気が狂いそうになったときもあった。

 嵐の中のように騒がしく、泥に飲み込まれるように静かな一年が過ぎて、あっという間に全ては帰らぬものとなった。


 わたしはもうすぐ、家族が帰りを待つ元の家に戻らなければならない。何度も片付けに来なければならないだろうけれど、この家にはもう誰も住まなくなる。

 ずっと同じ場所に立っていたので、冷たかった床もじんわりとぬくもりつつあった。体重を移動させると、ぎし、ぎし、と床が鳴る。

 あれほど疎んでいた音なのに、わたしはいつまでもそうしていたかった。

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